著者
姫野 敦子 ヒメノ アツコ Atsuko HIMENO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.49-65, 2015

中世の日本文学において、死、そして救済はどのように捉えられていたのかを世阿弥(生没年一三六三?〜一四四三?)作の能「鵺」を通じて考えた。中世文学における「救済」は、仏教的意味での「往生」として表される。つまり「六道輪廻」という苦しみから抜け出る方策が、「往生」である。世阿弥の時代前後の「修羅能」では、終末部に弔いを頼み、成仏を願う様が描かれる一方で、「鵺」では成仏が約束されてはいない。これは、「鵺」という畜生道の存在が影響していると考察し、作者の世阿弥は、成仏の困難さを描くことで、より観客へ訴える能をつくっていったと結論づけた。 In Japanese literature of the Middle Ages, how was death and its relief represented? I thought through a Noh-play "Nue" by Zeami (1363? ~1443?). In medieval literature is expressed as "Ojo" in the meaning of Buddhism. "Ojo" is a way of getting away from the pains known as the "transmigration in the six worlds." Entering Nirvana is not promised in "Nue", but I ask for a postlude to mourning with "Shura- Noh" in the times of Zeami, and I describe a state of hope of entering Nirvana. I conseder the influence of the "Hell of Beasts" on "Nue" and conseder that this gave Zeami a stranger means of appealing to audiences by showing the difficulties of entering Nirvana.

2 0 0 0 IR 明治の写本

著者
今野 真二 コンノ シンジ Shinji KONNO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.41-67, 2014

江戸期に出版された版本が明治期に書写されたものを「明治の写本」と呼ぶことにする。そうした明治の写本は文学研究においては、採りあげられることはほとんどない。しかし、実際はそうしたものがある程度のひろがりをもって存在していることが推測される。本稿では、稿者が所持する明治十九年に写された『夢想兵衛胡蝶物語』(文化七年刊)を分析対象とした。版本と写本との対照によって、さまざまな言語事象についての知見を得ることができた。写本の振仮名においては、版本の語形の短呼形を振仮名として施している例が少なからずあり、当該時期に長音形/短呼形に「揺れ」が生じていた可能性がある。 A textbook that was published in the Edo Period was reproduced in the Meiji Period. This type of textbook is not generally considered as valuable in the field of literature research. However, in some cases, it can be accepted as a valid resource material in the field of linguistics. The Japanese language has changed over the years from the Edo Period to the Meiji Period. Such a process of change can be seen by comparing the textbook published in the Edo Period with the textbooks reproduced in the Meiji Period. From the contrast examined in this paper, with regards to whether the prolonged sound was recognized or not in the Meiji Period, it was pointed out that the word form may have been deviated. Moreover, it was also found that there may have a deviation in the special syllables such as the geminated consonant and the syllabic nasal. Furthermore, in order to indicate the inflectional form of the subjective case and the objective case, differences in whether the particle has been used or not can be found in both textbooks, however, it was concluded that such a condition constantly exists in the Japanese language.
著者
山本 勉 荻野 愛海 花澤 明優美 Tsutomu YAMAMOTO Manami OGINO Ayumi HANAZAWA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.49-84,

東京都品川区荏原一丁目一―三・専修寺本尊阿弥陀如来および両脇侍像三軀は「木造阿弥陀三尊像」の名称で品川区指定有形文化財に指定されている。二〇一七年度の品川区文化財公開に関連して、二〇一七年八月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環でこの三軀の調査を実施した。本稿では、調査の詳しい成果を報告し、あわせてこの一具の彫刻史上への正確な位置づけをおこなう。三軀は定印を結ぶ阿弥陀如来坐像に蓮華を捧げる左脇侍観音菩薩立像と合掌する勢至菩薩立像が随侍する来迎形の阿弥陀三尊像で、各像がヒノキ材の割矧ぎ造りの技法になる。阿弥陀如来像と左脇侍像のおだやかな姿は平安時代末期、十二世紀後半頃の製作とみられる。右脇侍像は少し作風が異なり、やや遅れる時期、鎌倉時代にはいってからの製作を思わせる。三尊は昭和二十二年(一九四七)に千葉県市原市の光明寺から移されたものであるが、阿弥陀如来像内の銘記によって、室町時代、永正五年(一五〇八)に上総国佐是郡池和田の正福寺の像として修理されたことが知られる。正福寺は昭和十五年に光明寺に合併された寺である。三尊の彫刻史上の問題としては、まず阿弥陀如来坐像の両脇に来迎形の両脇侍立像が随侍する形が平安時代最末期に特有のもので安元元年(一一七五)頃の製作とみられる神奈川・証菩提寺像と共通することがあげられる。また正福寺の寺名や修理関係者の名は、光明寺に現存し、やはりかつて池和田にあった東光寺本尊であったという薬師三尊像中尊の永正元年の銘記にもみえ、当時の池和田における修理や造像の活発な状況を想像することもできる。以上を総合して、この三尊が平安時代末期の時期の関東地方の造像の水準を示すものであると評価する。
著者
米谷 郁子 Ikuko KOMETANI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.218-236, 2020-03-31

