- 著者
-
永澤 美保
- 出版者
- 麻布大学
- 巻号頁・発行日
- 2008-03-15
犬との関わりが人にもたらす恩恵は、医療や福祉、教育など様々な分野において注目されているが、人と犬との関わりがなぜ人の心身に影響を与えるかについてはいまだ明らかではない。 犬によってもたらされる効果の機序を明らかにするためには、他の動物種には見られない犬の特異性に注目したうえで、実際の行動上の相互交渉に基づいた両者の関係性から客観的に判断する必要がある。 本研究では、人の母子間の絆の形成を説明する「アタッチメント理論」(Bowlby, 1969)に基づいて、犬との関わり方と飼い主の心身への影響との関連を明らかにすることを目的とした。アタッチメントは、子の生存確率や養育者の適応度を高めるための行動制御システムであると説明されており、子の養育者との近接を維持するための行動(アタッチメント行動)への養育者の対応の仕方が両者間の絆の形成に関連しているともいわれている。さらにラットやサルなどでは、絆の形成された対象の存在によって生理的変化が生じることが明らかにされている。 一方、犬は家畜化に伴って、人に対する社会的な認知能力が向上したといわれている。特に視覚による認知能力は、類人猿などに比べ、より人間に近い優れたものがあり、人との関係における犬の特性として注目されている。 そこで、人の母子間において、特に重要なアタッチメント行動といわれている「注視」に焦点をあてた。第1章では、「犬の視覚的行動がアタッチメント行動として作用し、飼い主の犬に対する養育行動を促進することで、飼い主の心身へ影響がもたらされる」という仮説を検証するために、犬の飼い主に対してアンケート調査を行った。その結果をふまえ、第2章では、飼い主と犬の交流時の行動を観察し、犬の「注視」が飼い主の心身の状態と関連があるかどうかについて検討した。さらに第3章では、その関連が「アタッチメント行動」から発したものであるかどうかを、内因性物質の変化に注目し、客観的に評価した。第1章 「犬の視覚的行動」と人から犬への愛着との関連【目的・方法】 犬の視覚的行動がアタッチメント行動として飼い主に認識され、心身の健康に影響を与えているかどうかについて調べるために、犬の飼い主および犬の飼育経験者(n=771)を対象にアンケート調査を行った。質問内容は、犬の視覚的行動に対する飼い主の意識と、犬への愛着の程度、犬の飼育状況、飼い主の飼育経験等であり、心理尺度への回答も求めた。【結果・考察】 アンケートの結果を重回帰分析したところ、犬の視覚的行動に対する飼い主の意識、犬への愛着、心理尺度、健康状態との間にそれぞれ有意な標準回帰係数が得られ(R^2=.09, p<.001)、飼い主が犬の視覚的行動を意識することと、犬に対して感じる愛着の程度に関連が見られ、人生や人間関係等に対するポジティブな感情をもたらすが示唆された。年代別では、23~39歳の群には関連が見られず、40~64歳の群と65歳以上の群に有意な結果が見られ(40~64歳:R^2=.15, p<.001, 65歳以上:R^2=.12, p<.001)、特に65歳以上の高齢者群では項目間で強い因果関係が見られた。犬への愛着の程度が飼い主の心身の健康に与える影響は、年齢層が高いほどその効果が期待されることが示唆された。この結果は、年齢や過去の飼育経験が現在の飼い主の精神的健康状態に影響を及ぼすこと(Nagasawa & Ohta, 2007)と一致した。 しかし、犬の視覚的行動と犬への愛着の程度はともに「犬のしつけの程度」と関連が見られたため(ともにp<.001)、犬への愛着や飼い主のポジティブな感情が本来の意味でのアタッチメントによって喚起されたものなのかどうかについて、さらに検討が必要となった。Nagasawa & Ohta(2007). The influence of the experiences of dog-ownership in the past on the present mental health of the elderly men.The 11th International IAHAIO Conerence, p.192.第2章 「犬からの注視」が飼い主の心身の健康に与える影響【目的・方法】 飼い主と犬との交流時に、実際に犬から飼い主へ向けられる注視行動が、飼い主の心身の状態に影響を与えるかどうかについて検討した。また、第1章で示された結果が、犬からのアタッチメント行動が飼い主に対して機能したことによるのか、あるいは、犬のトレナビリティ(trainabiliy)によるものなのかという課題についても検証を行った。実験室内において、飼い主(n=70)と犬に対し、基本的な指示を与え、また遠隔指示によるスラロームの課題を出し(実験1)、それを達成する過程での相互行動を観察し、各行動や課題の達成率と、飼い主の唾液中クロモグラニンA(CgA)、血圧・心拍数、心理尺度の実験前後の変化との関連を調べた。さらに同じ条件で課題を提示しない場合(実験2)との比較も行った。【結果・考察】 飼い主と犬との間に見られる交流のタイプによって群分けするために、「犬から人への注視時間」、「犬から人への接触時間」、「人から犬への接触時間」と「成功所要時間/回」の4項目に対して主因子法による因子分析を行った。