著者
武藤 文人
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.10, no.3, pp.11-20, 2013-03-10

The historical acquisition of a Chinese character for tuna species in Japanese language is reviewed by examining ancient and recent literatures. A set of six Chinese characters identified as tuna and other species first appeared in around 1000 B.C. This study found historical changes of meanings of these Chinese characters express tuna species in the modern era. Findings from this study may open the door to identify historical uses and status of fishery resources from paleographical archives.漢字の鮪が日本でマグロ類を示すようになった経緯を日中の主な古典籍や本草書から追跡した.鮪とその関連漢字は紀元前1,000年の「周禮」にすでに現れ,続いて「詩経」,「爾雅」,「説文解字」にも見られたが,これらに魚種特定につながる情報はなかった.3-4世紀の「爾雅注」のころから魚種が特定される記述が現れ,諸文献の鮪とその関連文字は中国産のチョウザメ類3種のシナヘラチョウザメPsephurus gradius,ダブリーチョウザメAcipencer daburianus,カラチョウザメA. sinensisのいずれかと考えられた.鮪の字の示すと思われる魚種は文献毎に異同があるが,「經典釋文」の記述はシナヘラチョウザメによく合致し,これを「本草綱目」などの諸文献が継承したと考えられた.漢字は大陸から淡水大型魚の乏しい日本に導入され,そのうち鮪の字は記紀万葉の時代には海産大型魚の「志毘=しび」を指すようになった.江戸期には鮪はマグロ類を示すようになったが,一部の本草学者は,本来の鮪が日本産魚類に合致しないことに気がついた.しかしその魚種特定には至らないか,あるいはカジキ類等に誤った特定をした.鮪が本来示していた魚種の,分類学的な観点からの推定は長らく行われなかったが,「本草綱目」が和訳された際に,その解説で木村重がシナヘラチョウザメと比定した.木村の研究系譜は,マグロ類の研究者の岸上鎌吉と深い関係があるが,鮪の魚種推定への岸上の関与の確証は得られなかった.
著者
牛尾 裕美
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.2, no.3, pp.73-83, 2005-03-30

本稿において検討した「北太平洋における溯河性魚類の系群の保存のための条約」[以下, 本条約と略称]は, 北緯33度以北の北太平洋及びその接続海域にある公海において, 条約規定の7種類の溯河性魚類を対象とした漁獲の禁止と当該魚種の混獲を最小化することにより, 溯河性魚類の保存を促進し, 本条約の締約国である母川国の当該魚類に対する「第一義的利益」を徹底・強化しようとするものである. そこにおいてはまず, 本条約の締約国ではない国・団体が,条約区域内において条約違反の漁獲・混獲を行った場合, 国連海洋法条約及び慣習国際法との関係において, 当該漁獲・混獲の合法性の問題が生じる. 次に本条約は, 締約国に, 自国籍船が本条約規定を免れるために船籍を変更することを防止するための措置を義務づけているが, 実効性の面で疑義が呈される.更に本条約は, 条約違反の漁獲を防止するために, 合法的に採捕された当該魚類の製品であることを証明する原産地証明書に関する計画の策定を予定しているが, その策定に関しては, 締約国間における統一的・厳格な規定の制定が必要であろう. また本条約は, 条約違反の漁獲を海上において直接取り締まる権限を各締約国に与えているが, 広大な条約区域をカバーする取締手段の不足が指摘されている. 最後に, 本条約の締約国は, 当該魚類に対し「第一義的責任」も有しており, 自国EEZ内において, 総漁獲可能量とともに自国の漁獲能力を決定し, その余剰分については他国による漁獲を認めることが, 広大な公海海域での当該魚類の漁獲を禁止し, 自国EEZ内のみでの漁獲に限定した締約国の国際的責務と言えよう.
著者
山下 皓一 安間 荘
出版者
東海大学海洋学部
巻号頁・発行日
pp.33-43, 1997 (Released:2011-03-05)
著者
大塚 悠 鈴木 宏易 赤川 泉
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
海-自然と文化 = Journal of the School of Marine Science and Technology : 東海大学紀要海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.11-22, 2009

