著者
小林 忠雄
出版者
北陸大学
雑誌
北陸大学紀要 = Bulletin of Hokuriku University (ISSN:21863989)
巻号頁・発行日
no.41, pp.61-73, 2016-12-31

北陸大学未来創造学部 教授 小林忠雄先生の『文化人類学』最終講義(2016年1月29日)を掲載。巻末に、未来創造学部 国際教養学科 教授 長谷川孝徳先生より「小林忠雄先生の最終講義にあたって」の謝辞を記載。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.95-136, 1996-03-29

本稿は都市空間の広場に関する共同研究の一つとして、山岳寺院都市を対象に、日本の都市空間の原初形態を抽出したものである。その基本的な山岳寺院都市とは高野山であり、この山中における不思議な空間構成を分析してみると、いわゆる伽藍などが集中する宗教施設ゾーン、院や坊舎など宗教者が居住し、その生活を支える庶民によってつくられたマチ域の日常生活ゾーン、そして高野山が霊山である所以ともなっている墓所の霊園ゾーンの三つの空間(ゾーニング)があることを指摘した。盛時には約二万人を擁した、この密教寺院の都市には、今日で言うところの都市性の要因がいくつも見られる。まず、僧侶とその生活を支える商人や職人と、常時、多くの参詣者を集めていることによって、旅行者を絶えず抱えており、滞留人口がかなりの数にのぼること。次に、密教というか修験道文化がもつところの技術ストックがあり、古代中世の先端技術を推進してきた場であること。それは社会的施設である上下水道設備などにも反映している。さらに参詣者のための名所、旧跡などの見学施設やその他の遊興施設、仕掛けが充実しており、そこには非日常的な色彩表現があって刺激的であること。そして、出入りが激しいことから情報集積の場としても、この山地都市が機能していることなどの都市性を見出すことができる。このような高野山の空間構造と類似の山地都市として、能登の石動山をはじめ、北九州の英彦山や越前の平泉寺などがあげられる。そして、ここでいう山地都市構造は、近世初頭の城下町にも、ゾーニングを踏襲した形跡が見られる。柳田國男は「魂の行くへ」のなかで、江戸の人々が盆に高灯篭をかかげて祖霊を呼び寄せた習俗にちなみ、そこには山を出自とする都市民の精神構造、すなわち山中他界観について触れている。従って、山地都市は近世以降の各地の都市構造の原点として位置づけることができるのではなかろうか。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.67, pp.95-136, 1996-03

本稿は都市空間の広場に関する共同研究の一つとして、山岳寺院都市を対象に、日本の都市空間の原初形態を抽出したものである。その基本的な山岳寺院都市とは高野山であり、この山中における不思議な空間構成を分析してみると、いわゆる伽藍などが集中する宗教施設ゾーン、院や坊舎など宗教者が居住し、その生活を支える庶民によってつくられたマチ域の日常生活ゾーン、そして高野山が霊山である所以ともなっている墓所の霊園ゾーンの三つの空間(ゾーニング)があることを指摘した。盛時には約二万人を擁した、この密教寺院の都市には、今日で言うところの都市性の要因がいくつも見られる。まず、僧侶とその生活を支える商人や職人と、常時、多くの参詣者を集めていることによって、旅行者を絶えず抱えており、滞留人口がかなりの数にのぼること。次に、密教というか修験道文化がもつところの技術ストックがあり、古代中世の先端技術を推進してきた場であること。それは社会的施設である上下水道設備などにも反映している。さらに参詣者のための名所、旧跡などの見学施設やその他の遊興施設、仕掛けが充実しており、そこには非日常的な色彩表現があって刺激的であること。そして、出入りが激しいことから情報集積の場としても、この山地都市が機能していることなどの都市性を見出すことができる。このような高野山の空間構造と類似の山地都市として、能登の石動山をはじめ、北九州の英彦山や越前の平泉寺などがあげられる。そして、ここでいう山地都市構造は、近世初頭の城下町にも、ゾーニングを踏襲した形跡が見られる。柳田國男は「魂の行くへ」のなかで、江戸の人々が盆に高灯篭をかかげて祖霊を呼び寄せた習俗にちなみ、そこには山を出自とする都市民の精神構造、すなわち山中他界観について触れている。従って、山地都市は近世以降の各地の都市構造の原点として位置づけることができるのではなかろうか。A work of the joint research project dealing with the hiroba (square) of urban space, this paper focuses on mountain temple towns to extract the archetype of the Japanese metropolis. The monastic complex at Mt. Kōya (Kōyasan), Wakayama Prefecture, is the archetypal mountain temple town. An examination of its curious spatial composition shows it to be divided into three different spaces (zones) : the main temple zone where several important temple structures are clustered ; the everyday-life, "town" (machi) zone with living quarters for priests and for the common people working to sustain the priest's livelihood ; and the cemetery zone for which Kōyasan is famous as one of the most sacred mountains in Japan.This esoteric Buddhist temple complex, populated by some 20,000 at its peak, displayed several factors that made it a city in the contemporary sense of the term. First, the number of those living or staying there was―and still is―very large, including priests, merchants and artisans who provided for their daily needs, and many pilgrims. Second, Kōyasan had a rich stock of know-how developed through esoteric Buddhism, or rather the Shugendō (mountain religion) culture, thus promoting the advanced technology of ancient and medieval times, as reflected in social services such as those for water supply and drainage. Kōyasan also had many noted places and historic site ruins, as well as entertainment facilities and other attractions, providing excitement, local color, and a sense of the extraordinary. In addition, with many people (priests, merchants, and pilgrims) coming and going from all over the country, Kōyasan was a place where information was pooled and accumulated, another feature of a city.Other mountain cities with a spatial composition similar to that of Kōyasan are Sekidōzan in Noto (now part of Ishikawa Prefecture) and Hikosan in northern Kyushu and Heisenji in the Echizen province (now Fukui Prefecture). The mountain city composition provided a model of zoning for castle towns at the beginning of the early-modern period. In his "Tamashii no yukue" [The Whereabouts of Souls], folklorist Yanagita Kunio, referring to Edoite's practice during the Bon festival of erecting tall lanterns to welcome the souls of ancestors, talks of the mental makeup of the urban citizens, who originally hailed from mountainous areas, and their belief that the human soul goes to the mountains after death. The present paper argues that the mountain city therefore can be seen as the origin of the urban structure of cities since the early modern period.
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.295-332, 1991-11-11

