著者
茂木 健一郎
雑誌
情報処理
巻号頁・発行日
vol.62, no.6, pp.282-283, 2021-05-15
著者
茂木 健一郎 多田 多恵子
出版者
日経サイエンス
雑誌
日経サイエンス (ISSN:0917009X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.9, pp.82-91, 2010-09

カタバミ,ツタ,クスノキ,アジサイ……道端や公園でよく見るおなじみの植物に,こんなに面白い一面があったとは! 今号の対談では,一般向けの植物観察会や著書でもおなじみの植物生態学者,多田多恵子さんと,聞き手の茂木健一郎さんが,東京・文京区の東京大学から小石川植物園までお散歩。道端や庭先にある木々や草花について,多田さんに解説して頂いた。
著者
田辺 史子 茂木 健一郎
出版者
日本認知科学会
雑誌
認知科学 (ISSN:13417924)
巻号頁・発行日
vol.13, no.4, pp.547-550, 2006 (Released:2008-11-13)
参考文献数
5
著者
石川哲朗 戸嶋真弓 ビクトルス・ガルカビス 茂木健一郎 神門典子
雑誌
情報アクセスシンポジウム2013
巻号頁・発行日
vol.2013, pp.1-8, 2013-11-29

視覚情報探索において,何かを発見したという気付きが重要な役割を果たすと考えられる.情報発見に伴う強烈な気付きは,洞察問題解決という文脈で捉えることができる.ここで,洞察とは,突然,はっきりとそれが容易に正しい答えであると強く確信され,嬉しさなどのポジティブな感情を伴う現象で,このような主観的体験をアハ体験と呼ぶ.視覚認知の分野では,ダルメシアンやダレンバッハの牛のような何が隠されているのか分からない不鮮明な隠し絵が,知覚された瞬間にアハ体験を生じる刺激として有名である.近年,このような刺激をモーフィングにより作成する技術が著者らによって開発され,隠し絵に伴うアハ体験を実験室で再現することを可能にした.この手法を応用し,隠し絵の認識に関する実験を実施した.多観点から評価された主観評定の探索的因子分析により,アハ体験は情動的因子と知覚に関する判断を表すと見なせる二つの因子から構成されることが示唆された.画像が時間とともに鮮明になり元の情報が徐々に開示されて行くと,ある瞬間に突然,はっきり鮮明にオブジェクトが知覚されたことに驚きつつも,それまで未知であった情報を見つけたと気付いて確信し,分かって嬉しかったり面白かったりして,誰か他の人にも薦めたくなるというように,気付きに伴い豊かな主観的経験を体験するということが分かった.このような正答試行のときの推薦度がアハ体験の指標となり得るという発見は,本研究で得られた新たな知見である.
著者
茂木 健一郎
出版者
金原一郎記念医学医療振興財団
雑誌
生体の科学 (ISSN:03709531)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.82-86, 1995-02-15

I.「意識」における時間の流れ 21世紀は科学者にとって,脳の世紀となるだろうと予測されている。すなわち科学にとって,真のフロンティアは脳科学であるということである。そして,脳のさまざまな属性の中でも「意識」の問題は,最もその究明が困難な,しかし同時に本質的な問題であると考えられている1-3)。「意識」の問題に対するアプローチにはいろいろあるが,科学的なアプローチとして有力なものは,「意識」が脳における情報処理過程において,どのような役割を果たしているかという設問である。端的にいえば,「意識」と呼ばれるような実体が存在しなければ,実行できないような情報処理が存在するのかという問題である。どのような情報処理が,「意識」が存在しなければ実行できないのかという問題は,それ自体が未解決の問題であって,慎重な議論が行われなければならないが,本稿では,異なるモダリティの情報を単一の時間と空間の枠組みの中で統合することが,「意識」の計算論的な意義であるという作業仮説を採用することにする。 上の作業仮説をとりあえず認めたとして,それでは,「意識」における単一の時間と空間の枠組みは,どのようにして生じてくるのだろうか。この問題に現時点で科学的にアプローチするとしたら,どのような手法が可能なのだろうか。
著者
茂木 健一郎 岡田 武史
出版者
日経サイエンス
雑誌
日経サイエンス (ISSN:0917009X)
巻号頁・発行日
vol.37, no.11, pp.94-99, 2007-10

予期せぬ展開で再びサッカー日本代表を率いることになった岡田武史監督。実はこうした事態になる前の2007年夏に,脳科学者の茂木健一郎氏との対談でサッカーや監督業について語っています。当人でさえ無意識のうちに身体が動いたというスーパープレーの時に,脳では何が起きているのか?
著者
甲野善紀 茂木健一郎著
出版者
バジリコ
巻号頁・発行日
2008
著者
茂木 健一郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.56-62, 2006-03-10

文学は、言葉によって組み立てられている。それは意味の塊であるようにも思われる。しかし、すぐれた文学作品は、決してどのような意味づけにも回収されない、その作品に接した時のクオリア(感覚質)によって特徴付けられる。ある作品を、精神分析にせよ、構造主義にせよ、記号論にせよ、テクスト論にせよ、ある立場で分析し、文脈付ける試みは、クオリアのピュアさにおいて、作品自体には絶対に負ける。極端なことを言えば、文学とは、最初から最後までの文字列が与える印象のことである。むろん、言葉である以上、いわゆる「意味」がその印象形成に介在することは当然である。しかし、そのような言葉の意味を通じて形成される文学作品の印象の中には、それが良質なものであるほど、決して特定の意味には回収され得ないものがある。傑作とは、すなわち、その作品を何度読んでも、十年二十年と向き合っても、汲み尽くせぬクオリアの源泉となるものを言う。特定の意味の体系に置き換えられてしまうものは名作たり得ない。ならば、そのような文学作品を分析し、解析しようとする批評が、自らも対抗し得る印象の表出に成功しない限り、常に破れ続ける運命にあるのは当然のことではないか。(以上、茂木健一郎『クオリア降臨』(文藝春秋)から一部改変して抜粋) 文学が人に与える感動の本質について考察し、脳の中の文学という体験について考えてみたい。