著者
櫻井 義秀
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.315-342, 2014-09-30

日本社会は人口減少とグローバリゼーションによって今後数十年のうちに大きく変わることが予想される。地域社会や家族において個人化が進み、労働や福祉の領域では個人化を前提に社会制度の再構築が進められていく。そうして人生の様々なリスクを回避する仕組みが国家に吸収されたり、財政難のために個人の自己責任に帰されたりすることで、人々の不安は増幅され、生活満足度としての幸福感は低下する。こうした状況において宗教のみが安泰ということはない。日本の伝統宗教が根ざしてきた地域や家族の共同性は浸食され、人々の切実な求めに応じられない教団は衰退を余儀なくされるだろう。本稿では近年の幸福研究を参照しながら、幸福とソーシャル・キャピタルの関係を論じる。互いに承認される人間関係や前向きな人生観を提供できる場においてこそ、人々はしあわせや希望を感じることができる。現代宗教は人々の要求に応えられるだろうか。
著者
宮家 準
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.1083-1107, 2005-03

日本の宗教的伝統はこれまで神道、仏教、道教など成立宗教の側から論じられることが多かった。けれども日本人は自己の宗教生活の必要に応じて、これらの諸宗教を適宜にあるいは習合した形でとり入れてきた。民俗宗教はこうした常民の宗教生活を通して日本の宗教的伝統を解明する為に設定した操作概念である。この民俗宗教は自然宗教に淵源をもつ神道と、創唱宗教である仏教、中国の道教、儒教、これらが混淆した習合宗教、さらに日本で成立した修験道、陰陽道、萌芽期の新宗教などが民間宗教者によって常民の宗教生活の要望に応じるような形で唱導され、彼らに受容されたものである。けれどもこれまでの研究では民俗宗教は単に形骸化した残存物と見られがちであった。本論文ではこの民俗宗教の成立と展開に関する先学の研究を特に民間宗教者の活動に関するものを中心に検討した。そして常民の民俗宗教史の中に日本の宗教的伝統の解明の鍵があることを指摘した。
著者
外川 昌彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.25-43, 2006-06

異質な宗教文化の接触や混交は、従来「シンクレティズム」と呼ばれて説明されてきた。日本では「神仏習合」としてなじみのある「シンクレティズム」概念は、しかし宗教学者や人類学者の間で様々な批判にさらされている。本報告では、ベンガル地方の聖者信仰に見られる多元的な宗教実践が構成される条件を明らかにすることで、「シンクレティズム」概念の再検討を試みるものである。具体的には、バングラデシュ東部のモノモホン廟での多元的な宗教的実践のあり方を検討し、聖者廟をめぐる地域社会の多様な言説を検証する。特に、シンクレティックな理念を体現する聖者としてのモノモホンの宗教性を尊重しつつ、同時にイスラームの観点を強調するイスラーム知識人の見解が検討される。これらの分析から、モノモホン廟を中心としたシンクレティックな宗教世界の構成が、一方で信徒による多元的な宗教的実践を可能にする条件を与えると同時に、他方では異なる解釈を通した多元的な言説の生成をも妨げないという意味で、近代のコミュナルな対立とも容易に結びつくことが明らかにされる。
著者
編集委員会
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.i-ii, 2007-09-30
著者
菅野 覚明
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.309-332, 2007-09

この論文の狙いは、日本の神話的世界の中に、仏教がどのような径路を経て入り込み、どのような形で定着したのかを明らかにすることにある。神仏習合という現象についての従来の研究は、教義や制度の側面に重点が置かれがちで、信仰者の内面の問題として本質を探究した研究は数少ない。本論文は、人間精神の最深部、すなわち意識と実在との関係において、神と仏の結合が何を意味していたのかを考察する。日本神話に登場する理想的人間は、神と交わる人々である。彼らに共通する特徴は、激しい感情(これは和歌を詠む能力に対応する)と、生への執着(死への恐怖)である。本居宣長は、この特徴を「真心」という概念であらわした。仏教は、神話的人間の内面を、新たな知によって捉え直し、彼らの内面のある部分を深め、またある部分の不足を補うものとして登場した。そのことによって仏教は、神を信仰する精神にとって不可欠なものとして、日本に定着したものと考えられる。
著者
渡邉 頼陽
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.3, pp.545-568, 2015-12-30

本論は、著名な社会学者であるピーター・L・バーガーが最も早い時期に説いた神学を取り上げ論じるものである。バーガーは多くの著作を世に問い、様々なテーマを論じてきた研究者であるが、その中で神学は些末なテーマではない。そして、その神学は最初から社会学者としての見解を取り入れ構想されているので、バーガー神学の理解はその宗教社会学理論を考えるためにも、より広くその宗教論を考えるためにも重要である。本論はバーガーの初期神学を、そこで語られる「宗教」「世俗(化)」「キリスト教」といった概念に注目して論じてゆくものである。なお、本論はその初期の神学を思想史的に検討することでバーガーの宗教論の深い理解に貢献することを目的としており、その神学的な妥当性を問うものでは無い。本論が注目するのは、バーガー初期神学において、その社会学者としての考察と、キリスト者としての信仰がどのように関係していたかという点なのである。
著者
林 研
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.621-645, 2014-12

