著者
ベレック クロエ
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.29-41, 2015

薙刀とは, 本来長い柄の先に反り返った長い刃をつけた武器であるが, 一般的には「なぎなた」が女子の活動としてとらえられており, 学校のクラブ活動として発展している. 日本全国で盛んに行われているが, 国際的には1990に国際なぎなた連盟が発足し, 現在は14ヶ国が加盟している. なぎなたは女子向けの武道として長い歴史を持っているため. 日本においては女子のものとして認められており, なぎなたには女性的なイメージが存在している. そして1960年代と1970年代にアメリカ・台湾・ヨーロッパにおいてなぎなたの稽占を始めたのも女性だった. ただ, 海外ではなぎなたが, 僧兵と武士が戦場で用いた武器としてのイメージを通じて普及したため, やがて男性に人気が高まり, 1990年代以降, なぎなたの愛好者は男性のほうが多くなっている. 全日本なぎなた連盟はこの現象に対して, 反対を表明しておらず, 男性のなぎなたを日本の伝統文化の活動として認め, 日本人男性にもなぎなたを奨励するようになっている. 本稿は, なぎなたの園際発展を通して, なぎなたのジェンダー・イメージがどのように変化したのか明らかにした.
著者
MICHISHITA Toshinori TAKAHASHI Teruo
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-15, 2018-12-20

This paper presents a new strategy which allows us to achieve a successful Foucault pendulum with a portable and free-standing device developed. A numerical calculation for the two-dimensional Hamilton's equations predicted that the pendulum realizes the ideal Foucault performance when the time-averaged action vanishes. Experimental results strongly confirmed the numerical prediction from measurement of the action as a function of the distance between the control magnets. The device has performed the Foucault pendulum with the sufficiently accurate and reliable rotation rates corresponding to the latitudes. Independency of latitude for the optimal condition to the device was verified by the measurement of the rotation rates of the pendulum at different latitudes. Limit cycle and locking phenomena for the pendulum rotation were observed depending on the distance between the magnets. A criterion for their occurrences was examined by using the Adler equation.
著者
牧野 広樹
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.115-126, 2018

本稿では, フリッツ・イェーデの『青年運動か, それとも青年の育成か』(1917年)における指導者像を, 彼の教育観に影響を与えたルソーの消極教育(Negative Erziehung)における指導者像や, 20世紀初頭におけるドイツの改革教育を代表するグスタフ・ヴィネケンの指導者像と照らし合わせつつ明らかにする. フリッツ・イェーデの指導者像は, いわば「導かない指導者」ともいえる, 語義矛盾を含んだ指導者像であり, 指導者が青年を導くのではなく, 両者が対等に向き合って互いに関係性を形作るという共同体モデルを起点として考え出されたものであった.Das Wort „Führer" lässt auch heute noch an Adolf Hitler, der als charismatischer Diktator das Dritte Reich beherrschte, denken. Nach einem für das 20. Jahrehundert typischen Führerbegriff führt er mit Charisma und heldischem Wesen die Menschen an. Eine solche Auffassung herrschte im Laufe des 20. Jahrhunderts nicht nur in Deutschland, sondern auch in anderen Nationen oder Regionen weltweit vor. Fritz Jöde jedoch, einer der Vertreter der Jugendmusikbewegung, hatte andere als die damals typischen Ansichten zum Führerbegriff. Die vorliegende Abhandlung greift Jödes Führerbegriff und, im Zusmmenhang damit, seinen Gemeinschaftsgedanken auf und zeigt im Vergleich mit Gustav Wyneken, der Jödes Erziehungsgedanken beeinflusste und zugleich einen typischen Führerbegriff vertrat, die Gemeinsamkeiten und Unterschiede im Denken Wynekens und Jödes auf. Unter einem „Führer" wird im Allgemeinen jemand verstanden, der aus seinem ausgeprägten Führerwillen heraus im Zentrum einer Gemeinschaft steht und ihre Mitglieder anführt. Jöde andererseits hat das Idealbild des Führers ohne Führerwillen konzipiert. Der ideale Führer ist demnach nicht der Mensch, welcher der Jugend irgendeine Richtung weist, sondern derjenige, der im Verkehr mit der Jugend sich selbst sucht und ihr als Vorbild der Selbstwerdung dient. Nach Jödes Ansicht ist es genug, dass der Führer der Jugend eine Methode zur Selbsterziehung vermittelt, denn für ihn bedeutet Erziehung nicht, dass die Jugend den Anweisungen des Führers folgt, oder dass er sie über programmatische Inhalte wie etwa parteipolitisches Programm belehrt.
著者
町田 奈緒士
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.17-33, 2018-12-20