シェイクスピア作品における「子供」の表象は、従来、「脆弱さ」と「早熟性」のせめぎ合う存在として考察されてきた。本論文は、そうした従来の批評を踏まえつつ、『ジョン王』におけるアーサー、私生児、そして最終幕にのみ登場するヘンリー王子という3人の登場人物の「子供」性を考察することにより、作品が、「未来」とイコールの関係を結ぶ「子供」を否定することで、同時に「歴史」や王位継承の正統性の「政治」までも疑問に付す側面に光を当てる。これにより、シェイクスピアの作品が、「子供」の表象を通じて、未来へ向かって直線的に発展していくモデルとしての「歴史」観や、それによって打ち立てられるナショナリズムへの規範的な態度や感情を批判し得ていることを、論じるものである。
著者
桃井 治郎 Jiro MOMOI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.96-114, 2021-03-31

北アフリカのオスマン帝国アルジェ領・チュニス領・トリポリ領を拠点とする海賊は、15 世紀末以降3 世紀にわたって地中海に出没した。北アフリカ海賊の歴史は、15 世紀末から16 世紀の誕生期、17 世紀から18 世紀の存続期、19 世紀初頭の終焉期に分けることができる。誕生期は、オスマン帝国とスペイン帝国が地中海の覇権を争い、それに伴って海賊も活発化した時期である。存続期は、北アフリカ諸領がヨーロッパ諸国と和平条約を結び、海賊の活動が沈静化した時期である。終焉期は、ヨーロッパにおけるウィーン体制下の協調外交によって北アフリカ海賊の廃絶が決議され、北アフリカ諸領に軍事的圧力が加えられた結果、海賊が廃絶していく時期である。 一方、同時期のヨーロッパでは、イマニュエル・ウォーラーステインのいう近代世界システムが生成していた。世界システム論における「長期の16 世紀」および「長期の17 世紀」には、北アフリカ諸領は近代世界システムの外延部にあったが、近代世界システムが再拡張期を迎える「長期の18 世紀」の後半になると、北アフリカ地域は政治的にも経済的にも近代世界システムに組み込まれ、周辺化していく。 世界システム論の観点から見れば、15 世紀末から19 世紀初頭における北アフリカ海賊とは、北アフリカ諸領が近代世界システムの外延部に位置していた時期に、近代世界システムとその外部にある世界システム間の争いの一形態として現れた存在であった。また、北アフリカ海賊の存在は、15 世紀末から16 世紀にかけてスペインによる北アフリカ征服を妨げ、結果的に北アフリカ地域が近代世界システムに組み込まれるのを遅らせる役割を果たした。ただし、19 世紀初頭には、北アフリカ海賊は資本主義的世界経済の活動を阻害する存在として廃絶の対象となる。そして、近代世界システム拡張の障壁となっていた海賊の廃絶後、北アフリカ地域は近代世界システムに組み込まれ、周辺化していくのである。
著者
BAYNE Kristofer Kristofer BAYNE
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.39, pp.140-113, 2018-03-31

電車の駅は、どの都市においても、多岐にわたる言語景観の一つである。駅の周辺には、多種多様な文字や視覚的情報があり、掲示されているポスターはその一つである。本論文では、日本の駅に掲示されているマナー啓発ポスターを紹介する。マナー啓発ポスターは公共交通機関での間違ったマナーを正し、より良い行いを促すことを目的としている。本論文では、言語景観の概念を述べ、言語景観の環境としての駅の特徴を挙げる。最後には、マナー啓発ポスターの基本的な特徴、特に、駅に掲示されているマナー啓発ポスターの特徴について述べる。
著者
松本 隆 Takashi MATSUMOTO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)

