著者
金森 修
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2014-04-01

一九六〇年代を中心に我が国のSFの発展を跡づける作業をしている内に、SF史だけに限定するのではない、より広範な視点が必要だということが分かってきた。SFは、同時代の他分野の文学・芸術活動と陰に陽に繋がっているからである。そして、その過程で、いわゆるSF作家と呼ばれる人々よりも広いカテゴリーにある作家たちの調査を始めた。そしてその中で、単なるSF作家とはいえず、戦後文学の重要な一画をなし、まだ充分な研究が進んでいない安部公房の存在の大きさを改めて認識するようになった。そのため、安部公房の全作品を集め、現在入手可能な安部公房論、また海外の安部公房並びにその周辺に関する文献群をすべて集めた。こうして、資料体的には完璧な準備が進んだので、現在改めてゆっくりと評論と作品自体を通読しているところである。もうかなりの量は読破したので、年度末、つまりこの研究の完成する頃には或る程度の目安がついているはずだ。というわけで現在は、安部公房を中心とした文学評論の執筆を目指して努力しているところである。
著者
金森 修
出版者
公益財団法人 日本学術協力財団
雑誌
学術の動向 (ISSN:13423363)
巻号頁・発行日
vol.4, no.11, pp.25-29, 1999-11-01 (Released:2009-12-21)
参考文献数
15
著者
金森 修
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.1-13, 1999-11-10 (Released:2009-05-29)
参考文献数
31

G. Canguilhem posits in his "The Normal and the Pathological" two judgements: (1) the negation of objectivity of the pathology and the physiology because of the necessary interference of the value judgements between the two phases; (2) the importance of the biological normativity, that's to say, the understanding of the health as something essentially related to the norm and value. The health is not a fact, but a norm to which an organism makes an effort to attain by regulating its conducts. After this affirmation of the normativity in the demarcation between the normal and the pathological, I try to link it to the contemporaneous problematic of bioethics. And situating the health as a norm inside of the world of designing, I give a theoretical permission to the selective abortion in condition of a strict limitation, and to a certain positive interference to the genetic information for giving birth to a perfect baby.
著者
金森 修
出版者
岩波書店
雑誌
思想 (ISSN:03862755)
巻号頁・発行日
no.958, pp.100-128, 2004-02
著者
金森 修 Osamu KANAMORI
出版者
総合研究大学院大学教育研究交流センター
雑誌
科学における社会リテラシー2;総合研究大学院大学湘南レクチャー(2004)講義録
巻号頁・発行日
pp.51-72, 2005-02-28

第Ⅰ部 科学原論 第3章 科学哲学②クローン研究をめぐる諸問題金森 修[東京大学教育学部教授]
著者
金森修著
出版者
講談社
巻号頁・発行日
1996
著者
金森 修
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.68-75, 2014-09-26 (Released:2017-04-27)

本稿は現代の生命倫理学でも重要な位置を占める<人間の尊厳>という概念が、ヨーロッパの歴史の中でどのような文脈の中で生まれ使われてきたのか、その主要な流れを最低限確認することから始めた。その際、インノケンティウス三世の<人間の悲惨>論に重きを置いた記述をした。また、ピコ・デラ・ミランドラの高名な一節が含意する、一種の知性鼓舞論が、純粋に世俗的な位相のみにおいて<人間の尊厳>概念を理解することを困難にしているという事実に注意を喚起した。それらの検討を通してわれわれは、この概念が十全に機能するためには、神のような超越的存在との関係における人間の定位を必要とするということを示した。では現代の世俗的社会の中で、この概念の使命は既に終わったと考えるべきだろうか。いや、そうは考えない。この神的背景を備えた概念は、世俗的微調整の中でその神的含意を解除されながらプラグマティックに使用され続けるという趨勢の中でも、依然として人間存在の超越性を示唆し続けることをやめないだろう。それこそが、この概念の独自な価値なのである。
著者
金森 修
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.68-75, 2014

本稿は現代の生命倫理学でも重要な位置を占める<人間の尊厳>という概念が、ヨーロッパの歴史の中でどのような文脈の中で生まれ使われてきたのか、その主要な流れを最低限確認することから始めた。その際、インノケンティウス三世の<人間の悲惨>論に重きを置いた記述をした。また、ピコ・デラ・ミランドラの高名な一節が含意する、一種の知性鼓舞論が、純粋に世俗的な位相のみにおいて<人間の尊厳>概念を理解することを困難にしているという事実に注意を喚起した。それらの検討を通してわれわれは、この概念が十全に機能するためには、神のような超越的存在との関係における人間の定位を必要とするということを示した。では現代の世俗的社会の中で、この概念の使命は既に終わったと考えるべきだろうか。いや、そうは考えない。この神的背景を備えた概念は、世俗的微調整の中でその神的含意を解除されながらプラグマティックに使用され続けるという趨勢の中でも、依然として人間存在の超越性を示唆し続けることをやめないだろう。それこそが、この概念の独自な価値なのである。
著者
金森 修
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.329-354, 2013-09-30

科学はその偉業と覇権にも拘わらず、二〇世紀半ば過ぎ頃から、客観性、普遍性、公益性を本質とするはずの古典的科学観から部分的に逸脱し、変質し始めている。マンハッタン計画、一九七〇年代以降のバイオテクノロジー、今回の原発事故が露わにしたような原発関連科学の複合体などの諸事例が<変質した科学>を象徴するものだ。他方でエリュールの技術論は、人間主体を周辺化するような、希望のない決定論的枠組みの中に文化を押し込めるものだった。科学もその種の技術体系に倣うものなのかもしれない。この現状の中では、もはや科学の特権性はなんら自明のものではなくなった。現代社会の中でも、宗教的な成分は、人間の感情が住み着く位相や、実証を逃れる知の中にしっかりと作動している。現状の酷薄さの中で、むしろ宗教者は従来よりも一層毅然とした批判的態度を貫徹しつつ、生命の尊重や弱者への寄り添いのような独自の活動を継続すべきなのである。