トランスジェンダーとは, 自らがある性別に属しているという自己イメージを意味するジェンダー・アイデンティティが, 出生時の性別に一致しない状態として定義されている. 従来のトランスジェンダーに関わる研究では, 性ないし性別違和は, 個人の内部にあるものとして語られてきた. しかしながら, 性とは, 他者との関係のうちに立ち上げられてしまうような側面があるのではないだろうか. 本論文は, 性ないし性別違和を関係論的な視座から捉え直すことを目的とし, 対話的自己エスノグラフィと語り合い法というアプローチを用いて調査を実施した. その結果をもとに, <器>という記述概念を導入し, それと類似概念との整理を行い, 他者とのあいだでどのように性別違和が体験されるのかについて論じた.
著者
藤原 征生
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
no.28, pp.81-92, 2019-12-20

『地獄門』(衣笠貞之助, 1953年)は, 戦後日本映画の国際的躍進の端緒として, あるいは日本映画のカラー化の嚆矢として, 映画史上に一定の評価を得ている. しかし, この作品の映画史的・音楽史的重要性は芥川也寸志による音楽にも見出せる. そこで本稿は, 『地獄門』の音楽的特徴を, 同時代の映画音楽からの影響による共時的要素と, 芥川の後年の映画音楽にも存在する通時的要素に分けて指摘したのち, 『地獄門』の音楽と芥川の代表作<<交響曲第1番>>が「モティーフの流用」という点で強い繋がりを持つことを示す. <<交響曲第1番>>は, 芥川が團伊玖磨・黛敏郎と結成し音楽史に大きな足跡を遺した「3人の会」の初回演奏会で初演された. 興味深いことには, 同曲は『地獄門』と同時期に成立しただけなく, 同根の音楽動機を持っていることが確認できる. かくして, 従来『地獄門』を巡ってなされた議論からは導き出され得なかった視点, すなわち戦後日本音楽史との繋がりから作品の再評価を提示する.As a landmark in Japanese cinema's overseas advance or as one of the earliest successful color motion pictures in Japan, Gate of Hell (dir. Teinosuke Kinugasa, 1953) has received a certain appreciation in the film history. However, its music composed by Yasushi Akutagawa has been overlooked. This essay firstly points out the characteristics of the music of Gate of Hell in both 'synchronic' features, that is, influences from other film music of the times, and 'diachronic' features which can be found in his later film music. Then I show how the music of Gate of Hell is strongly connected to his Prima Sinfonia (1954/55) in terms of the reutilization of motifs and the similarity of thematic. Prima Sinfonia was premiered at the first concert by San-nin no Kai (「3人の会」). Sannin no Kai, a collective formed by three composers, Akutagawa, Ikuma Dan, and Toshiro Mayuzumi in 1953, left big marks on post war Japanese music culture. What's interesting is that both Prima Sinfonia and the music of Gate of Hell, composed around almost same time, use the same motif. Thus this essay reevaluates Gate of Hell from a viewpoint of the connection with the history of music in post war Japan which has been scarcely mentioned by former studies.
著者
道下 敏則 髙橋 輝雄
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-15, 2018

