著者
黄 自進
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.42, pp.93-121, 2010-09-30

蒋介石は生涯にわたって、自分の成長経験を取り上げ、国民を激励する講演あるいは訓示を行っていた。そこでよく取り上げられたのは、母の教訓と新潟県高田連隊での軍人生活であった。八歳の時に父を失った蒋介石には、いわゆる家庭教育が当然母の教訓しかなかった。高田連隊の軍人生活が母の教訓と肩を並べて論じられたことは、彼の生涯に日本での留学経験がいかなるウエートを占めていたのかを窺わせよう。
著者
コズィラ アグネシカ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.33, pp.93-149, 2006-10-31

この論文の目的は、西田幾多郎の哲学における「絶対無」とハイデッガーの哲学における「本来的無」とが、同じ「パラドックス論理のニヒリズム」という思潮に分類できることを証明することである。「パラドックス論理の無」は、無矛盾原則に従う「形式論理の無」と違って、「有に対立する無」ではなく、「有即無」というパラドックスを意味している。西田の「無」とハイデッガーの「無」とは、すべての対立を超えると同時にすべての対立を超えない、すなわち「否定即肯定」の「パラドックス論理の無」であることを本稿にて明らかにしたいと思う。
著者
阿満 利麿
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.9, pp.p55-67, 1993-09

死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。 第一は、儒教の排仏論が進むにつれてはっきりしてくる宗教的世界観にたいする無関心の増大である。儒教は、現世における倫理を強調し、仏教の脱社会倫理を攻撃した。そして、儒教が幕府の正統イデオロギーとなってからは、宗教に対して無関心であることが、知識人である条件となるにいたった。 第二の要因は、楽観的な人間観の浸透である。その典型は、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)である。仁斎は、正統朱子学を批判して孔子にかえれと主張したことで知られている。彼は、青年時代、禅の修行をしたことがあったが、その時、異常な心理状態に陥り、以後、仏教を捨てることになった。彼にとっては、真理はいつも日常卑近の世界に存在しているべきであり、内容の如何を問わず、異常なことは、真理とはほど遠い、と信じられていたのである。また、鎌倉仏教の祖師たちが、ひとしく抱いた「凡夫」という人間認識は、仁斎にとっては遠い考えでもあった。 第三は、国学者たちが主張した、現世は「神の国」という見解である。その代表は、本居宣長(一七三〇―一八〇一)だが、現世の生活を完全なものとして保障するのは、天皇支配であった。なぜなら天皇は、万物を生み出した神の子孫であったから。天皇支配のもとでは、いかなる超越的宗教の救済も不必要であった。天皇が生きているかぎり、その支配下にある現世は「神の国」なのである。 しかしながら、ここに興味ある現象がある。儒教や国学による激しい排仏論が進行していた時代はまた、葬式仏教が全国に広がっていた時期でもある。民衆は、死んでも「ホトケ」になるという葬式仏教の教えに支えられて、現世を謳歌していたのである。葬式仏教と<現世主義>は、楯の両面なのであった。
著者
高木 正朗 森田 潤司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.159-201, 1999-06-30

前近代社会の人々は、今日の開発途上国の国民や未開社会の人々がしばしばそうであるように、頻繁に穀物の不作や飢餓に直面した。一九世紀中期日本の最もひどい凶作(不作)はベーリング海からの寒気の吹き込みに起因する天保の飢饉だった。
著者
モスタファ アハマド M. F.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.105-121, 1999-06-30

「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では『愛玩』(一九五二年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品をもってシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。 そこで先ず、安岡章太郎の心の中に「戦争」のイメージを作り上げただろうと思われる幾つかの要素が取り上げられる。1、 少年時代から、軍人だった父親の仕事の都合のせいで転校生の生活を数回も強いられ、結果的に学校嫌い・勉強嫌いになり自分の世界に閉じこもってしまうわけだ。これで彼は軍および戦争に対して自分なりのイメージができてしまったのではないか。2、 太平洋戦争の終わりころに入隊をしたときの嫌な思い出。3、 敗戦の時期を伴った安岡章太郎の発病(脊椎カリエス)およびその長い闘病生活。4、 敗戦後の安岡章太郎家族三人による生活無能力の情けなさ。5、 両親の夫婦関係悪化。6、 戦場からの父親の不名誉な帰還。7、 母親の発狂。 以上の七点の中から、この論文では、特に三点目から七点目まで取り上げてみた。これは『愛玩』からいくつかの引用と照らし合わせながら考えてみた。また、以上の七つの要素をもとに、安岡章太郎の胸の中にある種の「敗戦の後遺症」と呼び得るものができたのではないかと考えた。 結論とするところは、愛玩つまりウサギは日本国民の「精神」がシンボリックに描かれていて、安岡章太郎一家三人、つまり日本国民に敗戦の後遺症の早期回復の希望を促すものではないかというのが一つの点である。もう一つの点は、いわばこの作品ではもしウサギが日本精神を表すものなら、これはまた「日の丸」のシンボルではないだろうかという点である。ウサギの白い毛や赤い眼が大事なキーワードではないかと思われる。
著者
梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.13-23, 1989-05-21

アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-145, 1996-07-31

小稿は、空間的属性である道路から、日本古代の王権の一端を探ろうとするものである。ここで対象とする道路は大和から河内に通ずる「南の横大路」―竹内街道と「北の横大路」―長尾街道である。「ミチ」という言葉の原義は、「ミ」+「チ」で、「ミ」は接頭辞で神など聖なるものが領するものにつくという説にしたがえば、「ミチ」は本来神に結び付くものであった。 「南の横大路」の東端の延長線上に神の山、忍坂山が、「北の横大路」の東端には和爾下神社が位置することは「ミチ」の語義にかなう。忍坂山のあたりは息長氏の大和における本拠地であり、和爾下神社はワニ氏によって奉斎されたものである。したがってこの両道は大王家の外戚氏族である息長・ワニ氏に関わるものとみられる。以上のことから両氏あるいは関係氏族から皇妃を入れた大王の墳墓が、河内の竹内・長尾街道沿いにあることが伝承されることが説明でき、同時に河内王朝論には慎重にならざるをえないと考える。
著者
池内 恵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.36, pp.109-120, 2007-09-28

日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.79-104, 1999-06

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。 敗戦直後の日本は激しい混乱と変化の時期を迎えていた。かず子の手記はそのような日本の社会的状況や文化的な背景と切り離して読むことは難しい。貴族からの没落と離婚と死産を経験したかず子は、汚れても平民として生きていくことを決意する。このようなかず子の生き方は、最後の貴族として美しく死んでいった母や、最後まで貴族としての死を選んだ弟の直治とは、非常に対照的である。 かず子は強い生命力の象徴である蛇を内在化させることによって、自分の中に野生的な生命力を高めていった。また聖書の中のキリストの言葉、「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」をもって、おのれの行為を正当化し、悪賢くても生き延び、「道徳革命」を通して「恋と革命」を成し遂げる道を選ぶのである。その「革命」は「女大学」的な生き方を否定し、「太陽のように生きる」ことである。この「女大学」は、日本の近代化のなかで強化されてきた家父長制度のもとで、女性に強いられた良妻賢母の生き方を象徴している。また「太陽のように生きる」とは、明治末から大正にかけて活動していた青鞜派の女性たちを連想させており、「女大学」的な旧倫理道徳を否定し、新しい道徳をもつことである。母になりたい願望をもっているかず子は、「恋」の戦略によって、家庭をもつ上原を誘惑し、彼の子供を得た。しかしそれはかず子の「道徳革命」の一歩にすぎない。かず子が母と子どもだけの母子家庭を築き上げて、堂々と生きていったとき、かず子の「道徳革命」は完成されるのである。 本稿では『斜陽』における蛇に関する言説と日本の民間信仰、聖書との関係、家父長制度とかず子の「道徳革命」との関係などを分析しており、それらが作品の展開とテーマの形成に深くかかわっていることが明らかにされている。
著者
芳賀 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.187-209, 1997-09

