- 著者
-
立川 武蔵
- 出版者
- 日本南アジア学会
- 雑誌
- 南アジア研究 (ISSN:09155643)
- 巻号頁・発行日
- vol.1990, no.2, pp.58-76, 1990-12-20 (Released:2011-03-16)
- 参考文献数
- 4
宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識した合目的的行為の形態である.いかなる宗教も「聖なるもの」と「俗なるもの」という二つの極の関係をその構造の一つの軸としている.この二つの概念は, エリアーデ, カイヨワ等によって宗教分析の有効な操作概念として育てあげられてきたが, それらは主として未開人の宗教や氏族宗教の考察に用いられてきた.しかし, 「聖なるもの」と「俗なるもの」という二つの観点から仏教あるいはヒンドゥー哲学を考察することも可能と思われる。それはエリアーデが『ヨーガ』の中で企てていることでもあった.本論文は, 大乗仏教に理論的モデルを与えた竜樹 (2世紀頃) の主著『中論』の思想を「俗なるもの」の否定により「聖なるもの」が顕現するという観点より考察するものである.「聖なるもの」と「俗なるもの」の観点は確かに一見相反する内容を指し示すと思われるような二概念による操作なのではあるが, これをいわゆる安易な二元論と考える必要はない.「聖なるもの」と「俗なるもの」の関係に応じて両者はその電荷を変える.聖性の度がゼロになれば, 宗教行為は成立しないことになる.時としては, 「俗なるもの」が聖化されて, 「聖性の度」が強いままに両者が一致することもある.『中論』では, 人間の活動一般が「俗なるもの」として把えられ, その否定の果てに, 「聖なるもの」としての空性が感得される.そして空性は聖化された「俗なるもの」としての「仮りに言葉で表現された世界」としてよみがえるのである.