明治の初めから半ばにかけて、心学道話を日本語学習用に加工した教材が相次いで出版された。この時期は、上方語の威信が失墜し、それに代わり東京語に基づく標準的な日本語が形成されていく時期と重なる。小稿は『鳩翁道話』や『心学道の話』を素材とする教材5種の調査をした。両素材は講述筆録であるため話し言葉を学ぶのに向く反面、幕末の刊行で上方語の特徴が濃厚なため新時代の標準モデルにふさわしくない面もある。これら要注意な表現に対し、各教材は注釈を加えたり、上方的でない表現を本文に選ぶなどの処置をとっている。各教材の上方語に対する姿勢は刊行時期によって異なる。早い時期の教材は、東西の言語的な差異を念頭におきつつも、上方語を依然有力な同時代語と捉えている。いっぽう刊行時期が遅くなると、東京語に重心が移りそこを基軸に、距離をおいて上方語を観察する姿勢に変わる。西から東への言語規範の推移は、表面的には刷新に見えるが、根幹においては継承であることを、教材編者ら見識ある非母語話者は心得ていた。そのため旧来の素材からでも新時代に対応しうる言語形式を吸収できたのである。
著者
金田 房子 玉城 司 Fusako KANATA Tsukasa TAMAKI 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.40, pp.21-37, 2019-03-31

玉城司の所蔵する礫亭文庫には、越後魚沼の富農で俳諧を愛好した増田二川旧蔵の俳書約五十点や当時の著名職業俳諧師からの二川宛書簡などが所蔵されている。天保の三大家の一人としてあげられる鳳朗は何度も越後に足を運んでおり、両者の深い交流がこれらの資料から見えてくる。 本研究は地方の文化人の俳諧活動と、諸国を行脚した著名な職業俳諧師との交流の様を明らかにすることを目的とするが、その具体例の一つとして、本稿では二川旧蔵資料を取り上げ、二川と鳳朗との関わりを書簡の記述も読み解きつつ紹介する。併せて二川関連以外の同文庫所蔵の鳳朗関係資料も紹介し、その活動を跡づけることにしたい。The Rekitei Library, owned by Tamaki Tsukasa, houses a collection of written materials that previously belonged to Jisen, who was an affluent farmer and haikai-lover in Uonuma, Niigata during the late Edo period. This collection contains about fifty haikai books and a number of letters addressed to Jisen from the renowned professional haikai poets of the age. The documents reveal that Hōrō, one of the three great haikai poets, frequently visited Niigata and closely interacted with Jisen. This research aims to shed light on the literary activities of the local intellectuals, as well as the interactions among prominent professional haikai poets who traveled around the country. For instance, it uncovers the relationship between Jisen and Hōrō through a close examination of the written materials once owned by the former and the letters the two exchanged. In addition to Jisen-related texts, it also introduces the documents concerning Hōrō, tracing his accomplishments.
著者
山本 勉 小久保 芙美 神野 祐太 伊波 知秋 ヤマモト ツトム コクボ フミ ジンノ ユウタ イナミ チアキ Tsutomu YAMAMOTO Fumi KOKUBO Yuta JINNO Chiaki INAMI
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.95-167, 2014