夏目漱石(一八六七―一九一六)作『永日小品』は明治四十二年(一九〇九)正月元旦から三月半ばにかけて、大阪、東京の『朝日新聞』に断続的に連載された。『三四郎』と『それから』の二長編の間にはさまれた小傑作集なのに、従来あまり論じられないできたから、これを漱石の二十五の美しい離れ小島と呼ぶことができる。また作者はここで、前年の『夢十夜』にもまして多彩で多方向の詩的想像力の展開を試みているから、これを漱石の実験の工房と呼ぶこともできよう。 本稿ではそのなかから「印象」と題された一篇のみをとりあげて、これにエクスプリカシオン・ド・テクスト(文章腑分け)を試みる。ここには明治三十三年(一九〇〇)十月二十八日夜の漱石のロンドン到着と、その翌日、ボーア戦争からの帰還兵歓迎の大群衆に巻き込まれて市内をさまよった経験とが喚起されていることは、確かである。だが作者はそれらの過去の事実を故意に一切伏せて、日時も季節もロンドンとかトラファルガー・スクエアとかの地名さえも示さない。ただあるのは、この初めての異国の「不思議な町」で、道に迷うまいと重ね重ね注意しているうちに、いつのまにか顔のない、声のない、「背の高い」大群衆の一方向にひた押しに進む波のなかに「溺れ」てしまったことの、不安と恐怖と自己喪失の感覚のみである。自分が昨夜泊った宿も、ただ「暗い中に暗く立つてゐた」と想起されるだけで、その「家」の方角さえも不明になったとき、話者は「人の海」のなかにあって「云ふべからざる孤独」の深さを自覚する。 イギリス留学時代の英文学者漱石の孤独がいかに落莫として痛切なものであったかをうかがい知ることができる。そしてそれを伝えながらも、この商品は来るべきカフカや阿部公房の小説をすら予感させるものであったとも言えるのではなかろうか。
著者
末木 文美士 阿部 泰郎 司馬 春英
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、日本中世仏教の思惟方法を検討し、それを他の諸思想と比較し、現代的意味を探ることを目的とした。具体的には、(1)真福寺などに写本で伝えられる文献を調査し、その思想内容を分析した。(2)平成24年度には研究会を開催し、仏教研究者のみならず、現代哲学研究者も出席して、広い視野からの比較研究を進めた。(3)平成25年度には、中日仏学会議(北京)、世界哲学会議(アテネ)に出席して、成果を発表した。(4)比較研究を進めるために、Bernard Faureの著作Unmasking Buddhismを和訳するとともに、拙著『浄土思想論』の中国語訳、『仏教vs.倫理』の英訳を作成した。
著者
早川 聞多 鈴木 貞美 井上 章一 小松 和彦 鈴木 貞美 早川 聞多
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

日本における生命観についての学際的、総合的研究の一環として、性愛についての学際的・通史的研究を課題として取り組み、関連図書約500点余を購入し、国際日本文化研究センター図書室に入れた。最終年度の研究代表者、早川聞多は、絵画、とりわけ徳川時代の浮世絵春画を対象とし、そこに書かれた言葉と描かれた絵との関連を分析する新たな手法による研究を重ねて、徳川時代の性愛、とりわけ男色などに関する風俗全般の表象の研究を飛躍的に発展させた。前二年度にわたる研究代表者、鈴木貞美は、とくに明治後半期から大正期の生命観と性愛観の変容の過程を、進化論受容や大正生命主義などの思想史、「自然主義」などの文芸思想の展開、および文芸上の性愛の表現を探る論考を重ねた。井上章一は、風俗史の観点から、近・現代において性愛の営まれる場所の諸相の解明を中心に、未開拓の分野に成果をまとめた。小松和彦は、近親相姦の伝承に関して取り組み、その端緒をひらいた。全体としては、性愛学(セクソロジー)の隆盛の中で、手薄であったり、未開拓であったりした領域を開拓したものの、「生命観から見た性愛観」という角度に絞ったまとめがなし切れなかった。「生命観」という研究対象がアモルフなものなので、研究過程にあっては、いたしかたないともいえるが、今後は「生命観」の研究それ自体の確定とアプローチの角度の分節化など、方法の明確化が必要であるとの結論に達した。鈴木貞美がこれを今後の課題として分担することを確認し、終了した。
著者
山折 哲雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.97-105, 1989-05-21

折口信夫は、日本の文学や芸能における基本的な方法が、先行する文学や芸能の形式を模倣するところにあると考え、それを「もどき」の方法と称した。「もどき」という術語には「真似る」という意味と「抵抗する」という意味の両義性があるとかれはいう。模倣しつつ批評するというように解釈してもいいだろう。和歌文学における「本歌取り」も謡曲「翁」における三番叟の演出も、みなこの「もどき」の方法にもとづいているのである。したがってもしもギリシアの芸術が「自然の模倣」であったとするならば、日本の芸術は「芸術の模倣」から成り立っていたといえるかもしれない。
著者
埴原 和郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.13, pp.11-33, 1996-03-31

