著者
上條 敏子
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.437-450, 1996-06
著者
高瀬 弘一郎
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.337-362, 1978

論文
著者
桐本 東太 長谷山 彰
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.287-292, 2001

研究ノート
著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.33, no.3, pp.397-424, 1961-04

史學科開設五十周年記念Wu Ti, the Emperor of Earlier Han, having conquered Nam Viet in the Second Century B. C., established a province, Pu (部), called Chiao-Chih (交趾), governed by the governor, Tsu-Shih (刺史), and this administrative organization was succeeded on to the Later Han Dynasty (25-220 A. D.). Towards the end of the latter dynasty, namely in 203 A. D., Chiao-Chih-Pu was raised to the rank of a state, Chou (州), called Chiao-Chou (交州), and accordingly, the governer, Tsu-Shih (刺史), was promoted to the viceroy, Mu (牧). Recently, the foregoing historical events have been well studied by several Japanese and Chinese scholars. The writer intends to clarify the events, still further in this article, through the comparison of texts found in Hou-Han-Shu (後漢書), Shan-Kuo-Chih (三国志), and many other books written in the Chin (晉) Dynasty (256~419 A. D.). Moreover, he tries to examine all governers of Province Chiao-Chih in the Later Han Dynasty. Towards the end of the Dynasty, the peace reigned only in the Delta of the Red River, and all other territories of China were troubled by discontented local lord. The reasons of the tranquility mainly come from the overestimated confidence of the central government on the abilities of Chu Fu (朱符) and Chang Chin (張津) as governors, and from the political power of the local, native lord, Shih Hsieh (士變), who actually ruled the province as Tai-Shu (太守) of Chiao-Chih-Chun (交趾郡). In conclusion, the writer reports in this article his research on the situation of Province Chiao-Chih at the end of the Later Han Dynasty, with special attention to political and social problems caused by the rivalry between the governors and the native lords whose representative was Shih Hsieh.
著者
[ヨシ]岡 拓
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.15-33, 2004

論文はじめに一 京都町人の行啓反対活動 行啓実施までの経過 行啓反対活動の実態二 行啓反対活動の中に見られる天皇・朝廷観 九月二二日の集団嘆願活動 九月二四日の御所巡回活動三 行啓反対活動参加者以外の人々の天皇・朝廷観おわりに
著者
デュンダル メルトハン
出版者
三田史学会
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.75, no.2/3, pp.53(233)-85(265), 2007-01 (Released:2007-00-00)

論文 はじめに1 帝国主義の道を歩む日本とイスラーム世界2 オスマン皇族と日本3 トルキスタン皇帝アブデュルケリム皇子おわりに
著者
桐本 東太
出版者
三田史学会
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.83, no.4, pp.133(449)-141(457), 2015-01

書評
著者
赤江 雄一
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.341-372, 2006-03

論文一 はじめに二 『説教形式』全体の構造三 旧説教形式と新説教形式に対するベイスヴォーンの態度四 新説教形式で用いられた説教テクニックの諸基準五 curiositasとutilitasの関係六 おわりに
著者
上野 大輔
出版者
三田史学会
雑誌
史學 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.29-57, 2015-04

文学部創設125年記念号(第1分冊)論文 日本史はじめに一 基地化・献納・イデオロギーによる関与二 僧侶を中心とする諸隊の動向三 その他の諸隊への参加おわりに
著者
西澤 直子
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.659-675, 1988-03

論文I 尊攘派の形成 (1) "尊攘派手子衆"の存在 (2) "尊攘派手子衆"の志向II 尊攘派の政治権力について (1) 尊攘派と世子定広の存在 (2) 尊攘派の藩制改革III 結論
著者
伊藤 清司
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.163-212, 1969-11