江戸を中心とした近代科学のはじまりとしての合理的思考の脈絡について,近年は前近代論としてさまざまなかたちで論じられている。加賀の絡繰師大野弁吉については,これまでその実像は充分に分かってはいない。本論文はこの弁吉にまつわる伝承的世界の全貌とその構造について,弁吉が著した『一東視窮録』を通して検証し,幕末の都市伝説の解明を試みたものである。弁吉は江戸後期に京都に生まれ長崎に遊学し,あるオランダ人について西洋の医術や理化学を学んだという。その後加賀国に移り住み,絡繰の茶運人形やピストル,ライター,望遠鏡,懐中磁石や測量器具,歩度計などを製作した。『一東視窮録』の表紙にはシーボルトらしい西洋人の肖像画とアルファベットのAに似た不思議な記号が描かれている。しかし,この西洋人は不明であり,またA形記号は,18世紀のイギリスで始まったフリーメーソンリーの象徴的記号に似ている。この書物には舎密術(化学)・科学器具・医術・薬学・伝統技術等々が記録され,特に写真術についてはダゲレオタイプと呼ばれた銀板写真法の技術を示したものであった。こうしてみると,『一東視窮録』の記載はメモランダムであり,整合性のある記述ではない。いずれにしろ弁吉の伝説のように,その実態が茫洋としていること自体が,本格的な西洋窮理学の本道をいくものではなかった。そして,幕末期の金沢には蘭学や舎密学・窮理学あるいは開国論を議論しあう藩士たちの科学者サロンがあり,弁吉もその中の一員であったと考えられる。そして弁吉の所業は,小江戸と称された城下町金沢の近世都市から機械産業を基軸とした近代都市へと,その都市的性格を変貌するなかで,まったく都市伝説と化していった。それは柳田國男が表現した「都市は輸入文化の窓口である」という都市民俗の主要なテーマに沿ったものとして理解できる。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.393-415, 1990-03-30