得られた因子によってクラスター分析を行い、犬からの注視時間の長い「注視」群、注視、接触時間がともに低い「低交渉」群、人と犬の双方からの接触時間の長い「接触」群の3群に分け、反復測定分散分析を行ったところ、注視群は、精神的な負荷による交感神経の活性を反映するCgAの値の上昇が見られず、それに対し、接触群は実験後のCgA値が有意に高く(p<.001)、心理尺度の結果、不安度も高かった(p<.05)。血圧・心拍数は有意な差が見られなかった。実験2では、接触群のCgA値が実験1と比較して有意に低くなっていた(p<.001)。また、実験後に実施した心理尺度の結果から、注視群は生きがい感が高く、友人から社会的支援を受けていると感じている程度も有意に高くなっていた(生きがい感:p<.01, 友人からの支援:p<.001)。 以上の結果から、人と犬の双方からの接触が多い群はCgA値の上昇が見られ、不安度も増したのに対し、犬からの注視の長い群は本実験では飼い主に精神的な負荷をかけることなく、人と犬との間でスムーズなコミュニケーションを図ることができたと思われた。しかし、課題達成時間が注視群間で有意に短いこと(p<.05)と、犬のしつけの程度が高いほど達成時間も短いこと(rs=-.47,p<.05)から、本実験のCgAの反応は犬からの注視がアタッチメント行動として機能した結果ではなく、犬のトレナビリティに起因するものである可能性を排除できなかった。第3章 「犬からの注視」とアタッチメントとの関連~飼い主の尿中オキシトシンによる検証~【目的・方法】 「犬からの注視」と飼い主が感じるアタッチメントとの関連を正しく評価するために、飼い主(n=55)の尿中オキシトシン(OT)とCgAを用いて実験を行った。実験では、飼い主と犬の30分間の交流の中での、犬からの注視時間の長さと飼い主の尿中のOTおよびCgAの交流前後の変化との関連を見た(実験1)。また、実験中に見られた飼い主と犬との相互のやりとりを1バウトとして、各バウトがどの行動から始まったかで分類したものも解析に使用した。実験前後の気分の変化はPOMS短縮版によって測定した。さらに、飼い主が「犬からの注視」を認識できる場合とできない場合で、実験前後のOT値の変化に違いが見られるかどうか調べた(実験2)。実験2では、飼い主に壁を向いて座ってもらい、犬からの注視を直接認識できないようにし、それ以外は実験1と同じ条件で行った。【結果・考察】 事前に行ったアンケートの回答と実験中に観察された犬からの注視時間を用いて、クラスター分析を行い、飼い主を「高注視」群と「低注視」群の2群に分けて、反復測定分散分析を行った。 実験1では、高注視群の交流後のOT値が低注視群よりも有意に高くなっていた(p<.05)。また、高注視群では、OT値の実験後の上昇と犬からの注視で始まるバウト数との間に有意な高い相関が見られた(rs=.74, p<.01)。犬の注視を認識できない設定の実験2では、高注視、低注視群ともに、有意なOT値の変化は見られなかった。一方、CgA値はどの条件でも有意な変化はみられなかったが、高注視群のほうが低い傾向がみられた。しかし、高注視群において、犬からの注視時間とCgA値、POMS(緊張・不安度)得点の間にそれぞれ有意な相関が見られた(CgA:rs=.65, p<.05, POMS:rs=.66, p<.05)。 以上のことから、犬からの注視時間が長い群の方が、OT値が上昇することと、犬からの注視で始まるやりとりが多いほどOT値が上昇すること、飼い主による「犬からの注視」の認識を遮ることによってOT値が減少することが示され、「犬からの注視」がアタッチメント行動として飼い主に対して機能している可能性が示された。また、OT値の動向と年齢や性別等との関連についても新たな結果が得られた。一方、注視時間が長いほどCgAや緊張度が上昇することから、OTとCgAとでは、それぞれアタッチメントの異なる側面を表していることが示唆された。まとめ 本研究は犬の何が、どのようにして人の心身に影響を及ぼすのか、その一端を明らかにすることができた。犬から飼い主に向けられる「注視」は視覚によるアタッチメント行動として飼い主に認識され、その結果、飼い主の精神状態に変化をもたらすことが示された。動物は種特異的なアタッチメント形態を持つといわれているが、本研究では人と犬とがアタッチメントにおいて共通の基盤を持つ可能性が示され、なぜ、犬がこれほどまでに人社会に溶け込むことができたのかという疑問の解明につながると考えられる。さらに、それぞれの飼い主と犬とが固有の関係を持つことや、犬が人の健康にもたらす効果に差が生じることを説明する上で、「視覚的アタッチメント行動」は明確な指標となりえると考えられる。 また、本研究で測定した尿中OTは、人の内的変化を客観的に評価できるものとして、その有用性は高い。従来、動物とのふれあいによる効果は、コルチゾールやカテコラミンによって、ストレス反応を軽減させる「緩衝作用」として評価されてきたが、愛情や親和的情動等ポジティブな効果の評価には適切とはいえない。OTは、社会的な接触によって分泌が促進される等、個体間の関係性に関するポジティブな評価が可能であり、本研究では30分間という短い犬との交流でも、その影響が尿中OTに反映された。今後、人と動物との関わりを評価する際の重要なパラメータとなりうるであろう。