著者
吉本 弥生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.191-236, 2011-03

明治後期、日本の美術界においてフランスやイギリスと同様、ドイツ美術は大きな影響を与えていた。しかし、従来はフランスとイギリスにその重きが置かれ、ドイツからの影響については、あまり大きく取り上げられてこなかった。これは、当時、日本において西洋芸術紹介者としての役割を担っていた雑誌『白樺』とのかかわりが考えられる。 『白樺』は、特にフランスとドイツの哲学思想から強い影響を受けているが、ドイツからの影響は従来、初期に限定され、その後はフランスの影響下にあったと認識されてきた。そして、同時に『白樺』には、人格主義の思想を持つ芸術家が次々に紹介される。 人格主義は、その人物の世界観や思想に重点をおいた解釈方法である。日本では、阿部次郎(『人格主義』岩波書店、一九二二年)や波多野精一(『宗教哲学』岩波書店、一九三五年)の著作がよく知られ、日本への受容において彼らの功績は大きい。 しかし、日本でのこの人格主義の流れの源泉は実は、当時の受容だけによらず、それより以前から日本に定着していた感情移入説にもとをたどることができる。 感情移入説は、ドイツで盛んになった美術概念で、主に「主観の挿入」をキーワードとして対象に感情を落とし込む表現をおこなうものである。その思想を体系化したのがテオドール・リップスである。リップスの思想は、一九一〇年以前から日本でも見られる。本稿では、その紹介者の嚆矢として、伊藤尚の「リップス論」(『早稲田文学』第七二号、一九一一年一一月)を取り上げ、それとの比較として阿部次郎の『美学』(岩波書店、一九一七年)を考察した。その結果、伊藤のリップス受容の特徴がオイケンとの比較にあり、それは早稲田大学哲学科の系譜に沿っていることが解された。伊藤の「リップス論」は、『早稲田文学』に広く影響を与えた。そして、阿部にも特徴的なことに、鑑賞者が制作者の経験を自己のものとして感じる「直接経験」という鑑賞方法が、『帝国文学』で盛んに紹介された『ファウスト』を例として具体的に提示され、それが人格主義の概念を中心に受容されていったことが明らかとなった。つまり、日本におけるリップス受容は、『帝国文学』と『早稲田文学』にも共通する鑑賞における新思潮として受容されていったのであった。
著者
田 云明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.11-30, 2013-03

日中文化交流において、仏教者による文化導入の重要性が日本の特牲として指摘されている。渡唐した留学僧は、国から派遣された知的エリートとして、仏教経典を研鑚するのみならず、作詩を含む文化活動にも参加した。彼らの文壇での活躍ぶりは、すでに『懐風藻』などの漢詩集に現れている。ここで注目されるのが、僧侶による詩作に隠逸志向を表す表現が少なからず見出せるということである。仏教修行の僧侶が隠逸表現を詩作に詠み込むことは、当時の僧侶が隠者という観念上の存在と同一視される契機となった。本稿は、公的文化伝播者・布教者という特殊な立場に置かれた僧侶に注目し、彼らの詩作、彼らに纏わる僧伝に現れた隠逸表現、及び同じく文壇で活躍する宮廷人の詩作に見られる僧侶観について考察し、文学表現における僧侶と隠者のつながり、さらに日本における隠逸表現の受容と再構築における僧侶の役割を究明しようとするものである。 具体的には、まず、『懐風藻』僧伝、とりわけ留学僧の卒伝と詩作に見られる脱俗性・反俗性に着目し、隠者を彷彿とさせる僧侶像、及び詩作が帯びる隠逸志向を考察する。とくに「竹林」「佯狂」「方外士」「養性」など隠者と文学的つながりを持つ表現によって、文学における僧侶と隠者の境界がいかに曖昧になったのかを分析する。次に、主に嵯峨天皇をはじめとする宮廷人が詠んだ『文華秀麗集』『経国集』の梵門詩について検討する。とくに、僧侶と宮廷人が〈仏〉〈俗〉の対立関係にありながら、〈隠〉をもって両者を同化させようとする宮廷人の作詩傾向に重点をおいて考察する。以上の考察を通して、日本における隠逸表現の受容と再構築における僧侶の役割を明らかにする。
著者
藤原 貞朗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.221-253, 2002-12
被引用文献数
1