The purpose of this paper is to grasp the color culture mainly of the urban environment in Japan from the viewpoints of the history and folklore, and discusses what sort of materials should be aimed at as the subjects.Firstly, the ranking system of colors of the clothes and the symbolism in the ancient and middle ages in Japan are outlined. Then, the actual states of colors of dresses, props., theatesr, etc. used for “Izumo Kagura”, a folk art currently performed in mountain villages in Izumo-city, Shimane Prefecture are shown. Since this is an art using a myth as its theme, a question is proposed that the symbolism of color in the ancient and middle ages may lie behind.Further, from “Comprehensive folk vocabulary in Japan” compiled by Yanagita Kunio and other folklorists, the words that show four colors, white, black, red and blue are extracted and the symbolisms of the folk natures are described. Combinations of colors such as white and black, white and red, white, black and red, etc. are shown as the basic subjects of color symbolism in the folklore in Japan, referring the examples of Akamata/Kuromata ceremonies in Yaeyama Islands, Okinawa Prefecture.Finally, the words of 783 popular songs often sung by the Japanese are studied to check what sort of color image they have. The result shows that words representing the colors are used frequently in the order of white, red, blue, seven colors and black. In it, color preference and folk symbolism unique to Japanese are included. It is emphasized that the historical study on the color sense of the Japanese is important as one of the subjects of methodology of the folklore study.
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p343-370, 1993-02

日本人の色彩感覚に基づく文化および制度や技術の歴史に関して,これまで多くの研究が行われてきたが,本稿では主として日本の民俗文化において表徴される色彩に焦点をあて,その民俗社会の心意的機能,あるいは庶民の色彩認識についてのアプローチを試みたものである。特に都市社会において顕著な人為的色彩は,日本の各都市において様々な諸相をみせ,ここでは伝統都市として金沢,松江,熊本の各城下町を対象に,近世からの民俗的な色彩表徴の事例を現地調査および文献を参照しながら考察し,その特徴を引き出してみた。その結果,白色をベースにした表徴機能,赤色,赤と青色,藍色,紫色,黒色,五彩色といった色調の民俗文化に都市的要素を加味した展開のあることが見出された。金沢と熊本の場合は民俗事例と藩政期からの伝承により,松江はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『日本瞥見記』の著作を通して,明治初年の事例とハーンの見た印象をてがかりに探ってみたものである。また,都市がなぜ民俗的な色彩表徴の機能を前提としているかについての疑問から,建築物,あるいは染色,郷土玩具といった対象によって,多少,問題アプローチへの入口を見出し得たと思われる。都市は日本の社会構造の変革をもっとも端的に表出する場であるため,モニュメント,ランドマーク,メディアの変化など外側の表徴だけでも,その変容の速度は著しく,従って色彩の記号化も激しく変化するが,しかしそうであっても日本人の基本的な色彩の認識は変わっていないという前提にて,都市のシンボルカラーを捉えねばならないと考える。それはまったく日本の民俗文化の枠を越えてはいないからであろう。
著者
小林 忠雄
出版者
日本地図学会
雑誌
地図 (ISSN:00094897)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.24-27, 1981
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1990

本年度は前年度にひき続いて、伝統都市を中心としたフィ-ルドにおける色彩に関する民俗伝承の聞き書きと、文献資料および実物の写真撮影等の調査を実施した。本年度予定した調査地は熊本市・松江市・金沢市・岐阜市・津市の計5か所であったが、実施したのは熊本県人吉市・鹿児島県知覧町・松江市・金沢市・弘前市の5か所である。これらはいずれも中世ならびに近世以降より始まった城下町であって、前年度の伝統都市における色彩表徴の事例研究を補足し、また深めるに足る対象地であった。ちなみに、調査結果をまだ充分に検討していないので、早急に明確な結論を導き出すことは出来ないが、中世鎌倉期より城下町として発達した人吉市の場合、中世的な歴史遺物が少ないながらも、青井阿蘇神社の社殿に残る建築彩色には注目され、赤・青・黒の色彩表徴にひとつの歴史的意味を見つけだすことが出来た。しかし、その他民俗事象としては近世末期の事象の伝承より遡ることができず、また衣裳の染色などの技術も地方的な稚拙なものにとどまり、いわゆる京・大坂との物流関係に規制されることが多く、そこにはこの地方独自の色彩伝統を見出せなかった。このことは前年度の調査研究による都市(マチ)とその周辺農村との対比といった次元での差異でしか、その色の民俗の特色を見出し得ない結果とほぼ同一の傾向にある。しかし、一方で従来からフィ-ルドとしている金沢においては、その後の調査によって五行思想に基づく五色のシンボリズム、すなわち日月山海里を意味する赤・白・黄・青・黒(紫)の儀礼的展開例を見出し、都市の民俗社会が色彩を重視する原理を新たに確認することが出来た。現在、その他の文献資料との照合が出来ていないので、調査終了とともに、さらに分析を行い結果報告をまとめる予定である。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.371-410, 1995-01