この論文で、可搬型で自立型の小型フ―コーの振り子が理想的な振る舞いを実現する新しい方法が記述される。振り子の回転角の位相とその角作用に対する二次元の摂動ハミルトン方程式の解析結果から、フーコーの振り子はフーコーの回転時間以上にわたり平均化された角作用がゼロとなる場合に理想的な振舞いを呈することが新たに予測された。これは、角作用の詳細な観測実験によって、充分に実証された。フーコーの回転速度自身は緯度に依存するが、開発された装置で異なる緯度における観測結果から、理想的フーコーの回転を実現する制御パラメーターの最適化条件自身は緯度依存性がない事が確認された。さらに、制御用パラメーターに依存して、振り子の回転のリミットサイクル運動や位相のロッキング現象も観測された。これらの現象の発生条件は、アドラー方程式を用いて検討された。
著者
谷川 嘉浩
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.89-99, 2018-12-20

本稿は, 経験を書くこと, 生活を記録することをめぐる鶴見俊輔の思想を探索する. 彼の思想を貫くのは, 日本の知識人が状況変化に応じて態度転換していったことへの批判である. その場の解答をなぞるだけの優等生は, 知的独立性を失いがちなのだ. これへの対処として, 自身の経験に基づく作文に鶴見は注目した. 本稿の目的は, 自己を含む状況全体を相対化する契機を, 鶴見がどのように確保したのかを明らかにすることである. 彼の「方法としてのアナキズム」に基づき, 生活綴方論以降の彼の作文論で, 当初の想定と現実との齟齬への注目が重視されること, そして, 齟齬と対峙する人間の力を「想像力」に帰したことを明らかにする. さらに, 想像力が繰り返し立ち返る場となるように, 鶴見が提出した経験を書く際の基準について, 後年展開された彼の文章論を踏まえて論じる.
著者
谷川 嘉浩
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.107-118, 2017

FD義務化を経て, 外来的なFDも日本国内に定着したように見える. しかし, 実際のFD実践・FD概念は多義的で錯綜しており, 交通整理を要する. 本稿では, FD概念を整理し, FDの根本目的を示した上で, それに適合的な思想を検討し, 効果的なFDの理論的条件を明らかにする. FDのミッションは「教育」であり, そこでは「柔軟な適応力」と呼べるような, 反省的探求を営む力の涵養が目指されている. 柔軟な適応力の内実を解明するために, 人間は現状に安定しない「未熟さ」があり, それが成長可能性を担保すると主張した, アメリカの哲学者ジョン・デューイの教育哲学を参照する. ここでは, 彼の「反省的注意」概念を検討し, その成果をアメリカの社会学者R. セネットのクラフツマンシップ論から捉え直すことで, FD活動それ自体が, 折り重なる反省的注意を大学全体に要求するような, 共同的な反省的探求の側面を持つことを示す. なお, 末尾では2017年度に義務化されたスタッフ・ディベロップメントにも一定の評価を行う.Faculty Development (FD) has become common in Japan. But it seems to be ineffective because the ideas of FD in Japan are lacking some holistic view. This paper aims at clarifying some theoretical conditions of the effective FD. The researchers have pointed out that its primary ends lie in education. I will define its educational ends in the light of the industrial world's need for FD. The capacity they need may be called the "power of the flexible adjustment", and this can be identified with the "reflexive attention" which John Dewey, an American psychologist, set up as the ends of his educational philosophy. According to his thoughts, I will elucidate some bases to develop reflexive attention which enables us to acquire the habits of reflexive inquiry. In The Craftsman, Richard Sennett, an American sociologist, insists that Dewey's philosophy has some practical implications. From his viewpoint, FD may be interpretedas the communal or cooperative craft of education that needs faculty members to have the reflexive regards for each. This view would imply the importance of having "a holistic view" by crafting the communities for FD.
著者
松波 烈
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.81-93, 2016