一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。 一八九三年にフランス領インドシナ連邦を形成し、世界第二の植民地大国となったフランスは、国際的に、政治、経済および軍事的役割の重要性を誇示した。極東学院は、この政治的威信を、いわば、学術レベルで表現した。とりわけ、活動の中心となったアンコールの考古学は、フランスが「極東」に介入し、「堕落」したアジアを復興する象徴として、利用されることとなった。学院は、考古学を含む学術活動が、「植民地学」として、政治的貢献をなしうるものと確信していたのである。しかし、植民地経営が困難となった一九二〇年代以降、学院は、学術的活動の逸脱を繰り返すようになる。たとえば、学院は、調査費用を捻出するために、一九二三年より、アンコール古美術品の販売を開始する。「歴史的にも、美術的にも、二級品」を、国内外の美術愛好者やニューヨークのメトロポリタン美術館などの欧米美術館に販売したのである。また、第二次大戦中の一九四三年、学院と日本との間で「古美術品交換」が行われ、学院から、東京帝室博物館に、「総計八トン、二三箱のカンボジア美術品」が贈られるのである。いわば、政治的な「貢ぎ物」として、日本にカンボジアの古美術品が供されるかたちとなった。 アンコールの考古学は、フランスの政治的威信の高揚とともに立ち上げられ、その失墜とともに逸脱の道を歩む。具体的な解決策を持たないまま一九五〇年代まで継続された植民地政策のご都合主義に、翻弄される運命にあったのである。アンコール遺跡の考古学の理念が、「過去の蘇生」の代償として「現在の破壊」を引き起こしてきたこと、アンコール考古学の国際的な成熟が、現地に多大な喪失を強いたという歴史的事実を確認したい。再び、アンコール遺跡群の保存活動が開始された現在、この歴史的事実を確認する意義はきわめて大きい。
著者
埴原 和郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.13, pp.11-33, 1996-03-31 (Released:2016-06-01)

奥州藤原家四代の遺体(ミイラ)については、一九五〇(昭和二五)年の調査に参加された長谷部言人、鈴木尚、古畑種基氏らによる詳細な報告があるものの、現在もなお疑問のまま残されている問題が多い。 筆者は鈴木尚氏の頭骨計測データを借用して新たに種々の統計学的検討を行い、また中尊寺の好意により短時間ながら遺体を直接観察する機会を得たので、その結果を報告して先人の研究の補遺としたい。この論文では次の点に触れる。 一、 遺体の固定―基衡と秀衡の遺体がいつの時代かに入れ替わったという疑問について、少なくとも生物学的観点から結論を出すことは困難である。また一部の特徴には寺伝どおりでよいのではないかと思える点もあるので、この問題は今のところ保留としておいた方がよさそうに思える。 二、 遺体のミイラ化の問題―遺体は自然にミイラ化したものと考えられるが、ごく簡単な吸湿処置がとられたという可能性が高い。 三、 奥州藤原家の出自―藤原家はもともと京都方面の出身という可能性が高い。 四、 エミシの人種的系統―古代・中世に奥州に住んでいたエミシは、現代的な意味でのアイヌでもなく和人でもなく、東北地方に残存していた縄文系集団が徐々に”和人化”しつつあった移行段階の集団であったと思われる。 藤原家四代に見られる”貴族化”現象―特に鼻部の繊細化(貴族化)が著しいが、顔の輪郭や下顎骨の形態は日本人の一般集団に近いので、近世の徳川将軍や一部の大名に比較すれば貴族化の程度は弱かったと思われる。
著者
山村 奨
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.56, pp.55-93, 2017-10-20

本論文は、日本の明治期に陽明学を研究した人物が、同時代や大塩の乱のことを視野に入れつつ、陽明学を変容させたことを明らかにする。そのために、井上哲次郎と教え子の高瀬武次郎の陽明学理解を考察する。
著者
森田 登代子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.29, pp.247-276, 2004-12-27

