著者
稲場 圭信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.219-242, 2012-09-30

本稿は、東日本大震災における宗教者の救援・支援活動、および、宗教者のそのような活動への宗教研究者の関わりを論ずる。東日本を襲った巨大地震と大津波は多くの犠牲者を生んだ。この未曾有の大災害に、多くの人が救援活動に駆けつけたが、宗教者の救援活動も迅速で、その力を示した。そこには、宗教者と宗教研究者との共同実践もあった。災害時に、寺社・教会・宗教施設は、緊急避難所・活動拠点としての場の力を発揮した。そして、精神面で心の支えとなる力も示した。宗教研究者自身も支援活動と調査を行い、その中で、被災地の宗教には、「資源力」、「人的力」、そして、祈り、人々の心に安寧を与える「宗教力」があることが浮き彫りにされた。本稿は、宗教者と宗教研究者の被災地への関わり方と共同実践の重要性をアクション・リサーチの観点から指摘した。宗教者、そして、宗教研究者にも息の長い関わりが必要とされている。
著者
下田 正弘
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.283-308, 2007-09-30

神仏習合の裏面の問いとしての神仏分離には、近世から近代にかけて中央集権国家を構築した日本の歴史全体が反映する。仏教の迫害と変容の基点となった明治維新をとりまく暈繝には、権力支配の構造の変容と諸知識体系化の歴史が重なりあう。経世済民の思想、国学の進展、一国史編纂の企図は一体化して明治国家の理念を形成し、仏教を非神話化しながらあらたな神話を完成する。この構造全体を読み解いて未来をみすえるとき、生活世界に基礎をおく解釈学としての仏教学の構築が強く望まれる。
著者
津田 雅夫
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.341-359, 2008-09-30

宗教批判の概念は独自の背景的な思想史的文脈のなかに成り立つ。日本思想において宗教批判の構想が、いかなる意味で成り立ちうるのか。本稿において私は宗教批判の概念を明らかにしようと試みた。そして独自の思想伝統を探るべく、まず三木清の宗教批判が「日本近代」へのラディカルな問いかけ(疑惑)に基づくものであったことを、戦前期日本の思想的到達点として確認し、その関連で近代啓蒙の遺産としてのマルクス主義と精神分析による宗教批判を取り上げ、遺産継承の仕方について考えた。最後に現代宗教批判の焦点として、「日常性の宗教」としての「国民(市民)宗教」を取り上げ、そのラディカルな批判の可能性について、「無」と「自然」の二つの概念が孕む両義性に着目しながら考察した。
著者
三ツ松 誠
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.79-102, 2012-06-30

近年、天皇祭祀を重視する新たな「国家神道」論が提出されているが、実際の祭祀を推進した側が近代日本の宗教政策をどう考えていたのかは議論が少ない。そこで式部寮で活躍した国学者飯田年平の議論を検討した。彼は厳密な古典研究に基づいた神祇・教導政策の実施を持論とし、天皇を中心とした神々への崇敬を他の諸宗教の上に置いた。そして「国体皇道」を国民に貫徹させようとする志向性に比して、その「宗教」性を拡充しようとする志向性は弱かった。彼の主張ほどに政府が教導政策へ積極的なコミットメントを行ったとは見做しがたい。だが、彼の論理が、所謂「神社非宗教論」と方向性を同じくしている、と評価することは許されよう。かかる立場からすれば、日本人としてのナショナル・アイデンティティの確立にはコスモロジカル、そしてスピリチュアルな基礎付けが第一に求められると説いた平田篤胤の議論は、批判すべきものだったのである。
著者
龍口 明生
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.1189-1190, 2006-03-30
著者
星川 啓慈
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.1-24, 2006

宗教学・宗教哲学の分野では、これまで「宗教の真理・奥義・核心などと呼ばれるもの-以下では<宗教の真理>として一括する-は言語でかたることができるか否か」という問題が頻繁に議論されてきた。本論文では、否定神学者としてのウィトゲンシュタイン(W)とナーガールジュナ(N)の思索をとりあげ、二人がいかにこの問題と格闘したかを跡づける。「語りうるもの」と「語りえないもの」を鋭く対置させ、自分の宗教体験をその区別に絡めながら思索した前期W。世俗諦と勝義諦からなる二諦説に立ち、勝義をかたる言語の可能性を見捨てることはなかったが、そうした言語の限界をふかく認識したN。宗教の真理をかたる言語をめぐる二人の見解には、驚くほどの共通点と根源的な相違点とが見られる。本論文は、二人の相違点ではなく共通点に焦点をあわせて、議論を展開する。二人の思索からいえることは、言語によっては宗教の真理について直接に「語る」ことはできないけれども、間接にそれを「示す」ことはできる、ということである。いわば、言語は宗教の真理を「示す」という目的のための「作用能力」をもつのである。