奥州藤原家四代の遺体(ミイラ)については、一九五〇(昭和二五)年の調査に参加された長谷部言人、鈴木尚、古畑種基氏らによる詳細な報告があるものの、現在もなお疑問のまま残されている問題が多い。 筆者は鈴木尚氏の頭骨計測データを借用して新たに種々の統計学的検討を行い、また中尊寺の好意により短時間ながら遺体を直接観察する機会を得たので、その結果を報告して先人の研究の補遺としたい。この論文では次の点に触れる。一、 遺体の固定―基衡と秀衡の遺体がいつの時代かに入れ替わったという疑問について、少なくとも生物学的観点から結論を出すことは困難である。また一部の特徴には寺伝どおりでよいのではないかと思える点もあるので、この問題は今のところ保留としておいた方がよさそうに思える。二、 遺体のミイラ化の問題―遺体は自然にミイラ化したものと考えられるが、ごく簡単な吸湿処置がとられたという可能性が高い。三、 奥州藤原家の出自―藤原家はもともと京都方面の出身という可能性が高い。四、 エミシの人種的系統―古代・中世に奥州に住んでいたエミシは、現代的な意味でのアイヌでもなく和人でもなく、東北地方に残存していた縄文系集団が徐々に"和人化"しつつあった移行段階の集団であったと思われる。藤原家四代に見られる"貴族化"現象―特に鼻部の繊細化(貴族化)が著しいが、顔の輪郭や下顎骨の形態は日本人の一般集団に近いので、近世の徳川将軍や一部の大名に比較すれば貴族化の程度は弱かったと思われる。
著者
石井 紀子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.30, pp.167-191, 2005-03-25

一八八〇年代から一九〇〇年代にかけて北中国ミッションと日本ミッションに赴任した医師の資格を持つ一人のアメリカ女性宣教師の本国宛の書簡を手がかりに、伝道地の主体性、宣教師の専門性、ジェンダーと伝道活動の相互作用を検討した。その結果、伝道活動を決定する要因として伝道地の事情が宣教師個人の専門性より優先することが明らかになった。本事例でホルブルックは中国で専門を生かして診療所開設の上、「医療バイブル・ウーマン」を養成できたのに対し、日本では女子高等教育の中の理科教育、家庭衛生教育の分野で自身の専門性を生かした。女性宣教師はジェンダーの分離を根拠に女性のための伝道を正当化していた上、海外伝道の目的として伝道と女性の地位の向上を矛盾したものとはとらえていなかったので、ホルブルックにとって二つの伝道活動は一貫していたといえる。
著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.297-313, 2008-09

田山花袋の『蒲団』については、さまざまに評されているが、中には、伝記的事実を知らず、ただ作品のみを読んで感想を述べるものが少なくなく、また伝記的研究も十分に知られていないのが実情である。本稿では啓蒙的意味をこめ、ここ十数年の間に明らかにされた手紙類を含めて、その成立経緯を改めて纏め、「横山芳子」のモデルである岡田美知代と花袋の関係を纏めなおし、花袋がどの程度美知代に「恋」していたのかを査定するものである。 「蒲団」は、作家の竹中時雄が、女弟子だった横山芳子への恋慕と情欲を告白する内容だが、芳子のモデルは実際に花袋の弟子だった岡田美知代である。発表以後、これがどの程度事実なのか、論争が続いてきた。戦後、平野謙は、「蒲団」発表後も、岡田家と花袋の間で手紙のやりとりがなされていることから、虚構だったとし、半ば定説となっていた。しかし、館林市の田山花袋記念館が一九九三年に刊行した、花袋研究の第一人者である小林一郎の編纂になる『「蒲団」をめぐる書簡集』により、新たな事実が明らかになった。美知代が弟子入りしてほどなく、花袋は日露戦争の従軍記者として出征しているが、この事実は「蒲団」では省かれている。だが、その際美知代から花袋に送った手紙には、恋文めいたものがあった。妻の目に触れるものであるから、花袋は冷静な返事をしていたが、花袋が帰国した後、美知代は一時帰省し、神戸で英語教師をしていた兄の実麿の許にあって、神戸教会の催しで、キリスト教徒の永代静雄と出会い、恋に落ちる。そして神戸を発って東京へ帰るのに三日かかり、途次に静雄と会っていたのではないかと疑われ、美知代が肉体関係を告白したために親元へ帰されるところで「蒲団」は終わっている。 しかし手紙を見ると、永代と知り合ってから、花袋宛の熱っぽい手紙がなくなり、花袋はもとはさほどに思っていなかった美知代に急に恋着を感じ始めたことが、その後の花袋の美知代宛の手紙に恋を歌った詩がいくつかあることから分かる。つまり真相は、美知代からの恋文があったために花袋もその気になったところへ、永代という恋人ができたため美知代の働きかけがなくなって花袋が煩悶し始めたというものであると分かり、「蒲団」は決して虚構ではなかったのである。 美知代は花袋との縁が切れてからは、繰り返し「蒲団」における、主として「田中」つまり永代の描き方に不満を述べているが、晩年には、永代との関西での同衾はなかったと主張している。しかし三日の遅延はうまく説明できておらず、説得力はない。
著者
根川 幸男
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.46, pp.125-150, 2012-09-28