大雑書は平安時代以降の陰陽道や宿曜道の系統をひき、八卦・方位・干支・納音・十二直・星宿・七曜などによる日の吉凶、さまざまな禁忌やまじない、男女の相性運などを内容とした書物のことである。近世後期には庶民の関心をひく生活情報を加え内容を肥大化させ百科全書の体裁を帯びるようになった。これが大雑書である。『簠簋内傳』『東方朔秘傳置文"などの歴註書』や、公家武家階層が利用した百科全書『拾芥抄』をもとに大雑書が刊行された経緯から、天保年間に出版された代表的な大雑書の一つ『永代大雑書萬歴大成』をもとに考察する。大雑書に組み込まれた内容は各板元が所有する版権に大きく左右されたことを、大阪本屋仲間の記録をもとに検証し、自己株の書籍に新しい情報をつけくわえ手直し編集して出版したものが大雑書であったことを明らかにする。また各大雑書の特徴をあげ、大雑書が近世の社会・文化・風俗・生活を知る手がかりになることを強調し、ひいては絵の文化のシンクレティズムを象徴するものであったことを追究する。
著者
小松 和彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.311-340, 2007-05-21

高知県香美市の山間地域、旧物部村(この村の南半分が近世の槇山郷である)には、いざなぎ流と呼ばれる民俗宗教が伝承されている。いざなぎ流は、神道、陰陽道、修験道、シャーマニズム、民間信仰などが混淆した宗教で、その宗教的専門家はいざなぎ流太夫と呼ばれている。本稿は、このいざなぎ流太夫たちの先祖たちが関与していたと思われる「天の神」の祭り、特に岡内村の名本家の天の神祭りを詳細に記述し若干の考察をすることを目的としている。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.79-104, 1999-06-30

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。
著者
羽生 清
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p125-133, 1994-09

かつて、わが国の衣裳において、現代デザインでは見られなくなった文脈が生きていた。 衣裳は、身体に着せられたばかりではない。古代には、普段の風景とは異なった桜柳や紅葉など美しい自然の情景が、神の衣裳にたとえられた。(みたて) 近世になると、「源氏ひながた」に見られるように、町人が古代の世界を模倣し、自分を物語のヒロインに想定して楽しんでいる。(もどき) 「友禅ひいながた」では、豪華な素材にはない軽さを大切にして、折りや刺繍とは異なる染め衣裳が流行する。そこに、それまでの価値観を否定した新しい美意識が誕生した。(やつし) 華やかな友禅が粋な小紋に変わって行くと、山東京伝の「小紋雅話」のなかに、中国伝来の有職文様を解体しながら遊ぶ批評精神が窺える。(くずし) 崇高な神の衣裳から下世話な庶民の衣服へと、衣を通して時代の生活意識を見ることができる。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.527-536, 2007-05

この論文では、日文研でのCMの共同研究の成果を踏まえて、テレビ・コマーシャル(CM)による文化研究の過去と現状を通覧する。日本のCM研究は、映像のストックがない、コマーシャルを論じる分野や論者が極めて限定されていたという問題がある。CMによる文化研究という面では、ロラン・バルト流の記号分析を応用した研究が八〇年代初頭からみられた。しかし、研究の本格的な進展は、ビデオ・レコーダが普及した八〇年代後半からだった。その後、CMの評価の国際比較、ジェンダー、CM作品の表現傾向と社会の相関を探る研究などが生まれた。 現代のCM研究者は、CMという言葉から通常私たちが想像するような、一定の映像様式が存立する根本を見直しはじめている。名作中心主義による研究の妥当性、CMに芸術性をみいだそうとする力学の解明、CMを独立した単体ではなくテレビ番組との連続性の中に定位しようとする研究、CMと国民国家の関係を問う研究などが進められている。 しかしながら、CM研究をさらに進めるには、映像資料の入手可能性、保存体制などに大きな限界があり、研究環境の早急な改善が必要である。
著者
郭 永哲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.17, pp.221-254, 1998-02

