著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.33, no.3, pp.397-424, 1961-04

史學科開設五十周年記念Wu Ti, the Emperor of Earlier Han, having conquered Nam Viet in the Second Century B. C., established a province, Pu (部), called Chiao-Chih (交趾), governed by the governor, Tsu-Shih (刺史), and this administrative organization was succeeded on to the Later Han Dynasty (25-220 A. D.). Towards the end of the latter dynasty, namely in 203 A. D., Chiao-Chih-Pu was raised to the rank of a state, Chou (州), called Chiao-Chou (交州), and accordingly, the governer, Tsu-Shih (刺史), was promoted to the viceroy, Mu (牧). Recently, the foregoing historical events have been well studied by several Japanese and Chinese scholars. The writer intends to clarify the events, still further in this article, through the comparison of texts found in Hou-Han-Shu (後漢書), Shan-Kuo-Chih (三国志), and many other books written in the Chin (晉) Dynasty (256~419 A. D.). Moreover, he tries to examine all governers of Province Chiao-Chih in the Later Han Dynasty. Towards the end of the Dynasty, the peace reigned only in the Delta of the Red River, and all other territories of China were troubled by discontented local lord. The reasons of the tranquility mainly come from the overestimated confidence of the central government on the abilities of Chu Fu (朱符) and Chang Chin (張津) as governors, and from the political power of the local, native lord, Shih Hsieh (士變), who actually ruled the province as Tai-Shu (太守) of Chiao-Chih-Chun (交趾郡). In conclusion, the writer reports in this article his research on the situation of Province Chiao-Chih at the end of the Later Han Dynasty, with special attention to political and social problems caused by the rivalry between the governors and the native lords whose representative was Shih Hsieh.
著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
斯道文庫論集 (ISSN:05597927)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.267-306, 1977-12-20

森武之助先生退職記念論集一 北宋刊本二 南宋刊本(覆北宋本〉三 元刊本四 明刊本五 武英殿版系諸本六 増入諸儒議論通典詳節七 諸刊本の本文について
著者
尾崎 康
出版者
三田史学会
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.61-88, 1967-11

The Wen-lin-kuan was established on the ping-wu day 丙午 of the second moon in the fourth year of wu-ping 武平 (573), as indicated in the Pel Ch'i shu Hou-chu chi. 北斉書後主記 This may be illustrated as follows. In the autumn of 573 soon after the compilation of a great anthology named Sheng-shou-t'angyu-lan 聖寿堂御覧 was completed, Premier Tsu Ting 祖珽 summoned seventeen literary gentles to the Hsiu-wen-tien to assign them to revise and supplement the anthology. Prior to this revision work, Emperor Hou-chu, who had been reputed extremely imbecile and fond of screen paintings with pictures of the famous old sages and varied stanzas of contemporary light verse, sometimes invited Yen Chih-t'ui 顔之椎 and others to the Court as Kuan-k'o 館客 and enjoyed their company in reciting poems. After Yen joined in the revision, in the second moon of 574 the two circles were combined to form the Wen-lin-kuan, with the participating literary gentles renamed tai-chao 待詔. The Hsiu-wen-tien yu-lan was completed a month after the Wen-lin-kuan was thus set up. Although the anthology is no longer extant, it was composed of 360 scrolls, according to the existing catalogues. It was to be used as one of the sources in the preparation of the T'ai-ping yu-lan 太平御覧 of the Sung Dynasty.松本信廣先生古稀記念
著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
斯道文庫論集 (ISSN:05597927)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.121-210, 1991-03-31

一 群書治要について二 〔鎌倉〕写金沢文庫本三 〔平安〕写九条家本四 元和二年駿河刊銅活字本五 弘化三年紀伊藩刊銅活字本六 天明七年尾張藩刊本七 林羅山輯補の巻四・一三
著者
吉村 孝之 種田 智成 西沢 喬 尾崎 康二 山田 勝也 池戸 康代 植木 努 曽田 直樹
出版者
東海北陸理学療法学術大会
雑誌
東海北陸理学療法学術大会誌 第28回東海北陸理学療法学術大会
巻号頁・発行日
pp.63, 2012 (Released:2013-01-10)