松島湾アマモ場におけるサンゴタツHippocampus mohnikeiの成魚の採集時間あたりの採集個体数(CPUE)は、2006年5〜7月は4.6-5.3で、8月に8.4に増加し、9月以降急減した。繁殖場のアマモが9月以降枯れていくために分散していると考えられる。大型の成魚は前年に産まれた個体、9〜11月にかけて採集された未成魚は、当歳魚であると推測される。成魚の雌雄の体長に有意差は見られなかった(雌、62.9±6.7mm SL;雄、66.2±8.9mm SL)。採集された全個体の性比は有意に雌に偏っており、月別では6、7月に有意に雌に偏っていた(雌/(雌+雄)6月、78.9;7月、81.3)。生殖腺の組織学的な観察では、卵巣と精巣は共に体腔背壁より伸展する生殖腺間膜によって垂下する左右一対の器官で、卵巣はのう状、精巣は管状であった。卵巣はロール状を呈する特徴的な卵巣薄板を有し、その内部には基部付近に卵原細胞が存在し、薄板の先端部に向かって卵母細胞が成長順に分布していた。精巣は肥厚した被膜で覆われ、内部には精小のうが存在していた。精巣被膜壁に沿って精原細胞が位置し、精巣内腔に向かって順次精母細胞が分布しており、内腔内には遊離した精細胞や精子が観察された。雄では5〜11月のすべての成魚で精子が観察された。卵巣では、5月末に採集された雌で既に成熟期卵母細胞が観察された。6月末にはさらに増加しており、8月末に最も成熟期卵母細胞の割合が高くなった。したがって、2006年の松島湾における本種の繁殖期は5〜9月までの5ヶ月続いていると示唆された。
著者
高橋 与四男
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.77-85, 2006-03-30

ここ数年, 文 学や映画などで純愛ブームが続いている. 文学では片山恭一作『世界の中心で, 愛をさけぶ』や市川拓司作『いま, 会いにゆきます』などがあり, この二作は映画やTV ドラマで映像化されたし, 特に『世界の中心で-』は舞台で上演も行われている. また, 小説の分野でも『世界の中心で-』が, これまでの単行本としての売り上げ総数が三百数十万部に達し, 史上第一位を記録している. これらの作品が大人気を獲得する直前には, 韓国作品の『冬のソナタ』が, 当地でも日本でも大ブレークを引き起こしたことは記憶に新しい.この異常とも言える純愛ブームという現象は, 一体何を意味するであろうか. 一つ考えられることは, いわば一種の夢物語としての純愛に潜む美なるものこそ, 桁違いの多くの読者や観客の渇望や郷愁を呼び覚ましているのではなかろうか. それは現実社会で失われつつある, 人間存在の根幹に関わる重要な真実でもあろう. 本論においては, いわば純愛物語の原点とも言うべき伊藤左千夫の『野菊の墓』を中心に, 純愛ブームの意味するものの分析を試みることにする.
著者
斎藤 俊郎 堀口 新吾 齋藤 寛 舞田 正志
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要 海洋学部 (ISSN:03753271)
巻号頁・発行日
no.55, pp.79-87, 2003-03
被引用文献数
1

現行のトラフグ養殖を見てみると、餌料にはフグ毒が含まれない無毒のものが使用されている。上記観点からすれば、トラフグの養殖は"必要物質"としてのフグ毒がない状態で行われていることになる。トラフグ養殖における重要な飼育上の問題にトラフグ同士の噛み合いがある。従来、毒であるフグ毒を養殖トラフグに投与するという発想は無く、むしろ、養殖トラフグは無毒故に付加価値が高いとの考えもある。よって、フグ毒投与が養殖トラフグの噛み合いに及ぼす影響については全く検討されて来なかった。以上の状況を踏まえ、本研究ではトラフグにおけるフグ毒の機能解明の一環として、フグ毒投与が養殖トラフグの噛み合いに与える影響を検討した。その結果、フグ毒投与が養殖トラフグの噛み合いを著しく減少させることが明らかになったので報告する。
著者
Aydan Omer
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
海-自然と文化 = Journal of the School of Marine Science and Technology : 東海大学紀要海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.6, no.3, pp.19-38, 2008
被引用文献数
1