日本語と韓国語とは、漢字使用や文法的構造の類似性などから他の国の言語より親密性を持っている。これらの漢字使用と文法的構造の接点は古くからあり、日韓両国語は互いに間接影響しあうようになったと見られる。韓国語における日本語との交渉という面は、歴史的には非常に古いと言えるが、その具体的接触は朝鮮通信使の使行記録からであると言ってよい。 今回の調査では、日韓併合以前の開化期教科書に用いられている漢字語を抽出し、その典拠別に分類し使用実態の把握を試みた。六種の教科書から漢字語を抽出し、それぞれの漢字語の出自を念頭において、中国・韓国・日本の辞書への登載有無を調査しつつ、各グループ別の使用実態や特徴などを調べてみた。さらに、日本語の関与による漢字語を確定し、その実態などについても述べた。今回調査した漢字語の中では、①幕末・明治初期以降、日本において西洋伝来の新しい概念を付与するために用いられた、漢籍に典拠をもつ「転用語・日本経由語」と、②日本人によって新しく作られた「日本製漢語」とが相当見出された。 抽出語をその出自別分布・使用率から分析すると、次のようなことが言える。① 籍・漢訳仏典に典拠のある語のうち、韓国・日本の両辞典に見出される語が八割を越えた。② 漢籍・漢訳仏典に典拠の不明な語は、韓・日共通登載率が約三割に過ぎない半面、韓国の辞書にのみ見られる語または死語となった語の比率が高い。③ 韓国固有漢字語は、家族制度・社会倫理・礼儀作法に関する語が多かった。日本語の関与による語は、その使用率の高い語が多い。前項③に比べて、文明開化に伴う新しい概念を表す専門用語が多く見られた。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.147-181, 2014-03-31 (Released:2015-11-11)

現在、日本では、「痴漢」による被害が多発しており、一つの社会問題となっている。とりわけ電車内における被害が多いようだ。その対策として「女性専用車両」が多くの沿線で設けられたりもしている。 にもかかわらず、「痴漢」に関する研究は非常に少ない。とりわけ文化的なアプローチをとったものは皆無に等しい。本稿は、「痴漢」に関する語義変化の時期の確定と、読みや表記に関する変化について考察するものである。本来「痴漢」は「おろかな男」という意味であり、それ以外の用法はなかった。それがある時期から現在のような性的な意味を含むようになり、現在では原義での使用例はまったくといっていいほど見られなくなっている。 先行研究によれば、こうした語義変化は二十世紀になってからの現象であるという。そこで本稿では、明治時代以降の雑誌・新聞記事、小説、辞書類などを分析対象として用い、「痴漢」の語義と読み、表記に関する変遷過程を明らかにした。 分析の結果、一八九〇年代以前は、性的な意味合いはほとんどといっていいくらい希薄であった「痴漢」という語が、一九〇〇年前後から徐々に性的な意味が付与されてゆき、一九三〇年代に現在のような意味になったということが明らかになった。それが社会問題化し、盛んに論じられるのは一九五〇年代以降であること、一九六〇年代以降は小説などでも「痴漢」が頻繁に描かれるようになること、なども明らかになった。 読みに関していえば、原義が主流だった時代は、「痴漢」を「ちかん」とは読ませず、「しれもの」などの訓読みがルビとして振られていたが、性的な意味に変化した頃から音読みである「ちかん」が主流になっていくようだ。 表記は一九九〇年代半ばまで「痴漢」と漢字で書くのが普通であったが、ポスターなどで用いられるようになると、最近では「チカン」とカタカナで書かれる場合も多くなってきた。 本稿は以上のような「痴漢」に関する事項を具体的な例を挙げながら論じたものである。 The behavior of men who touch others with sexual intent on Japan's crowded trains, commonly referred to as chikan (gropers), is a continuing social problem. Some especially crowded commuter trains even run "women-only" cars as a countermeasure. Nevertheless, there is little research on chikan, especially from the cultural point of view. This paper considers the changes that have taken place in the meaning and the way the word is written. The original meaning of chikan was "foolish man," and it was not used otherwise. Among the few works on the subject, the prevailing view is that the shift in the current meaning of "groper" occurred after the turn of the twentieth century. This study sets forth the semantic and orthographic changes in use of the word chikan that took place over time as defined in dictionaries and shown in fiction and magazine and newspaper articles since the latter part of the Meiji era (1868-1912). The analysis here shows that the meaning of the word gradually acquired a sexual connotation from around 1900 and, in the 1930s, it was used in the contemporary sense of "groper". The word chikan can be found in articles and works of fiction frequently from the 1950s onward. Concerning the reading of the characters with which chikan is written 痴漢, during the period when the original meaning of foolish man was predominant, instances in documents with accompanying rubi show that it was often read shiremono. As the usage of the word changed to indicate the meaning of "sexually foolish man," the characters came to be read in their on-readings and chikan became standard. The word was commonly written using the Chinese characters until the middle of the 1990s, but as seen on posters, signs, and notices in public areas, it is now most often written in katakana. This paper cites specific examples and sources for the various points made concerning its semantic and orthographic changes of chikan.
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.13-56, 2003-03-31