【目的】 下腿の筋挫傷の疫学的調査では、腓腹筋内側頭(以下、MG)の損傷が多いと報告されている。下腿三頭筋の研究は腓腹筋とヒラメ筋を比較したものが多く、MGと腓腹筋外側頭(以下、LG)を比較した報告はあまり見られないため、MG筋挫傷の原因は明らかになっていない。我々は、形態学的特性として、超音波画像診断装置を用いて筋厚を調べた。機能的特性として、足関節底屈等尺性収縮時の筋活動を調べた。2つの実験からMG筋挫傷の原因を考察したので、報告する。【対象】 下肢に整形疾患のない男性6名6肢(平均年齢27.5±4.5歳、平均身長168.8±4.1㎝、平均体重66.0±11.3㎏)の右下腿とした。なお、対象者には研究概要の説明を文書及び口頭にて行い、実験参加への同意を得た。実験の実施に際し、平野総合病院倫理委員会の承認を受けた。【方法】 1)筋厚の評価 膝関節裂隙から踵骨隆起のアキレス腱付着部までを8等分し、近位部から、1/9, 2/9, …、9/9と表記する。超音波画像診断装置(東芝メディカルシステム社製famio8)を用い、安静時の短軸像を撮像し、筋厚を測定した。統計処理は、MGとLGの筋厚に対して、対応のないt検定を用い、検討した。2)足関節等尺性底屈運動時のMG及びLGの筋電図測定 予備実験として、腹臥位膝関節伸展位、足関節中間位にて、足関節等尺性底屈運動の最大収縮時のMG及びLGの筋活動量をNoraxon社製筋電図シリーズTelemyoG2を用いて測定し、筋力をアニマ株式会社製ミュータスF-1を用いて測定した。 足関節等尺性底屈運動の収縮強度は、最大筋力の10, 20, …、70%とし、MG及びLGの筋活動量を測定した。統計処理は、MG及びLGの正規化された筋活動量を収縮強度に対して一元配置分散分析を用い、検討した。 1)2)ともに、統計解析にはSPSS16.0を用い、有意水準を5%とした。【結果】 1)腓腹筋近位1/9~6/9までは、MGがLGよりも筋厚が有意に厚かった。それ以降遠位では、筋厚に有意差は認められなかった。2)足関節等尺性底屈運動時のMG、LGともに収縮強度と比例して、筋活動が高まり、かつ収縮強度10%を基準として、50%以上の収縮強度で筋活動に有意な差が認められた。【考察】 腓腹筋近位部では、MGがLGよりも筋厚が有意に厚く、K. AlbrachtaらのMRIを用いた研究を支持する結果となった。FTAの正常値が174°であることより、荷重は膝関節外反ストレスとなりやすいため、膝関節内反作用を持つMGがより発達しやすいのではないかと考えられる。MG、LGどちらも、50%以上の収縮強度で筋活動に有意に高まった。本研究では、MG、LGの筋活動に著明な違いは認められなかったため、どちらも、50%以上の収縮強度にて筋損傷のリスクが高まると考えられる。筋厚は筋の生理的断面積に比例することから、筋力の指標と考えられるため、MGはLGに比べ、強い筋力を発揮しやすいと考えられる。そのため、MGの筋挫傷のリスクが高くなると推察される。【まとめ】 ・腓腹筋近位部では、MGはLGより有意に筋厚が厚かった。・荷重下膝関節外反ストレスに拮抗するために膝関節内反作用を持つMGが発達しやすいと考えられる。・MG、LGともに収縮強度50%以上で、筋挫傷のリスクが高まると考えられる。
著者
尾崎 康子 杉本 宜子
出版者
富山大学人間発達科学部
雑誌
富山大学人間発達科学部紀要 (ISSN:1881316X)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.37-45, 2007-11