小稿は、小林美登利という一日本人キリスト者の移動・遍歴の足跡を、会津、同志社、ハワイ・米国、ブラジル渡航後、一時帰国期の五期に分けてたどり、グローバルな複数地域を横断する越境史として捉えなおす試みである。小林は、会津でキリスト教に出会い、同志社人脈を通してハワイ・米本土での伝道・留学の機会をつかみ、米国で強力な支援者を得た。またブラジルではマッケンジー大学を通して人脈を構築し、日系移民子弟教育というニーズを背景に聖州義塾という教育機関を設立した。さらに日本に一時帰国した小林は、渋沢栄一の知遇を得、渋沢の呼びかけによって、日本財界から多額の寄付金を獲得、義塾事業拡張を達成するのである。彼はこの過程で、会津という地縁、同志社などの学校縁、キリスト教会という信仰縁、在米・在伯日本人というエスニック縁の活用によって、右記四地域を横断する越境ネットワークを形成した。渋沢の支援も米国内の排日運動への対応と連動しており、小林の越境ネットワークは日本の国益を背景とする彼らのネットワークに接続することによって、広がりを見せ強化されるのであった。そこには、それぞれの〈縁〉を活用し、自前のネットワークをより大きく強固なネットワークに接続していくことによって、連鎖的にネットワークを拡大していくメカニズムが働いている。こうした〈縁〉を通じたネットワークは、ブラジルという異国で小林の事業を展開するための資源として活用され、聖州義塾は小林の「真の意味の伯化」という理念にもとづき、ブラジル日本人移民とその子弟たちの二文化化のエージェントとして排日予防啓発の役割を担うのである。
著者
小松 和彦 徳田 和夫 ADAM Kabat 佐々木 高弘 横山 泰子 安井 眞奈美 常光 徹 山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2003

四年計画の研究は、以下のテーマにしたがって展開され、成果がまとめられた。1.「怪異・妖怪伝承データベース」を活用した怪異関係記録の数量的分析手法の開発:すでに公開されている民俗学雑誌記事をもとにしたデータベースを利用し、信仰や心意現象に関するデータの計量分析手法の開発と研究をおこなった。四年間の調査・研究実績は、研究代表者・研究分担者がそれぞれ論文を執筆し、報告書(冊子体)にまとめた。2.怪異関係記録の収集および分類・整理:『日本伝説体系』全17巻(みずうみ書房1982-90)、および日本全国の都道府県史(民俗編に該当するもの)などを対象に、各地域に根付いた持続性のある「伝説」を中心とした怪異・妖怪伝承についてのデータを集積した。集積方法については、すでに公開されている「怪異・妖怪伝承データベース」作成時のマニュアルを参考にして都道府県史専用マニュアルを作成、それに従って作業を進めた。なお、都道府県史(民俗編)については合計6625件の事例を収集し、カードを作成した。3.妖怪・怪異関係典籍の収集:各地域・各時代の妖怪・怪異関係典籍を中心に発掘及び収集を行った。絵画資料については、二次資料(妖怪展などの図録資料)、一次資料(絵巻物・浮世絵・黄表紙などの現物)を対象として収集を行った。4.絵画資料データベースの試作版作成:日文研所蔵の妖怪・怪異に関する絵画資料をデジタルデータとして保存し、その画像についての書誌情報のデータベース構築をめざし、研究・開発を行った。
著者
朴 美貞
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2010

「朝鮮博覧会(1929)」を契機に日本国内における「文化住宅」の朝鮮への受容と展開、京城の都市計画を中心に異文化統合に至る「植民地都市」の特質を解明した。植民地研究における非文字資料に関する史料的価値を見出し、コレクターや研究者を中心とする共同研究会を主宰した。これによりコレクターと研究者の間の乖離を把握し、相互の協力体制を整えながら非文字資料に関する評価と活用に関する将来的・総合的視点について調査・検討を行った。