今日、日本の近現代文芸をめぐって、一部に、「文化研究」を標榜し、新しさを装いつつ、その実、むしろ単純な反権力主義的な姿勢によって、種々の文化現象を「国民国家」や「帝国主義」との関連に還元する議論が流行している。この傾向は、レーニンならば「左翼小児病」というところであり、当の権力とその政策の実態、その変化を分析しえないという致命的な欠陥をもっている。それらは、「新しい歴史教科書」問題に見られるような「日本の威信回復」運動の顕在化や、世界各国におけるナショナリズムの高揚に呼応するような雰囲気が呼び起こしたリアクションのひとつであろう。その両者とは、まったく無縁なところから、第二次大戦後の進歩的文化人が書いてきた日本の近代文学史・文化史を、その根本から――言い換えると、そのストラテジーを明確に転換して――書き換えることを提唱し、試行錯誤を繰り返しつつも、少しずつ、その再編成の作業を進めてきた立場から、今日の議論の混乱の原因になっていると思われる要点について整理し、私自身と私が組織した共同研究が明らかにしてきたことの要点をふくめて、今後の日本近現代文芸・文化史研究が探るべきと思われる方向、すなわち、ガイドラインを示してみたい。整理すべき要点とは、グローバリゼイション、ステイト・ナショナリズム(国民国家主義)、エスノ・ナショナリズム、アジア主義、帝国主義、文化ナショナリズム、文化相対主義、多文化主義、都市大衆社会(文化)などの諸概念であり、それらと日本文芸との関連である。全体を三部に分け、Ⅰ「今日のグローバリゼイションとそれに対するリアクションズ」、Ⅱ「日本における文化ナショナリズムとアジア主義の流れ」、Ⅲ「日本近現代文芸における文化相対主義と多文化主義」について考えてゆく。なお、本稿は、言語とりわけリテラシー、思想などの文化総体にわたる問題を扱い、かつ、これまでの日本近現代文学・文化についての通説を大幅に書き換えるところも多いため、できるだけわかりやすく図式化して議論を進めることにする。言い換えると、ここには、たとえば「国家神道」など、当然ふれるべき問題について捨象や裁断が多々生じており、あくまで方向付けのための議論であることをおことわりしておく。
著者
外村 中
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.21-40, 2015-03

日本の奈良の東大寺大仏(752年開眼)は、宇宙に花咲く蓮の花托に坐す仏を表したもので、世界的にも有名な芸術作品の一つである。また、日本の華厳宗の大本山である東大寺の本尊であるから、大乗仏教の最も代表的な経典の一つである『華厳経』を当時の日本人が如何に理解していたかを考察する上でも、非常に重要な仏像である。ところが、大仏は、意匠的には、華厳宗がもとづく『華厳経』よりも律宗で重んじられた『梵網経』の内容に符合しているようにも見える。その理由は、いまだ明らかにはされておらず、大仏は、実のところは華厳教主像ではなく、梵網教主像であろうとする説もある。しかしながら、やはり華厳教主像と見るべきであろう。小稿は、そのように思われる理由を整理するものである。『華厳経』の漢訳完本である『六十華厳』と『八十華厳』の内容、とくに両仏典が記す宇宙論の内容を比較分析するに、『六十華厳』の内容には重大な欠落があることが知られる。おそらくは、大仏の意匠を決定するにあたり、『六十華厳』のその欠落を補うために、『梵網経』の内容が援用されたのであろう。ただし、大仏は、積極的に梵網教主像として造られたものではなく、あくまで華厳教主像として造られたものらしい。大仏の意匠は、確かに『八十華厳』の内容とは齟齬をきたすが、実は『六十華厳』の内容とは必ずしも違うものではない。この点は、従来の研究においては注意が払われていないが、大仏が六十華厳教主廬舎那像として造られたものであることをしめすものであろう。
著者
浅岡 邦雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-214, 2003-03-31

本稿の目的は、鈴木貞美編『雑誌『太陽』と国民文化の形成』に掲載の論文、原秀成「近代の法とメディア―博文館が手本とした一九世紀の欧米」を批判的に検証することにある。