本稿は日本の民俗的な色彩感覚が,明治末期から昭和初期の間に変容したという問題意識を前提に論じたものである。それは,主として新たに近代化された都市社会の出現と呼応しており,その背景には西洋文化や知識の移入による影響があるものと考えられる。ちなみに,まず日本の民俗感覚としての色彩認識については,一つには色名などを使った言語文化における認識と,もう一つは多様な色彩の材料を駆使して表現された物質文化における認識のあり方が考えられ,そのなかで基層感覚と覚しき部分について概説し,感覚の近代化とは何かについて問題提起した。つづいて,都市における色彩を具体的に示した文献として,『近代庶民生活誌』全10巻,および今和次郎『モデルノロジオ(考現学)』をとりあげ,そのなかから色彩語彙に関係した箇所,約400項目を抽出し,色彩ごとに分類し並べてみた。その結果,1930年前後において,東京や大阪といった大都市における人々の色彩の捉え方が微妙に変容していることが分かった。その変容については,とりあえず赤・青・白・黒・紫の各色についてのみ,何がどのように変わったのかについて分析してみた。同じく,変容には都市のなかで新たに出現した色彩傾向がある。それは黄・緑・ピンクといった人工色であって,さらに赤・青・紫の色の組合せ現象にも注目された。そして,近世まで都市において顕著であった五色のハレ(晴れ)感覚から,近代においては七色という,これまで識別されていなかった光のスペクトル感覚による色の認識が立ち表れ,庶民の色彩認識に大きな変革がなされたとみられる。本稿は,そのような変容の要素を,都市が生成した民俗という視点から捉え,次に何かが言えないだろうかという,今後の民俗研究への指針を求めた,あくまで実験的な試みである。In this paper, I have worked on the assumption that we have come to recognize a change in Japanese feeling for colors in our folk customs between the end of the Meiji period and the beginning of Shōwa period. This period of change mainly corresponds to the appearance of the first modernized urban societies; and behind it, there seems to be influences introduced from Western culture and knowledge.For example, in connection with the Japanese awareness of colors in our folk customs, we can see that one reaction to our awareness of colors is shown in the use of color names in our linguistic culture, and another is shown in the use of various color materials in our material culture. I have outlined the basic feeling of awareness and so raise the question "what is the modernization of feelings?"Next, I introduce two books: "Living Record of Modern Common People" (ten volumes) published by San-ichi Shobō and "Modernology" written by Wajirō Kon, as the reference materials which clearly indicate the colors in urban communities. Then, from them, I have extracted about 400 items which related to the color terms and listed them classified under different colors.As a result, the people's taste of colors in big cities such as Tokyo and Osaka changed slightly around 1930. I analyzed about what and how it changed, taking a selection from each of 5 colors: red, blue, white, black and purple.In this change, there are, moreover, new tendencies for colors to appear in urban communities. They are artificial colors such as yellow, green and pink, and color combinations of red, blue and purple were also to be seen.A great change might occur in the common people's awareness of colors because the ceremonial color responses with 5 colors which were noticeable in towns until the end of Edo period, were replaced by new responses with 7 colors divided by spectrum of light in the Meiji and the Taisho periods, which had not been found before.In this paper, I introduced an empirical survey to show the essence of the change from the viewpoint of folk customs created by urban communities, and to indicate a direction for future folk custom study of what to expect next.
著者
福田 アジオ 周 正良 朱 秋楓 白 庚勝 巴莫曲布む 劉 鉄梁 周 星 陶 立ふぁん 張 紫晨 橋本 裕之 福原 敏男 小熊 誠 曽 士才 矢放 昭文 佐野 賢治 小林 忠雄 岩井 宏實 CHAN Rohen PAMO Ropumu 巴莫 曲布女莫 陶 立〓
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国際学術研究
巻号頁・発行日
1989

