著者
青木 康容
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.59-67, 1983-09-30 (Released:2017-02-17)
著者
青木 康容
出版者
Japan Association for Urban Sociology
雑誌
日本都市社会学会年報 (ISSN:13414585)
巻号頁・発行日
vol.2018, no.36, pp.180-198, 2018-09-05 (Released:2019-09-04)

This paper discusses how neighborhood associations in Naha City were formed and termed jichi-kai after World War II (WWII), and it explores the role of the administrative area, which is referred to as gyohsei-ku, for forming jichi-kai associations. Jichi-kai is a new type of local entity and is expected to take the place of existing long-established local communities, often referred to as Aza.     After WWII, many people from all over the Okinawa islands hurried to get jobs in Naha, which caused the Naha population to grow and urbanize. This, in turn, lead to the development of new associations called kyohyu-kai. Not surprisingly, association with a kyohyu-kai is based on a person's origin, which makes membership in these organizations exclusive. Eventually, some kyohyu-kai associations arose that were essentially equivalent to the jichi-kais.     By the same token, membership in the Aza communities has been restricted since ancient times, and this system has since been renamed jichi-kai, which is also restricted. Aza communities exclude people from different neighborhoods from joining because some Aza communities have particular assets, such as shared land, that they can use to generate financial benefits, like renting land for military bases.     That is why the participation rate in Naha City associations is unusually low―20-30%―compared with the participation rates for neighborhood associations in other Japanese cities.     From this background information, this paper extracts four types of associations. The first two are authorized neighborhood associations: one is here referred to as “Aza-type jichi-kai” and the other is referred to as the “Non Aza-type jichi-kai.” The third type is simply called kyohyu-kai, in which people are able to mutually receive comfort and assistance. Finally, the fourth is known as an assent-management entity, which gives large sums of financial support to neighborhood associations.
著者
瀧本 佳史 青木 康容
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.51-67, 2013-09-01

沖縄県は都道府県の中でもっとも地籍調査が進んでおりその進捗率はほぼ100%にも達するという。その理由は先の戦争に起因するところが大きい。本稿は沖縄県の地籍調査が戦後の米軍基地化によって一層困難になりながらも,1972 年の日本復帰以前と以後においてどのように取り組まれてきたのかを示すと共に,なお土地所有関係が確定しない境界不明土地がどのように地域的に偏在しているのか,それによってどのような地域問題を抱えることになったのかなどについて説明する。それによって,進捗率が高いことが必ずしも土地問題を解決したわけではないことが明らかになるだろう。
著者
瀧本 佳史 青木 康容
出版者
佛教大学社会学部
雑誌
社会学部論集 = Journal of the Faculty of Sociology (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
no.64, pp.93-116, 2017-03

本稿は沖縄県北部の国頭郡に所在する米軍基地,キャンプ・ハンセンとキャンプ・シュワブ,興味深いことにこの2つの基地は半ば地元による誘致結果として生まれた稀有のケースであるが,その周辺市町村による用地提供の代償として受け取る「軍用地料」に関して論じるものである。それは地域を構成する旧字住民が入会山として日常生活において利用してきた土地でありながら,その地代としての軍用地料が市町村と各行政区との間でどのように配分されるのか,それは地域によってどのような違いがあるのか,などについて市町村が提供した資料等に基づいて明らかにし,結果としてその地代としての巨額の軍用地料が配分される地域とされない地域との間をいかに分断するものであるかについて論及する。それと共に同じように軍用地に土地を奪われた中部地区の市町村との根本的な相違にも言及する。(尚,本稿における多数の表は行文上重要なものであるが,編集者によって小さくされている。)軍用地料金武町宜野座村恩納村辺野古杣山
著者
瀧本 佳史 青木 康容
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.93-113, 2013-03-01

沖縄県における米軍用地は,今日いくらか返還の途上にあるとはいえなお相当な規模を占めている。戦後占領下において農耕地や宅地が接収されていったが,本稿は戦後それがどのように規模を拡大させてきたかについてその背景を探るとともに,地域によってどのような接収に違いがあるのかなどについて追究するものである。米軍の軍用地接収は沖縄戦終了後の占領とともに始まり,これを第1 期とすれば第2 期は国際環境の変化によって大規模かつ組織的な接収が行われる1950 年代半ばからであるということができる。接収地には地料が支払われ,その金額や支払い方法をめぐって住民と米軍との間の軋轢がやがて基地反対の「島ぐるみ闘争」となって全島を巻き込み戦後沖縄史を飾る戦いが繰り広げられた。その最中に米軍基地を自ら誘致したいという沖縄北部の農民たちが現れ,この闘争は分裂の経過を辿り終息していく。その背景には沖縄中部と北部における土地所有形態の相違があり,個人所有地の多い中部に対して北部の土地は殆どが入会地であり村有など共有地・杣山であったことである。共有地であることがかえって合意形成を容易にしたのである。入会地からの資源を保持する山経済よりは地料が確実な基地経済を選択することで貧困な村落社会の利益を守り維持していこうとしたのであろう。後半では杣山の歴史を俯瞰する。
著者
青木 康容 中道 実
出版者
同志社大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1992

以下のような点を明らかにした。1.初期の帝国議会において多数を占めたと言われる地主階層はさまざまな産業、すなわち農業、林業、牧畜業、養蚕業、酒造業などを営み、さらに他のビジネスにおいても投資し、活発なビジネス活動をしていた。かれらの企業経営は実に多様であるが、特に銀行業を営むことが注目される。2.戦前政党と戦後政党との間には、政党内職階制に極端に大きな相違が見られる。戦前政党組織が極めて単純であるのに対し、戦後政党は複雑な役職構成をなしている。これは戦後の政党が政治制度の変化の下に果たすべき大きな役割を担ったことを示し、本格的な政党政治の現われと見ることが出来る。3.戦前議員たちの利益団体との帰属関係を見ると、特に産業団体との関わりが深く、自らがそうした団体の出身者であること、すなわち出身職業がそのような産業であり、その意味で団体利益を挺した議員であること、しかしそれが次第に出身の職業とは関係なくそうした団体の役員を引き受ける議員が1936年の第19回総選挙あたりから出でくる。これは職業政治家の本格的な現われであろうと考えられる。4.戦前議員と地方団体との関わりを分析すると、かれらが如何に地域社会と深い繋がりがあったかが判明した。地方団体とは、地域社会固有の団体で、おそらくは地方名望家が担うことが期待された団体である。衛生委員、地方衛生会、学区取締、学務委員、教育会、連合町村会、町村組合会、林業組合、森林組合、山林会、水利組合、水利土功会、耕地整理組合、勧業委員、所得税調査委員、鉄道会議、調停委員、徴兵参事委員、徴兵議員などがこうした団体と役員である。全体として、職業的背景を見ると、戦前から戦後にかけて実に大きな相違を見ることが出来る。「政治によって生きる」職業としての政治家の本格的な出現はやはり戦後に求められる。