2004年12月26日のスマトラ沖大地震以来大きな災害をもたらした6つの大地震がインドネシアに発生した.2004年アチェー地震 (スマトラ沖地震) はこの世紀の強大地震の一つであり, その地震に伴って発生した強大津波によって20万人以上の犠牲が出た.インドネシアは3つのプレートが存在する地域に位置している.インドネシアを含む東南アジアの各国はGPS 観測網を設置している.リアルタイムGPS 観測は地震ハザード評価に関して大変重要であるが, これらのGPS観測網の大半はリアルタイムに地殻の変形を観測していない.著者はトルコ, 台湾や日本におけるGPS 観測網よりの観測データを用いて地震の危険性の高い地域とその時期の推定などについての研究を進めてきている.GPS 観測結果の評価と解釈について開発した手法を用いて地震が発生する地域の同定と発生時期の推定が可能であることを明らかにしている.本論文で開発した手法を用いてスマトラ島に重点を置きながらインドネシアにおける地殻のひずみ・応力変化を求め, その地震活動との関係や地震発生の危険性が高い地域について検討を行っている.また, スマトラ島沖およびスマトラ島内の内陸型地震の可能性を検討し, 近い将来発生する可能性が高いM8.7クラスの発生地域とその地震動を推定している.さらに, 地震とその津波災害を低減するため予防防災の観点から構造物の耐震補強と津波対策について提言している.
著者
五十嵐 博
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
海-自然と文化 = Journal of the School of Marine Science and Technology : 東海大学紀要海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.6, no.3, pp.39-54, 2008

本稿は, メルヴィルの第3作『マーディ』の構成, プロット, および登場人物たちを分析し, 作品に宿されている寓意的・象徴的意味を解明しようとするものである.プロットは神秘的で謎めいており, この寓意ロマンスに隠れた意味があることを暗示している.プロットの本流で発生する3つの出来事, すなわち主人公と純真無垢なイラーの出会い, イラーの失踪, そしてイラーを再発見し取り戻すための長旅が, 作品構成の言わば竜骨を形成している.失われた純潔と純真無垢の探求はマーディ中で行われるが徒労に終わり, マーディは罪悪多き現実の人間世界の縮図となっている.登場人物たちはメルヴィルの代理人もしくは分身として見て取ることができる.主人公のタジはメルヴィルの本能を, ババランジャは理性を代弁し, 復讐者たちは罪の意識を, ホーシャの使者たちは性の誘惑を意味している.イラーは純真無垢,善,理想の象徴で, ホーシャは罪の歓び, 悪, 人間の現実を象徴している.
著者
山村 浩
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.11-16, 2012-07-20

ニーチェは『道徳の系譜学』の中で二種の道徳(奴隷道徳と貴族道徳)を挙げ,前者が被支配民のルサンチマンをもとに形成されるのに対し,後者は支配民の優越感情をもとに形成されると説明する.しかし貴族道徳をめぐるニーチェの記述にはいくつかの矛盾が認められる.それはニーチェの「距離のパトス」という概念自体に問題がひそんでいるからである.ニーチェは貴族的支配者の優越感情を「距離のパトス」と呼び,例として古代ローマの貴族を挙げる.しかし古代身分制のように,支配者と被支配者の間に絶対的な距離がある場合,支配者は被支配者に対して人間的関心を持たない.すなわちそこでは「パトス」という感情は生じ得ない.逆にいえば「距離のパトス」が生じるのは,支配者と被支配者の距離が相対的に狭まり,前者が後者の存在を意識するようになった時である.即ち被支配層の勃興によって支配層が危機意識を感じ,その反動で生じる屈折した優越感情こそ「距離のパトス」なのである.こうした概念上の問題が記述上の矛盾を引き起こしていると考えられる.
著者
五十嵐 博
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.10, no.3, pp.21-30, 2013-03-10

Melville molded three layers of meanings embedded in the Memnon Stone, which is shaped like a huge egg or an eye or a petrified whale. The first and natural implication of the stone is a headstone of innocence symbolizing the dead, innocent soul of Pierre. Secondly, it is a metaphor of "EI," the pamphlet's title, whose intrinsic and core meaning is "If." The third connotation insinuatingly chiseled in is Solomon's and Melville's view of life and the world, "All is vanity."Melville described in Pierre "the problems of the human heart in conflict with itself" as Faulkner phrased, but Melville's depictions of those problems were artistic byproducts of his pursuit of Gorgonian jealousy lurking at the bottom of the human heart.メルヴィルは, 巨大な卵もしくは目, あるいは石化した鯨のような形をしたメムノンの石に3重の意味を注入した. 第1の, そして自然な意味は, イノセンスの墓石であり, それは死せるピエールの純真な魂を象徴している. 第2に, この石はパンフレットのタイトル"EI"のメタフォーであり, その本質的,核心的意味は"If"である. そして, 巧妙に刻み込まれた第3の含意は, 「すべて空なり」というソロモンおよびメルヴィルの人生観と世界観である.メルヴィルは, フォークナーの言う「葛藤する人間の心の諸問題」を『ピエール』に描出したが, それらの描出は, 彼が人間の心の奥底に潜むゴルゴンのごとき嫉妬心を追究する過程での芸術的副産物であった.
著者
鈴木 克美
出版者
東海大学海洋学部
巻号頁・発行日
no.14, pp.357-367, 1981 (Released:2011-03-05)
著者
鳥井 正志 関田 欣治 関 和市
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.1-10, 2008-03-31

