著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.83-118, 2007-03-07

マルティン・ハイデガーが1933-34年の間,フライブルク大学の学長を務めたことはよく知られている。しかし,そのおよそ1年の間,彼は国民社会主義ドイツ労働者党,すなわちナチスの党員として,同大学のナチ化のために精力的に活動したことはあまり知られていなかったが,近年ヴィクトル・ファリアスとフーゴ・オットの研究によって,ハイデガーとナチスとの関係がこれまで考えられていた以上に密接で深刻であることが理解されるようになった。フライブルク大学学長ハイデガーは,その任期期間中にさまざまな諸事件にかかわっているが,そのなかで見逃すことができないのは,彼がいくつかの密告事件に関与したことである。そのうちのひとつが,世界的な化学者ヘルマン・シュタウディンガーにかんする密告事件である。この事件は,国家秘密警察,つまりゲシュタポによって「シュテルンハイム作戦」と名付けられた。この「シュテルンハイム作戦」は長い間歴史のなかに封印されてきたが,この封印を解いたのがオットの研究である。本論文では,このオットの研究と原典資料を踏まえながら,「シュテルンハイム作戦」,言い換えればシュタウディンガー事件の歴史的真実を明らかにするとともに,この密告事件を主導したハイデガーの思想と人格の暗部に迫ることにしたい。
著者
澁谷 浩一
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.70, no.3, pp.608-572, 2011-12

The peace agreement between Qing and Zunghar of 1740 was a historical turning point in which the two parties established for the first time peaceful and amicable relations, but the understanding of the circumstances and contents of the agreement has been insufficient. This study of the process of the negotiations for a peace agreement and the content of the peace agreement through a detailed examination of newly discovered Manchu language sources addresses the peace agreement from the viewpoint of international relations in central Eurasia and focuses in particular on the influence of the conclusion of the Treaty of Kyakhta of 1728. From the opening of negotiations both sides were strongly conscious of their relations with Russia. From the start the Yongzheng emperor attempted to determine the national boundary in manner of the Treaty of Kyakhta in which the details of the national border in the region was decided after the agreement. The Qing side thus advocated establishing a buffer zone and the permanent guard posts, karun, in the negotiations on the basis of the experience of negotiations with Russia on determining the border. On the other hand, the Zunghar side, while exploring the strengthening of ties with Russia in the early stage, stressed to the Qing that amicable relations with Russia existed even though the border had not been settled, and thereafter it consistently upheld the position that the settling the border was not desirable. The Qianlong emperor, who succeeded Yongzheng, yielded to Galdan Tseren who rejected the Qing proposal for a national border set at the Altai Mountains, and agreed to a peace that left the national border undemarcated. The ultimate peace agreement involved mutual recognition of maintenance of the current pasture lands that did not go beyond the Altai mountains or Zavkhan River, and additionally recognition of status quo in regard to the Zunghar Ulyanhai tribe, located on the northern side of the Altai range, which is an important clause that has not previously been recognized. This clause reflected the intention of the Qing side to confirm a resolution with the Zunghar the issue of sovereignty over the Ulyanhai that had been resolved with the Russians in the Treaty of Kyakhta. It is fair to say that the peace agreement made at this time was predicated in its entirety on the conclusion of the Treaty of Kyakhta between Russia and the Qing and established under its influence as can also be seen in the stipulations on emissaries and trade that were made at the same time during which relations with Russia and the Treaty of Kyakhta were in mind throughout.
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.109, pp.1-36, 2021-02-26

謝花昇は沖縄の近代社会運動の先駆者である。明治期の沖縄では,いわゆる「琉球処分」によって琉球王国が廃止されて行き場を失った貧窮士族の救済を目的として,「杣山」の開墾事業が開始される。沖縄県庁の高等官・技師謝花昇は,沖縄県知事奈良原繁のもとで「杣山」開墾の事務取扱主任としてこの事業を推進する立場に立っていた。しかし,謝花と奈良原との間に潜在的にあった齟齬と対立が次第に顕在化する。謝花がこの開墾事業を純粋に農民と貧窮士族の救済のために遂行しようとし,期限付き無償貸与と「杣山」の森林環境に対する配慮という条件下で推進したが,時の権力者奈良原の側はそうではなかったからである。奈良原はこの開墾事業を土地整理事業の前段階と見なし,土地整理が終了した後は開墾地を払い下げて私有化することを目論んでいた。両者の対立は,やがて土地整理事業の推進過程で,奈良原側が「官地民木」を謳い文句にして農民たちを欺瞞し,彼らの反対と抵抗を押し切って,「杣山」を官有林に組み入れる政策を行うに及んで,決定的になる。これに対して謝花が主張したのが「民地民木」論である。そのために謝花は県庁を退職してこれと闘うことになる。謝花のこの「民地民木」論は敗北した。しかし,農民たちが自前で保護・管理・育成し,彼らの生活の糧でもあった「杣山」は農民たちによって共同所有されるべきだという彼の「民地民木」論は,現在のわが国の森林政策の行き詰まりと国有林の危機,これによる森林環境の国土保全力の低下,そして森林を地球的規模の公共財と考えるさいに,多くの手掛かりと暗示とを提供してくれるように思われる。本論文では,この「民地民木」をめぐる謝花昇の闘いの軌跡を追求するとともに,現在の環境論または環境思想から見た場合の彼の「民地民木」の意義を考察することにしたい。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学総合研究所紀要 = Proceedings of the Research Institute of Sapporo Gakuin University (ISSN:21884897)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.59-69, 2015-03