ドイツの詩人ヨハン・ハインリヒ・フォスは, 一般にはホメロス翻訳と自作牧歌詩によって知られているが, ドイツ譜韻律論の分野では, その先鋭的な擬古主義によりたびたび言及され, 多くの議論を呼んできた.フォスの理論が詳細に研究され評価されるようになっている今日でも, 詩学の主著『ドイツ語の時量時測』のテキストを読み解きその思想の射程を精確に見定めようとする議論はなお見当たらない.本稿はこの作業を行いながら実作を併せて対照し.はたしてフォスが旧世紀の遺物としての古典模倣者にすぎないのかどうか, あるいはその詩行に時代を突出する可能性が秘められているのかを検証する. This paper aims to assess Humc's handling of the "liberty of indifferente" and to reveal some arbitrary selections in his philosophy. Although Hume refers to a certain "Sensation" regarding the liberty of indifferente, he firmly rejects it and accepts the liberty of spontaneity. However, this fact is cicarly in conflict with the attitudc of Hume's philosophy that regards sensation, passion, feeling, etc. as intemal impressions that ftindamentally constitute aIl our perceptions and knowledge. From what Hume states about liberty, it could naturally bc inferred that there is an impression of the liberty of indiffcrcncc in it and that we recognize liberty by way of this impression. The reason why Hume does not incorporate the liberty of indifferente as an impression into his philosophical system is, 1 think. that he sees human beings excIusively from the particular perspective of a "philosopher, " and regards knowing causality as more important for human beings. I conchide this paper by stating that according to the initial purpose of his philosophy, Hume should have accepted the liberty of indifference as well as the one of spontaneity, and from that perspective, should have considered how our two liberties arc concerned with morality and religion.
著者
福田 安佐子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.55-68, 2016

ゾンビとは, 歩く死者, 生きている死者と呼ばれ, それは, 腐敗した身体を引きずってのろのろと動き, 集団で人問に襲いかかる.噛み付かれた人間は, 生きたまま肉体を食われるか, うまく逃げたとしても, 自らがゾンビへと変化し, 理性や感情を失い, 他の人間を襲いはじめる.このようなゾンビ像は, 1970年を前後して.ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リピングデッド5をはじめとする三部作の世界的なヒットによって生み出された.しかしながら, 2002年以降のゾンビ映画は, そのより凶暴な特徴により〈走るゾンビ〉や〈ゲームゾンビ〉と呼ばれ, 従来のものとは異なるものとして説明されている. 木稿では, ゾンビ映画史を振り返りながら, 1930年頃に西カリブ諸島を舞台に生み出されたゾンビが, ロメロの作品によって, その造形と物語構成の点でいかに変容したかを説明する.この時, ロメロゾンビとは, 前述の特徴に加え, 人間に似た怪物, という特徴を獲得していた.一方で, ロメロゾンビは当時のホラー映画におけるゴアジャンルの影響を受けることで, より残虐性を増したまた別のゾンビ像を形成した, つまり, 人問に似た怪物としてのゾンビと, 腐敗しよりグロテスクなゾンビである.双方はともにそれぞれの仕方で観客の恐怖を煽った.く〈走るゾンビ〉においては, この二種類のゾンビが様々な仕方で一つの映画の中に共存している, この共存の特殊な事態にこそ〈走るゾンビ〉の特異性が存在することを明らかにする. We know what zombies are. They are referred to as the "walking dead" or "living, dead". They have started to decompose, zombies walk in a tottering. manner, and they attack humans en masse for flesh meat. If a zombie attacks someone, that person will either be eaten alive or if he is lucky to escape, the victim himself will transform into a zombie and start to attack others. Such an image of zombies was rendered around the 1970's, by the Zombie trilogy filmed by George Andrew Romero (Night of the Living Dead, Dawn of the Dead and Day of the Dead). However, zombie films produced after 2002 portray them in another way. Zombies in these films arc called "running zombie" or "game zombie" and it is explained that they are vastly different from Romero's zombies. In this paper, we reconsider the historical view of zombie films and how zombies, who were in fact born in the West Indian nation of Haiti around 1930, have transformed in terms of representation and narrative thanks to the influence of Romero's works. Romero's zombies, in addition to the above-mentioned features, were human-like monsters. Furthermore, the effect of the gore genre, where Romero's zombies are also classified, created another image of the zombie : the one with more brutality and blood-shed. These two types of zombies, one as a human-like monster and another more grotesque and bloody, exist in their own works and frighten audiences in their own ways. Yet, in works containing "running zombie", these two types of zombies co-exist in the same film in various ways. It is in this special co-existence that a specificity of the "running zombies" is found.
著者
伊藤 弘了
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.31-44, 2016-12-20

