著者
稲葉 継陽
出版者
熊本大学
雑誌
熊本大学社会文化研究 (ISSN:1348530X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.207-224, 2003-03-31

In the sixteenth century as the last stage of medieval Japan, daimyo domains were built throughout the country. The border areas between the domains were called sakaime (境目) and the cause of dispute among the daimyo. They fought hard for the castles in sakaime. The neighboring local warriors (ryoshu) often played a role of arbitration when the daimyo concerned in the dispute started peace negotiations and settled the question of the title to the castles. The peasants (hyakusho) belonging to a village community in the sakaime, too, dealt with the dispute in a group and showed the autonomy to restore a peace. Toyotomi Hideyoshi could achieve the reestablishment of national unity (tenka-toitsu), taking a step of guarantee to keep the arrangements about sakaime, which were accomplished by the daimyo and village community peasants who pursued a peace in their area. In this article, the Toyohuku (豊後) region in Higio (肥後) province is analyzed as a typical case study of sakaime areas.
著者
稲葉 継陽 イナバ ツグハル
出版者
熊本大学附属図書館
巻号頁・発行日
2014-10

熊本大学附属図書館(中央館)リニューアル1周年記念 第30回熊本大学附属図書館貴重資料展 解説目録
著者
吉村 豊雄 三澤 純 稲葉 継陽 足立 啓二 山田 雅彦 松本 寿三郎
出版者
熊本大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004 (Released:2004-04-01)

本研究の中心をなす日本史研究班は、16・17年度に引き続いて、熊本大学が収蔵する日本最大の前近代組織体文書たる永青文書所蔵の細川家文書(細川家の大名家文書)のなかで、藩制の基幹文書となっている「覚帳」「町在」の系統解析に全力をあげつつ、前近代日本社会・日本行政の到達形態について実態的な成果を出すことに努めた。その結果、「覚帳」の系統的解析を通して驚くべき成果を得た。すなわち、本研究で明らかになってきたのは、日本近世の領主制が農村社会の自律的運営能力の立脚する方向で、次第に農村社会からの上申事案・上申文書の処理を業務とする割合を強め、ついには農村社会からの上申文書を中央行政機構における稟議制の起案書として、地方行政に関わる政策形成を行うに至るという、従来、想像もされてこなかった19世紀、幕末の行政段階である。熊本藩では、18世紀以降、こうした傾向を強め、中央行政機構では、こうした状況に対応した行政処理・文書処理のシステムを整備し、19世紀段階には農村社会からの上申文書を起案書とし、中央行政機構の稟議制に基づく地方行政を展開している。本研究において主対象とした熊本藩の中央官庁帳簿たる「覚帳」は、こうした歴史的推移をたどる。同時に、中央行政機構の稟議にかかった上伸事案は、農村社会で無数に生成される要望・嘆願の類いのごく一部であり、その多くは中央行政機構に上申されることなく、農村社会の段階で処理・解決されている。18世紀後半以降の地方行政は、農村社会の政策提案能力に依存しつつ、領主支配の根幹に関わる事案について上申させ、これを稟議処理し、執行することで成り立っていたと言える。
著者
服部 英雄 稲葉 継陽 春田 直紀 榎原 雅治
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000 (Released:2000-04-01)

文献資料のみに依拠してきた従来型の歴史学の隘路を切り開くべく、地名を史料(歴史資料)として科学的に活用する方法を確立した。地名を網羅収集する作業を進め、文字化されていない未記録地名を収集し、地図に記録し印刷した(主として佐賀県および熊本県阿蘇郡)。地名を史料として利用するため、電算化による検索を九州各県および滋賀県で進めた。研究上の環境整備を進めるいっぽうで、地名の歴史史料としての学問的有効性を確認し、拡大する作業を行った。交通に関わる地名、タンガ(旦過)、武家社会を考える地名イヌノババ(犬の馬場)、対外交渉史を考える地名トウボウ(唐房)をはじめ、条里関係、荘園関係、祭祀関係などの地名の分布調査、および現地調査を進めていった。地名の活用によって、研究視野が拡大される例。唐房地名は中世チャイナタウンを示す。従来の研究は対外交渉の窓口は博多のみであると強調してきたが、唐房は九州北部(福岡県、佐賀県、長崎県)、九州南部(鹿児島県)にみられる。一つの港津にトウボウ(当方)のほか、イマトウボウ(今東方)もあって、複数のチャイナタウンがあった。綱首とよばれる中国人貿易商の間に利害の対立があったことを示唆する。福岡・博多は新河口を開削して(御笠川や樋井川、名柄川)、干潟内湖を陸化し、平野の開発を進めた。それ以前には多くの内湖があって、それに面して箱崎、博多、鳥飼、姪浜、今津の港があった。自然環境・立地は類似する。博多のみが卓越していたわけではない。貿易商社たる綱首は一枚岩ではなく、競合した。それぞれが幕府、朝廷(大宰府)、院・摂関家と結びつく。地元では相互が対立する寺社と結びついた。チャイナタウンは多数あって、カンパニー・ブランチを形成した。これは考古学上の成果(箱崎遺跡で中国独自の瓦検出)とも一致する。従来の研究にはなかった視点を獲得した。