丸山眞男の『日本政治思想史』は戦後の日本思想史研究の画期をなす業績のひとつである.しかし,その後の日本思想史研究の蓄積は,この著作の時代的制約とさまざまな問題点とを明らかにしつつある.丸山は,東アジアの思想圏全体を俯瞰することなく,儒教と朱子学を我が国の封建制社会の支柱となった思想体系とのみみなし,江戸時代初期に強固に確立されたこの思想体系が荻生徂徠などの思想のインパクトを受けて解体され,これと並行して近代的意識が形成されたと解釈する.こうした理解は,この時代の複雑で豊かな思想空間を単純な図式によって把握し,限られた射程の準拠枠によって評価するものである.本論文では丸山のこうした日本思想史論の問題点をアウトラインにおいて提示する.Masao Maruyama's Nihon Seiji Shisoshi Kenkyu ("Studies on the Intellectual History of Tokugawa Japan")is among the landmark studies that were published after Japan's defeat in World War II on the history of Japanese thought. However, an array of studies on the history of Japanese thought following the work of Maruyama have elucidated various problems in, and wartime constraints on, this work. Maruyama did not expand his vision to look at other East Asian thought,and he regarded Confucianism and a Neo-Confucian school called the Chu Hsi School as the system of thought that had become the mainstay of Japanese feudalism. According to Maruyama, the system of thought that was solidified in the early Edo era was later broken down under the influence of the thought of Sorai Ogyu and others concurrently with the formation of a modern consciousness. This grasp of the history of thought in the Edo era presents a simplistic picture of the complex thought and the varied thinkers of those days, and Maruyama's frame of reference is not large enough to evaluate the thought of the Edo era. This study outlines some of the issues in Maruyama's studies on the history of Japanese thought.教養教育Liberal Arts
著者
熊谷 浩一郎
出版者
一般社団法人 日本不整脈心電学会
雑誌
心電図 (ISSN:02851660)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.205-207, 2012 (Released:2015-07-01)
参考文献数
5

心房細動(AF)に対する薬物治療が奏効しない場合,カテーテルアブレーションによってAFを根治できる可能性がある.また近年は,AF停止効果が認められているピルシカイニドやニフェカラントとカテーテルアブレーションを組み合わせたhybrid therapyにより,高い洞調律維持率が得られるようになった.カテーテルアブレーションと抗不整脈薬によるhybrid therapyは,難治性AFに対する治療戦略のひとつとして有用であると考えられた.
著者
大谷 浩一
出版者
一般社団法人 日本臨床薬理学会
雑誌
臨床薬理 (ISSN:03881601)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.286-290, 2013-05-31 (Released:2013-06-21)
参考文献数
5
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.108, pp.1-33, 2020-11-20

ハイデガーは,『存在と時間』のなかで,「実在性」「主観・客観関係」「真理」にかんする独自の見解を主張している。われわれの意識の外部に客観的実在が存在するかどうかという問題は哲学の根本問題とされてきた。この問題にどう答えるかで,哲学上の立場と流派が決定されるからである。これと関連して,主観と客観との関係をどう見るか,真理をどう定義するかなどの認識論の基礎をなす問題群がある。伝統的な西洋哲学における存在論を「解体」または「破壊」して独自の思想を構築しようとするハイデガーは,この問題と関連する問題群とに対しても独自の立場を展開する。彼によれば,客観的実在をめぐる実在性の問題は人間存在である「現存在」のひとつの「存在様式」である。主観・客観の問題もまた「主体の実存様式に依存する」とされる。そして,「真理」にかんしても認識と対象との一致という伝統的な真理概念は妥当しないとされ,「真理」は「現存在」の中で「隠蔽」されていたものが「開示」されるという主観的な関係のうちで理解される。私見によれば,「独我論」へと傾斜する彼のこうした主観主義的立場が,いざ客体的存在を含めた彼自身の「存在」論を展開しようとする段になって,重大な困難をもたらしたように思われる。本論文では,ハイデガーの伝統的認識論に対する批判がいかなる意味をもつかを検討し,その批判の正当性と問題点とを批判的に考察する。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.45-70, 2000-09

一連の論考の連載からなる本論文では, プレスナーの主著『有機的なものの諸段階と人間』において展開されている中心思想を対象とし, とりわけ「位置性」の理論に焦点をあてながら, 難解なことで知られるプレスナーの哲学的人間学の本質的な諸特徴を把握し, その人間学思想と, 「哲学的人間学」の定礎者シェーラー, そして同じ流れを汲むゲーレンの人間学思想との同一性と差異性とを解明することを試みる。前編においては, プレスナーの人間学の諸前提として, 生の哲学とのかかわり, 人間学にたいする課題意識, またカントの批判哲学および現象学的方法との関連におけるその人間学の方法的な独自性を考察した。本稿においては, デカルト的な心身分離論, ユクスキュルの環境世界説, ケーラーとドリーシュの論争との関連をふまえながら, プレスナーの位置性の理論の導入部となる生命あるものの「境界」の概念, そしてこれにもとづく有機的なものの本質諸徴表の理論の全容を究明する。