Even the sea and tidal current are widely distributed whole through the ocean, the density of their energy are relatively low same as the wind one.However, the flow of the sea current is steady,the flow of the tidal current is cyclic and the density of energy increases in the water where the fluid concentrated. Since the reduction of the global warming gas and the switching of energy resource from the fossil fuel to renewable energy are the common issue of the human beings at present, this paper focused to realize the recovery of the sea and tidal current energy as a utilization of the renewable energy in the Japan's Exclusive Economic Zone (EEZ). The first,the quantity of current energy passing through the Japan's EEZ is shown.Then, the Straight-Wing Vertical-Axis Turbine (SWVAT), which has a lot of truck record as wind turbine, is adopted as the hydro turbine to recover the energy from the current, and its applicability to the water flow with wave as a natural sea condition is studied. Finally, the recoverable amount of the current energy by using the SWVAT is calculated.海流・潮流は,地球全海域に広く賦存しているが, その平均的エネルギー密度は風と同様に低い.しかし, 海流は恒常性が高く, 潮流は規則性があり, また流れの集中する海域では高いエネルギー密度を持つ.地球温暖化ガスの排出削減と, 化石燃料からのエネルギー源の転換は, 現在人類共通の課題である.このため, 日本の排他的経済水域 (EEZ)内の海洋資源の利活用として, 海流・潮流エネルギーの回収の実用化を図る.本研究は, まず日本のEEZ 内の海流・潮流エネルギー賦存量を明らかにする.つぎに, 水流エネルギーの変換装置として直線翼垂直軸型タービンを選択し, 海洋環境である水流や波浪中で使用するための課題を解決して適用可能性について検討する.そのうえで, この水流タービンを用いてEEZ から回収可能なエネルギー量を試算する.
著者
五十嵐 博
出版者
東海大学海洋学部
雑誌
東海大学紀要. 海洋学部 (ISSN:13487620)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.19-26, 2013-07-31

Melville's short fiction Happy Failure and The Fiddler clandestinely hold his cynical reaction to the critical damnation his 7th novel Pierre incurred. The "woeful box" in Happy Failure that contains the innovative apparatus which looks like "Anacondas and Adders" is suggestive of Pierre, and the story of The Fiddler starts from the moment the narrator's poem was damned like Pierre was.The theme and conclusion of Happy Failure are linked with those of The Fiddler and their common keywords are "fame" and "happiness." In Happy Failure "my uncle" worked for "fame" and "glory" to no purpose and in The Fiddler the narrator sought "immortal fame" in vain. They both realize in the end what they should go for is "happiness" among the mass of common people. The author's message for readers, lurking between the lines, is that naively speaking "happiness" lies in their being standard and commonplace or cynically speaking you have to be average and mediocre with no "fame" in order to be happy. This implicit message makes up the core and bottom line of both stories and is illustrated by the ways "my uncle" in Happy Failure and Hautboy in The Fiddler are.メルヴィルの短編『幸福な失敗』と『フィドル弾き』は彼の長編第7作『ピエール』が受けた酷評に対する作者のシニカルな反応を行間に潜めている.『幸福な失敗』の「アナコンダと毒蛇」に喩えられる革新的装置の入っている「悲しみにみちた箱」は『ピエール』を暗示する.『フィドル弾き』のストーリーは,「私」の詩が,『ピエール』へのそれを想起させる酷評を受けた時点から始まる.これら2つの短編のテーマと結論は連動しており,「名声」と「幸福」が共通のキーワードになっている.『幸福な失敗』では「私のおじさん」が「名声」と「栄光」を求めて失敗し,『フィドル弾き』では「私」が「不滅の名声」を求めて得られず,両者とも最終的に,求めるべきは凡俗の中の「幸福」であるという認識に到達する.作品にすり込まれている作者のメッセージは,人並みこそ「幸福」という素朴な認識,言い換えれば,「幸福」であるためには「名声」なき凡庸な人間でなければならないというシニカルな認識で,これが両作品の中核と結論を形成しており,『幸福な失敗』の「私のおじさん」と『フィドル弾き』のオウボイの存在の仕方は,この認識を例証している.