山川の鬼神・妖怪の属性とその棲み処を記述した山経は、山林薮藪沢に立ちいる者にとつて、怪物の害を避けるうえの手引きとなつたであろうし、これはまた、崇り・揃禍いする山川の神々の正体を判別して、それに宥恕を請い、あるいは、それを撃攘しようとする者にとつて、有効なる書でもあつたであろう。しかし、圧倒的な勢威をもつて君臨し、人々の幸不幸を支配したのが岳神であつた。山経はそれら岳神の祭祀方法について具体的に記録した書でもあつた。山経は好んで怪力乱神を語るものでは、もちろんなかつたのである。人倫関係の改善や社会秩序の確立によつて、世の平和と人々の幸福を期待しうると主張する者にとつて、山川に棲む神々は敬して遠ざくべきものであり、あるいは、否定すべきものですらあつた。しかし、山川に出没する妖怪の存在を信じておびえ、去来する鬼神の怒りに恐怖する人々は、変わることなく多かつた。已然として人々は、雲を湧出する峰々に神霊の存在を観じ、「山川ノ神ハ則チ水旱癘疫ノ災」をくだし、おるいはまた、「能ク百里ヲ潤ス」恩沢を賜うものと信じていた。山川の超自然的存在がこの世の禍福を左右するものと信じる社会にとつて、その超自然的存在について誌した山経は、決して、虚誕の書ではなかつたのである。山経は古代中国の邑里にくらす人々の伝来の民間信仰と、それらにかかわる日々のなりわいの苦悩とをふまえ、これに対処せんとする者-おそらくは、巫祝たちの儀礼の書としての一面をもつものである。山経はたしかに一つの実用の書であつた。 「漢書」芸文志によれば、かつて 禎祥変怪 二十一巻 人鬼精物六畜変怪 二十一巻 変怪誥咎 十三巻 執不祥劾鬼物 八巻 請宿除妖祥 十九巻 禳祀天文 十八巻 請〓致福 十九巻 請雨止雨 二十八巻の諸書が存していたという。今日、これらの古書の具体的な内容は知るべくもないが、「禎祥変怪 二十一巻」・「人鬼精物六畜変怪 二十一巻」等は、その名から想像して、山経の記録している百物・怪力乱神の類が含まれていたであろうし、「執不祥劾鬼物 八巻」・「請官除妖祥 十九巻」等には、これらの魑魅罔両・神姦を除祓するための儀礼・呪術が説かれていたとみられ、「請雨止雨 二十八巻」には、「現ワルレバ則チ大雨・現ワルレバ則チ大旱」を致す水神・旱鬼を宥和・祓除する呪術が記されていたとみられる。すなわち、これら一群の佚書の中には、山経の妖怪・百物の神々等に関する記述につながるものがあり、あるいは、その奥義書Upanisad的なものともいうべき書が含まれていると想像されるのである。他方、山経の岳神祭祀に関する記載自体は、どぢらかというと、礼書的体裁を帯びている。これらの点から、山経は「周礼」春官にみられる職掌に該当するもの、おそらくは祝史らの管轄するところではなかつたかと想像されるのであるが、山経と祝史・巫祝との関係については、稿を改めて考えることとする。
著者
井手 勝美
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.23-31, 1978

本稿は若干の史料を補足して、旧稿「背教者・不千斎ファビアンの生涯」(広島工業大学研究紀要七-二)で解明できなかった彼の事蹟を明らかにしたものである。
著者
赤木 妙子
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.127-140, 1991

論文はじめに一 尾張国津嶋と織田信長 (1) 戦国時代の津嶋と織田氏 (2) 織田信長と津嶋牛頭天王二 織田信長の自己神格化と摠見寺 (1) 摠見寺への理解と神格化 (2) 摠見寺と提灯祭 (3) 摠見寺の開山 (4) 摠見寺への参拝方法 (5) 自己神格化の終焉結びにかえて
著者
前嶋 信次
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.29, no.4, pp.365-405, 1957-03

序言一 その經歷二 その門出について三 大地を球形と知りしか四 宣化と立化寺
著者
高橋 正彦 河北 展生
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.43, no.4, pp.649-654, 1971-05

批評と紹介弔詞伊木寿一先生をしのびて伊木先生の想い出
著者
竹田 竜児
出版者
三田史学会
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.613-643, 1958-10

The name of Yang family of Hungnung had been widely-known among the Chinese ever since the days of Han Dynasty. It became very famous, however, after it produced the highest officials successively through four successive generations under the Later-Han Dynasty. The profession of the members of Yang family was the study of Confucianism, and the house of Yang produced many famous men. However, these famous scholars of the family were presumably incapable of making their fortune. At the time of War of Yung Chia 永嘉 (311), the Chin Dynasty removed its court to the south side of the Yangtze River. The Yang Family, however, failed to escape with the court. Accordingly, the family was in adverse circumstances under the Tung Chin Dynasty. Meanwhile, under the Northern Dynasty, the descendants of Yang Chieh 楊結 one of the members of the Yang family, enjoyed prosperity for a time. However, the Yangs in the Northern Dynasty made an enemy of the Erh-chu family, and were almost annihilated by the latter. Thus the power of the Yang family declined. With the advent of Sui and T'ang period, the Yangs restored their power in the courts of the two dynasties and founded their position in the political circles. Thus a family become powerful again under the two dynasties. However, the writer of this article is of opinion that it is a question whether those Yangs including the Imperial Family of Sui were, without exception, the descendents of the Yang family of Hung-nung as they professed themselves to be.慶應義塾創立百年記念論文集
著者
今宮 新
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.350-351, 1930-06

書評
著者
太田 次男
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.34-74, 1957-07

一 天正狂言本に於ける大明二 大名狂言から小名狂言へ三 狂言に於ける昔話の變質
著者
糸賀 茂男
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.101-107, 1974

史料紹介