乳幼児期に,養育者と子どもとの間の相互交渉を通して愛着が形成されるが,その後,愛着は内在化され,表象レベルの内的作業モデルとして機能するようになる。Bowlbyの愛着理論では,内的作業モデルは,成長の過程でその人の対人関係,情動,行動など広範囲に影響を及ぼし,また一度内在化された内的作業モデルは生涯にわたり変わることがないと言われている。従って,愛着は,乳幼児期のみならず青年期においても連続して機能する重要な課題と言えよう。本研究では,青年期の愛着を質問紙法によって調べるとともに,攻撃性を多次元尺度と表出抑制の表現形式の観点から計測し,青年期の攻撃性のどのような特性が愛着と関連しているのかを検討することを目的とする。

2 0 0 0 OA 干宝晋紀考

著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
斯道文庫論集 (ISSN:05597927)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.285-316, 1970-12-01
著者
尾崎 康子 小林 真 水内 豊和 阿部 美穂子
出版者
一般社団法人 日本特殊教育学会
雑誌
特殊教育学研究 (ISSN:03873374)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.335-345, 2013 (Released:2015-03-19)
参考文献数
34
被引用文献数
2 2

保育者が発達障害児や発達が気になる子どもを評価するスクリーニング尺度として、幼児用発達障害チェックリスト(CHEDY)を作成した。CHEDYは、広汎性発達障害(PDD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、知的障害を測定する3尺度で構成されている。PDDはADHDや知的障害との合併が認められることがあるが、CHEDYはこれら3つの障害を一度に調べることにより、子どもの様子を的確に把握し、保育指導に生かすために開発された。PDD群(682名)、ADHD群(48名)、知的障害群(267名)、定型発達群(897名)について調べたところ、これら3尺度には十分な内部一貫性が示され、また群間の有意な区別がなされたことから、信頼性と妥当性をもったスクリーニング尺度であることが示された。さらに、定型発達群との識別性を調べたところ、各障害の識別に有用であることが示された。
著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
斯道文庫論集 (ISSN:05597927)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.419-441, 1965-03-30
著者
尾崎 康子
出版者
一般社団法人 日本教育心理学会
雑誌
教育心理学研究 (ISSN:00215015)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.96-104, 2003-03-30 (Released:2013-02-19)
参考文献数
32

週1回開催される親子教室に参加している101名の2, 3歳児が母親から離れて仲間集団に参加する経過を1年間観察し, 母子分離の状況を過分離型, 徐々分離型, 一定分離型, 不分離型の4つのパターンに分類した。これらの各母子分離型における子どもの愛着安定性と気質の特徴を調べ, この時期の母子分離に関わる要因を検討した。母子分離の様相が相反する過分離型と不分離型に分類された子どもは, 共に愛着安定性は低かったが, 過分離型の子どもは新奇場面にしり込みしないのに対して, 不分離型の子どもは新奇場面にしり込みし, 順応性も低かった。このように, 愛着の安定性が低い子どもでも, 子どもの気質により母子分離の状況が異なることが示された。一方, 新奇場面にしり込みをしても, 愛着が安定していた徐々分離型の子どもは, 次第に母子分離しており, 2, 3歳児が仲間集団に参加する際の母子分離は, 愛着安定性と気質が相互に関係して特徴づけられることが示唆された。
著者
杉浦 真弓 尾崎 康彦
出版者
名古屋市立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