本論文では是枝裕和の映画作品における入浴の役割を論じていく.第1節では, 是枝のフィルモグラフィを辿りながら, 入浴場面が「他者との親密な関係性を構築する場」として機能している点を確認する.入浴のこの機能は, しばしば「血縁によらない家族関係」という是枝作品の主要なテーマと結びつく.登場人物たちは風呂の水を共有することで家族になっていくのである(『幻の光』[1995年], 『誰も知らない』[2004年], 『花よりもなほ』[2006年], 『歩いても歩いても』[2008年]), その裏返しとして, 他者と水を共有しない入浴(一人きりの入浴)は, その人物の孤独をあらわすことになる(『ワンダフルライフ』[1998年], 『歩いても歩いても』, 『そして父になる』[2013年], 『海街diary』[2015年], 『海よりもまだ深く』[2016年]).第1節の議論を踏まえて, 弟2節では『DISTANCE』(2001年) に入浴場面が完全に欠けている意味について考察する.この作品では, 他者との関係性の不全が描かれており.入浴の欠如はこのテーマを体現しているのである, 水の主題系に彩られた本作では, 他者と関係を深めるための装置として, 入浴の代わりにプールが用いられることになる. This paper sheds light on the function of taking baths in Hirokazu Kore-eda's films. Section 1 demonstrates that throughout his filmography, bathing creates intimate relationships between characters. The function of baths is linked with the theme of families without blood relationships, one of the most important subject themes of Kore-eda's works. His characters create families by taking baths together (Alaborasi 1995 ; Nobody Knows 2004 ; Hone 2006 ; Still Walking 2008). Contrarily, taking a bath alone represents the solitudes of the character (After Life 1999 ; Still Walking ; Like Father, Like Son 2013 ; Our Little Sister 2015 ; After the Storm 2016). Based on this argument, section 2 examines Distance (2001). This film completely lacks a bath scene. It depicts the disorder of intimate relationships, and the lack of bath scenes embodies this theme. Yet, Distance substitutes the scene of swimming pools with the bath scenes and thereby articulates the relationship between water and intimacy as other Kore-eda films do.
著者
小島 基洋
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.1-12, 2015-12-20

村上春樹の『羊をめぐる冒険』(1984)の基底には<再・拠失>の詩学がある. 本作では, 鼠と呼ばれる主人公の死んだ親友が, 羊男, そして幽叢として姿を現し, 再び姿を消す. また, 主人公の自殺した恋人が, 「誰とでも寝る女の子」, 「耳の女の子」として現れ, 前者は交通事故で死に, 後者は突然, 主人公のもとを去る. さらに, <再・喪失>の詩学は登場人物だけなく, 物や場所にも適応される. 時計の停止が, 鼠の<再・喪失>を, 再訪した海岸から立ち去ることが, 青春の<再・喪央>を表してもいる.
著者
喜多 野裕子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.159-171, 2014-12-20

『ハムレット』におけるオフィーリアについては, これまでジェンダーやセクシュアリティ, あるいは女性の狂気の表象という観点から解釈されてきた. しかしBialo が指摘するように, そのような解釈は階級を見落としがちであり, さらにはオフィーリアの狂気の場がデンマーク王位の不安定さが繰り返し描写される『ハムレット』という芝居の構造の中で論じられることも少ない. 故に本論は, Bruce Smith によるシェイクスピア劇におけるバラッド・パフォーマンスに関する議論基づき, 4幕5場におけるオフィーリアのパフォーマンスの劇的機能を明らかにする. オフィーリアのバラッド歌唱は民衆による政治的危機下において行われる. 民衆は, レアティーズの父の殺害を隠蔽する王室に反抗し, レアティーズを王にせよと要求し宮廷に進攻する. この場を考察することで, オフィーリアのバラッド・パフォーマンスは, 初期近代イングランドにおいては舞台上で直接的に表出させることが許されなかった民衆の抗議を内在することを明らかにする.
著者
平井 克尚
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.13-26, 2011-12-20