平成計年〜3年度にわたり中国江南地方において実施した本調査研究は当初の計画どおりすべて実施され、予定した研究目的に達することができた。江蘇省常熟市近郊の農村地帯、特に白茆郷を対象とした揚子江下流域のクリ-クに広がる中国でも典型的な稲作農村の民俗社会の実態とその伝承を記録化することができ、また浙江省の金華市および蘭渓市や麗水市における稲作の民俗社会を調査することが出来た。特に浙江省では中国少数民族の一つであるシェ族の村、山根村の民俗事象に触れることができ、多大な成果を得ることが出来た。2年度は前年度の調査実績を踏まえ、調査地を浙江省に絞り、特に蘭渓市殿山郷姚村、麗水市山根村、同堰頭村の3か所を重点的に調査した。ここでは研究分担者は各自の調査項目に従って、内容に踏み込み伝承事例や現状に関するデ-タを相当量収集することができた。また、この年度には中国側研究分担者8名を日本に招聘し、農村民俗の比較のために日中合同の農村調査を、千葉県佐倉市および沖縄県読谷村の村落を調査地に選び実施した。特に沖縄本島では琉球時代に中国文化が入り込み、民俗事象のなかにもその残存形態が見られることなどが確認され、多大な成果をあげることが出来た。3年度は報告書作成年度にあたり、前年度に決めた執筆要項にもとずき各自が原稿作成したが、内容等が不備がありまた事実確認の必要性が生じたことを踏まえ、研究代表者1名と分担者3名が派遣もしくは任意に参加し、補充調査を実施した。対象地域は前年度と同じく蘭渓市殿山郷姚村、麗水市山根村の2か村である。ここでは正確な村地図の作成をはじめ文書資料の確認など、補充すべき内容の項目について、それを充たすことが出来た。さらに、年度内報告書の作成をめざし報告書原稿を早急に集め、中国側研究分担者の代表である北京師範大学の張紫晨教授を日本に招聘し、綿密な編集打合せを行った。以上の調査経過を踏まえ、その成果を取りまとめた結果、次のような点が明らかとなった。(1)村落社会関係に関する調査結果として、中国の革命以前の村落の状況と解放後の変容過程に関して、個人の家レベルないし旧村落社会および村政府の仕組みや制度の実態について、また村が経営する郷鎮企業の現状についても記録し、同じく家族組織とそれを象徴する祖先崇拝、基制について等が記録された。特に基制については沖縄の基形態がこの地方のものと類似していること、そして沖縄には中国南方民俗の特徴である風水思想と干支重視の傾向があり、豚肉と先祖祭祀が結びついていることなどから、中国東南沿海地方の文化との共通性を見出し、日中比較研究として多大な成果をあげることが出来た。(2)人生儀礼および他界観といった分野では、誕生儀礼に関して樟樹信仰が注目され、これは樹木に木霊を認め、地ー天を考える南方的要素と樹木を依り代と見立て、天ー地への拝天的な北方的要素が融合した形と見られる。また成人儀礼ではシェ族に伝わる学師儀礼の実態や伝承が詳細に記録され、さらに貴州省のヤオ族との比較を含めた研究成果がまとめられた。特に中国古代の成人式の原始的機能が検出され、また先祖祭祀との関わりや道教的要素の浸透など貴重なデ-タが集積された。その他、中国民俗の色彩表徴の事例などの記録も出来た。(3)民間信仰および農耕儀礼として、年中行事による季節観念と農業生産との関係、農耕社会における祭祀の心理的要因や農耕に関する歌謡によって表出された季節的意味などに焦点をあて、ここではさらに日本の沖縄との比較を含めて分析された。さらに建築儀礼に関しても詳細に報告され、沖縄の石敢当を対象に中国との比較研究もまとめられた。(4)口承文芸および民俗芸能については稲作起源神話の伝承例を初めとし、江南地方の方言分布とその特徴ならびに文化的影響の問題について、さらに金華市と沖縄の闘牛行事の比較研究などに多大な成果を得ることが出来た。(これらは報告書として刊行予定)
著者
小林 忠雄 篠原 徹 福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1992

2ヵ年間にわたる調査研究を通じて、近代化とともに変容しつつある日本の農村社会、特に都市近郊の農村などにおいては、いくつかの特徴的な事象をあげることができる。まず、大きな変化は衣食住であり、ほとんどの地域で都市社会と変わらない均質化がみられること。しかし、近隣や親類関係がともなった人生儀礼に関しては、とりあえず旧習俗を踏襲しているが、その具体的内容には変化がある。例えば誕生儀礼は以前に比べると簡素化され、それにこれまで無かった七五三習俗が新たに導入され、近くの大きな神社に晴れ着を着飾って、ほとんど全国的に同じ習俗として定着しつつある。しかも、熊本県人吉市の場合、嫁の実家から贈られる鯉幟や名旗が初節句の折には庭先に掲げられ、これは以前より増加する傾向にある。すなわち、これまで家のステータスを象徴してきた儀礼(結婚式や葬式など)は、むしろそれを強調する傾向にあり、そうでないものは簡素化の傾向にある。かつて小さな在郷町であったマチが都市化するなかでは、マチの行事が衰退する一方で、自治体が援助する形でのイベントが創出される。しかし、それはバブル経済のなかでの傾向であって、現在の情況ではより土に根ざしたものが好まれ、同時に趣味者の集まり、すなわちグルーピング化が図られ、約縁集団化の傾向にあることを確認した。