原因不明連続2回以上の6例の流産患者及び16例の人工妊娠中絶患者の流産時の子宮脱落膜組織を採用した。児の染色体異常による流産例は検討から省いた。それぞれの脱落膜組織からリンパ球を分離し、CD^<16+56+3->細胞(NK細胞)を解析した。また、6例の反復流産患者及び5例の中絶患者の脱落膜を用いてマクロファージ-を分離し、TGF-βも測定した。いずれも流産群とコントロール群の差を認めなかった。現在原因不明習慣流産の治療として夫リンパ球による免疫療法を施行しているが、感染などのリスクがあるため、これに変わる免疫刺激剤としてOK-432の投与を試みた。3回以上の流産歴をもつ患者に妊娠初期にOK-432の皮内注射を行い73.9%(17/23)が成功した。夫リンパ球の免疫療法では75.1%(154/205)が成功であり、OK-432の皮内注射は従来の免疫療法と同じ効果を示した。OK-432による免疫療法中、NK細胞活性を測定した症例のうち成功例ではNK細胞活性が低下する傾向がみられた。以前、NK細胞活性が高いと流産の危険性が3.5倍高いことを報告したが、OK-432のはNK細胞活性を抑制することで流産を予防する可能性が示された。また、NK細胞活性は精神疾患とも深く関わっている。ストレスが流産をひき起こすことは既に証明されており、原因不明の流産における精神的要因についても調査した。29組の2回の流産歴のあるカップルに半構造面接を行った。1回目、2回目のemotional impactはそれぞれ-74.5、-80.0(妻)-59.7、-65.0(夫)であり、2回目のが強かった。流産の予知をしていない人ほど強かった。また、61人の妻のNK活性について、低い神経症的性格、抑鬱状態、高い自尊心は高NK活性と関係した。つまり、これらの性格が流産と関係する可能性が示された。
著者
尾崎 康
出版者
慶應義塾大学
雑誌
斯道文庫論集 (ISSN:05597927)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.315-357, 1979-12-01
著者
磯部 彰 金 文京 三浦 秀一 若尾 政希 大塚 秀高 新宮 学 磯部 祐子 鈴木 信昭 高山 節也 中嶋 隆藏 勝村 哲也 尾崎 康 藤本 幸夫 関場 武 栗林 均
出版者
東北大学
雑誌
特定領域研究
巻号頁・発行日
2000

本領域研究では、共同研究及び個別研究の両形態をとって研究を進めてきた。研究組織を円滑に運営するため、総括班を設け、目的達成への道標として数値的目標を掲げ、構成員が多角的方法をとりながらも、本研究領域の目標を具体的に達成し得るようにした。本研究では、東アジア出版文化を基軸とする新学問領域を確立することを目標とし、その骨格をなす要素を数値的目標に設定した。それは、(1)東アジア出版文化事典の編纂準備、(2)東アジア研究善本・底本の選定と提要作成、(3)東アジア研究資料の保存と複製化、(4)日本国内未整理の和漢書調査と目録作成、であり、更に、(5)東アジア出版文化研究の若手研究者の育成、(6)国際的研究ネットワークの構築などを加えた。初年度には、総括班体制を確立し、ニューズレターの発刊、ホームページの開設、運営事務体制の設定を行い、計画研究参画予定者を対象に事前の研究集会を実施した。平成13年度からは、計画・公募研究全員参加の研究集会と外国研究者招待による国際シンポジウムを毎年開き、国内の研究者相互の交流と国外研究ネットワークの構築を推進した。前半2年は、総括班の統轄のもとで、主として東アジア出版文化をめぐる個別研究に重点を置き、共同研究の基盤強化を図った。新資料の複製化も同時に進め、東アジア善本叢刊4冊、東アジア出版文化資料集2冊を刊行する一方、展覧会・フォーラムなどを開き、成果の社会的還元を行なった。研究面では、後半は共同研究を重視し、調整班各研究項目での共同研究、並びに領域メンバーや研究項目を越えて横断的に組織した特別プロジェクトを4ジャンル設定し、総括班の指導のもとに小研究域として定着させた。年度末ごとに報告書を編集する一方、前後の終了時に研究成果集を作成している。研究領域の数値的目標は約四分之三達成し、窮極の目的である新学問領域設定も、概然的ながら構想化が具体的になった。