東京都荒川区の社会福祉法人上宮会所蔵聖徳太子像は、像内銘により、文永七年(一二七〇)に仏師尭慶が製作したことの知られる鎌倉時代後期の規準作品である。本稿では、二〇一三年五月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環で実施した調査の概要を、「伝来」「像の概要」「銘記および納入品」の三章に分けて報告し、さらに日本彫刻史上の意義や周辺の問題についても、「聖徳太子造像における位置」「形式と表現」「仏師尭慶について」の三章に分けて論述する。この像は、聖徳太子像の典型的形式のひとつである孝養太子像の初期作例として貴重である。銘記によれば不退寺(現在も奈良市に所在する不退寺にあたる可能性がつよい)の像として造られたもので、さらに十六歳の肖像であると明記し、その形式の原型となった像の存在が暗示されることも注目される。また、形式や表現の点で奈良・元興寺の善春作聖徳太子像と共通する点が多く、作者尭慶はその他の事績をふくめても、鎌倉中・後期の奈良で活躍した善派仏師と関係が深いこと、などが明らかになった。末尾には、近代以降のこの像の伝来に関する文献を関連史料として付載した。 The statue of Shotoku Taishi owned by the Jyogu Hospital Social Welfare Group (Jyogu Kai), Arakawa-ku, Tokyo is a standard work in the late Kamakura Period, known to be created by Busshi (sculptor of Buddhist statues) Gyokei in 1270 from the inscription in the statue. This paper reports an outline of an investigation conducted as a part of a seminar in "Art History Seminar III", a course offered by the Department of Cultural History, Graduate School in May, 2013, in three chapters; "History", "Outline of the Statue", and "Inscription and Items inside the Statue" and discusses its meaning in Japanese sculpture history and peripheral issues in three chapters; "Position in Creation of Shotoku Taishi Statues", "Style and Expression", and "Busshi Gyokei". This statue is valuable as an example of the early stage of statues of Kyoyo Taishi (considered to be a style of praying, being concerned about the condition of his father), which is one of typical styles of statues of Shotoku Taishi. According to the inscription, this statue was made for Futai-ji temple (this temple is likely to be Futai-ji still located in Nara city) and is clearly described as an image at 16 years old, and the suggestion of presence of a statue used as a model of the style attracts attention. The statue has many points in common regarding style and expression with the statue of Shotoku Taishi made by Zenshun in Gango-ji temple in Nara, and it was found out that Gyokei had a close relationship with the Zen-pa School Busshi who were active in Nara in the middle to late Kamakura period also in terms of other achievements. Materials relating to the history of this statue in the modern period and after are attached to the end of the paper.
著者
笹田 裕子 ササダ ヒロコ Hiroko SASADA
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.214-204, 2015

イギリスの児童文学作家・挿絵画家であるJoan G. Robinson(1910―88)は、作家自身の娘Deborahのテディベアについて書かれたTeddy Robinsonシリーズ(1953―64)や、5人兄妹の末っ子が主人公のMary-Mary(1957―60)など、幼い子ども読者を対象とした短編物語集で知られる。これらの作品では、挿絵もRobinson自身が描いている。また、Joan Gale Thomas という別の筆名で何冊かキリスト教に関する本も手がけた。前掲作品に比べると年長の子ども向けに書かれたWhen Marnie Was There(1967)は、カーネギー賞ショートリストに挙げられた作品である。1960 年代に出版された作品でありながら、本作品には1950 年代のファンタジー作品との共通点が見られる。 本稿では、When Marnie Was There の主要な要素である、主人公が過去と遭遇する特別な場所、子ども主人公にとっての愛する対象、孤立と成長について考察する。場所と少女主人公について論じる際には、本作品の舞台を北海道に移し、2014年に公開されたスタジオジブリ制作のアニメーション映画『思い出のマーニー』にも言及する。 最終的に、本作品の主題ともいえる、常に輪の「外側」(outside)にいる、すなわち孤立していると感じていた少女主人公が、他者を愛し自分も愛されるという経験を契機として成長する過程について明らかにしていく。 Joan G. Robinson (1910-88) was a British children's writer and illustrator who created several well-known works for young child readers. These included works such as Teddy Robinson series (1953-64) about her daughter Deborah's teddy bear and Mary-Mary books (1957-60) about the youngest girl in a family with five children . Robinson herself illustrated these works. She also wrote some religious books under another pen name, Joan Gale Thomas. When Marnie Was There (1967), which was written for older children, was shortlisted for the Carnegie medal. Although it was published in the 1960s, When Marnie Was There shows a lot of similarities to fantasy works of the 1950s. In this article, the significant aspects of When Marnie Was There are discussed: the specific place where the girl protagonist encounters the past; the child protagonist's object of love, and growing up through isolation. In the discussion of the place and the girl protagonist, the Ghibli animated film released in 2014, When Marnie Was There (original Japanese title: Omoide no Mani) is refrred to. Through this, the ar ticle explores the process of self-development the isolated girl protagonist undergoes, which is caused by the experience of loving the other and being loved in return.