ジェイムズの学説「信じる意志」は、情的本性に基づく信仰を正当化する試みだが、何でも好きなように信じてよいということではない。想定されているのは「生きた」仮説を信じるか疑うかの葛藤状態であり、そこでの実践倫理が問題なのである。人間心理において、蓋然性と望ましさは分離し難く、証拠なしには信じない態度も実は誤謬への恐怖に基づく。その一方で、人間本性には証拠がなくとも信じる暗黙の合理性がある。それならば倫理的基準としては証拠よりも、プラグマティズムが要請する帰結の整合性の方が相応しいとジェイムズは考える。さらに、宗教は「事実への信仰がその事実を生み出す助けになりうる」命題であり、その真理性を検証するにはまず信じなければならない。つまり、ジェイムズの言う「信じる」は盲信ではなく、整合性を検証しつつ真理を生み出すことである。この場合、救いを求める者にとっては、信じることが懐疑に優越すると言うことも可能になる。
著者
輪倉 一広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.119-142, 2008-06-30

岩下壮一(一八八九-一九四〇)はカトリック思想家であり、一九三〇年からl九四〇年までの約一〇年間へ神山復生病院の第六代院長(邦人初)として救癩事業に従事した。本稿は、患者と国民国家との関係をおもに権力論でとらえた既往の近代日本救癩史研究の知見を踏まえつつも、その副次的な位置にある患者の日常生活における直接的で対他的な関係史の視座から、岩下に投影された患者像を探ろうとしたものである。岩下は、恩師ヒューゲルが示した対立概念の相関的把握という中世哲学がもつパースペクティヴの有用性を、全体主義が強まる一九三〇年代の現実社会の中で検証しようとしたのである。つまり、「癩」ゆえに喪失した患者の<主体>を再生させるべく、患者の主体形成の観点-すなわちへ自ら宗教的・倫理的に<内的権威>をつくること-から患者-国民国家の関係を根拠づける哲学を構築していったのである。それゆえ、岩下を再評価すれば、国家主義的な救癩政策に加担していたとする従来の評価は妥当ではないといえよう。
著者
芝田 豊彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.47-70, 2008-06

田辺の<死の哲学>は、他者としての死者を対象としている点で画期的な意義を有する。しかしながら田辺の<死の哲学>の問題点として、<絶対無の働き>と<死復活という行>との不可逆の関係が曖昧なこと、および死者が絶対無にどのような仕方で入れられているのかが不明であること、この二点を指摘できる。フランクルの「過去存在」の思想では、人生における人間のすべての営みが過去存在として永遠に保存される、と主張される。滝沢においては、死者は過去存在として絶対無に入れられており、フランクルとの大きな類似が見出される。滝沢の思惟の根底には常に「神人の原関係」があり、「死ぬ」ということも神人の原関係から、或は神の空間(絶対無)から脱することなどではあり得ない。死者を絶対無における「過去存在」として捉えることによって、死者と死者の記憶は区別され、さらに幽霊現象も視野に入り得るのである。最後に幽霊現象を扱ったベルゲングリューンの珠玉の短編が紹介される。Es ist sehr bemerkenswert, dass es sich in Tanabes ,,Todesphilosophie" um die Toten als Andere handelt. Aber in seiner "Todesphilosophie" ist es nicht deutlich, in welchem Verhaltnis das "Shi-hukkatu" (das Sterbe Auferstehen) des Selbst zu dem Wirken des Absoluten Nichts steht und in welcher Weise die Toten zum Absoluten Nichts gehoren. Bei V. E. Frankl und K. Takizawa wird es behauptet, dass alle Werke eines Menschen als "Vergangen-sein" ewiglich im Protokoll der Welt (Frankl) oder im Raum Gottes (Takizawa) aufbewahrt sind. Es gibt also hierin eine grosse Ahnlichkeit zwischen Frankl und Takizawa. Takizawas Denken wird immer im Grunde vom Urverhaltnis zwischen Gott und Mensch bestimmt. Auch wenn ein Mensch sturbe, konnte er sich nach Takizawas Theologie nicht aus dem Urverhaltnis oder dem Raum Gottes herausziehen. Im Gedanken des "Vergangenseins" konnen die Toten vom Gedachtnis der Toten unterschieden werden, und ausserdem konnte man nuchtern sogar den Spuk als eine Erscheinung der Toten behandeln. Zum Schluss wird eine Spukgeschichte von W. Bergengruen vorgestellt.http://ci.nii.ac.jp/naid/110006792648