ウルマーのイディッシュ期の映画『グリーン・フィールド』を論じる.これまでこの映画に関しては,文化的側面とフィルム・テクスト的側面の差異がさして意識されることなく調和的に論じられてきたが,本論では,これまで論じられてこなかった,イディッシュ文化とフィルム・テクストとの軋みの部分に焦点をあて,この観点を軸に論じる.それは,ウルマーによるこの映画がマイノリティの文化的共同性を単に補強するものではなく,様々な映画的記憶により織り成されたテクスチャーであることを示すことになるであろう.最初に,この期の映画を検証するにあたりイディッシュ,ウルマー,イディッシュ期のウルマーについて見る(I).次に,この期のウルマーの映画『グリーン・フィールド』の製作経緯を見る(II).引き続き,この映画の最後のシーンに着目する(III).最期に,この映画のフィルム・テクストを分析する(IV).
著者
廣川 祐司
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.97-109, 2011-12-20

平成21年10月27日に山梨県の甲府地方裁判所において,同県身延町における「入会権不存在確認請求訴訟」の判決が出された.係争事案は一般・産業廃棄物管理型最終処分場の建設計画をめぐり,建設賛成派住民(原告)が建設反対派住民(被告)を提訴したものである.建設予定地の一部にはK集落(K組)の入会地が含まれており,入会権の存在を根拠に反対派住民が建設反対活動を行っている.そのため,建設を推進する賛成派住民が,当該係争地には「入会権は存在しない」ことを確認するために提訴した.本係争地は記名共有によって登記されている土地である.このように入会地を記名共有で登記し保持し続けている地域は数多くあり,本係争事例を検証することによって,記名共有登記制度が入会を担保するための受け皿として十分でないことを提示するのが,本稿の主たる目的である.
著者
平野 拓朗
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.13-25, 2009-12-20

本研究の目的は,教師および生徒たちの学級への参加を捉えるために,ディレンマを被る観察者の立場を提示し,検討することである.本研究では,学習が,実践共同体(community ofpractice)への参加のプロセスとして捉えられるとする状況的学習論,とりわけレイヴとウェンガーによって提唱された「正統的周辺参加」(Legitimate Peripheral Participation : LPP)論を基軸として,学級への参加が,そこで期待される「成員性」(membership)を身につけていくプロセスと関連していることに注目した.さらに,LPP理論を踏まえ,学級において,その「成員性」を引き受けるさいの当事者の経験を,そこで「期待される成員像」(所定の参照枠)から記述するのではなく,それに関与しながらも,疑問を感じずにはいないディレンマを被る観察者の立場から捉える必要を示唆し,検討した.その結果,1)学級における「期待される成員像」が,教師や生徒たち,ボランティアなどの意図や願いにおいて合意されているため,外部者の「批判」においては変容するこのない強固さを持っていること,2)学級への参加が,「期待される成員像」には回収されないかかわりをも生じさせること,3)参与観察者のディレンマに注目することで,そのかかわりを「見る」ことが可能であることが明らかとなった.
著者
石岡 学
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-12, 2009

