- 著者
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古藤 真平
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.46, pp.243-262, 2012-09
延喜二年三月二十日、平安宮内裏の飛香舎で藤花宴が催された。『西宮記』に記された同日の記録と、『河海抄』に引用された『醍醐天皇御記』同日条によって、醍醐天皇の藤花御覧、藤原時平の献物、参列者の和歌詠進、音楽演奏、天皇の養母藤原温子からの捧物献上という次第を知ることができるが、解釈の難しい箇所も残されている。本稿では、二つの史料を検討することにより、醍醐天皇が蔵人頭権左中弁藤原菅根を女御藤原穏子の別当に補任する意向を持っていたことを御記に記したと解釈できることを示し、この藤花宴の目的は、天皇が穏子を女御としたことを祝福し、彼女の兄の時平と姉の温子が天皇に祝意を込めた贈り物をすることであったと推測した。『日本紀略』と『大鏡裏書』は穏子の女御宣下を延喜元年三月のことと記しており、その通りに認められてきたのであるが、それが二年三月に下る可能性が出て来たのである。穏子の入内を妨げる条件は、延喜元年正月二十五日に醍醐天皇と時平が菅原道真を追放し、宇多上皇の影響力を排除することによって除去されていた。しかし、上皇が道真を救おうと参内したものの面会がかなわなかったこともあり、天皇と上皇の間の緊張関係の緩和には相当程度の冷却期間が必要であった。天皇と時平にとって、機が熟したと感じたのは延喜二年に入ってからのことで、穏子の女御宣下を実現した上で、彼女の居所飛香舎で藤花宴を催したのが三月二十日のことであったと推測する。