本研究の目的は,戦前期の小学校における職業指導を対象とし,適職決定・就職先決定における論理・実態の分析を通して,そこにいかなる教育的眼差しがあったのか,またその教育的眼差しにはいかなる意味・機能があったのかを明らかにすることである.これは,移行問題が「教育問題」化していく過程で学校がいかなる主体的役割を果たしたのかを解明するうえで,きわめて重要な課題である.第1章では,上記の研究課題の背景・意義について述べた.第2章では,適職決定のプロセスにおける教育的眼差しとその機能について明らかにした.学校において主流となったのは「消極的指導」というあり方であった.その背景としては,求人市場の状況や適性検査への疑義に加え,児童の「可塑性」「弾力性」を重視する「教育的観点」があった.こうした「消極的指導」においては児童の「自発性」や「自己省察」が重視されていた.その理由としては,新教育的主張との連続性に加え,指導者側の責任回避という側面もあった.第3章では,就職先決定のプロセスにおける教育的眼差しとその機能を解明した.小学校が自ら求人開拓・就職斡旋を行うことは原則からの逸脱であり, 「職業精神の涵養」を重視する立場の小学校からは批判された.しかし,職業紹介所の弱体性などの現実的状況ゆえ,それは全否定されえないものであった.このような小学校における求人開拓・就職斡旋という営為は,保護者からの信頼に応えるためなどという理由づけもあって,職業紹介所のような「事務的な処理」とは異なる「教育の仕事」として積極的に肯定されてもいた.第4章では,本研究で明らかとなった知見をまとめ,総合考察を行った.The purpose of this study is to clarify the meaning and the function of the educational view in the decision of suitable occupations and places of employment for students, focusing on the vocational guidance of primary schools in the prewar period. This is very significant to examine what kind of role schools played in the process of regarding transition as a problem of education. Section 1 explains the background and the significance of this study. Section 2 clarifies the educational view and its function in the process of the selection of suitable occupations for students. The results are as follows : "Negative guidance" became the mainstream in the way of guidance of primary schools. The dominance of negative guidance was according to the situation of the job market, the doubts about vocational aptitude tests and "educational view" that regards the trainability and the flexibility of students as important. "Initiative" and "reflection on one's self" by students were also regarded as important in the "negative guidance". In the background, there were not only the continuity to the assertion of "Shin-Kyoiku (New Education)" but also the purpose to evade guides' responsibilities. Section 3 clarifies the educational view and its function in the process of the selection of places of employment for students. Teachers who made much of the "cultivation of spirits of enterprise" were critical of helping students to find jobs by schools, because it was the departure from the principle. However, it couldn't be entirely denied due to the imperfect system of the employment agencies. Teachers who had helped students to find jobs thought it positive. The logic was that they had to come up to the expectations of students' parents, and also that it was the "duty of education" which was different from the "businesslike management" as the employment agencies. Section 4 is a summary and discussion.

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出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.127-180, 2010-12-20
著者
石岡 学
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-12, 2009-12-20

本研究の目的は,戦前期の小学校における職業指導を対象とし,適職決定・就職先決定における論理・実態の分析を通して,そこにいかなる教育的眼差しがあったのか,またその教育的眼差しにはいかなる意味・機能があったのかを明らかにすることである.これは,移行問題が「教育問題」化していく過程で学校がいかなる主体的役割を果たしたのかを解明するうえで,きわめて重要な課題である.第1章では,上記の研究課題の背景・意義について述べた.第2章では,適職決定のプロセスにおける教育的眼差しとその機能について明らかにした.学校において主流となったのは「消極的指導」というあり方であった.その背景としては,求人市場の状況や適性検査への疑義に加え,児童の「可塑性」「弾力性」を重視する「教育的観点」があった.こうした「消極的指導」においては児童の「自発性」や「自己省察」が重視されていた.その理由としては,新教育的主張との連続性に加え,指導者側の責任回避という側面もあった.第3章では,就職先決定のプロセスにおける教育的眼差しとその機能を解明した.小学校が自ら求人開拓・就職斡旋を行うことは原則からの逸脱であり, 「職業精神の涵養」を重視する立場の小学校からは批判された.しかし,職業紹介所の弱体性などの現実的状況ゆえ,それは全否定されえないものであった.このような小学校における求人開拓・就職斡旋という営為は,保護者からの信頼に応えるためなどという理由づけもあって,職業紹介所のような「事務的な処理」とは異なる「教育の仕事」として積極的に肯定されてもいた.第4章では,本研究で明らかとなった知見をまとめ,総合考察を行った.