著者
久保 豊
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.69-80, 2015

本稿は, 戦後日本映画を代表する映画監督木下恵介の『海の花火』(1951年)を分析対象とし, そのクィア映画的意義を明らかにすることで, 木下作品の再評価に貢献することを目指すものである. 『海の花火』は, 木下研究において長年低い評価に甘んじてきた作品であるが, 男性主人公と少年との絆に注目した映画評論家石原郁子や長部日出雄によって再発見された. しかし, 彼らの批評は, 男性同士の絆の表象を木下自身の同性愛的傾向にただちに結びつけて考える傾向があり, 映画テクストにおいて男性同士の親密さがいかに描かれているかが十分に検討されていない. 本稿は, 異性愛規範を脱構築するクィア映画理論を参照しつつ, 『海の花火』のテクストにいま一度目を向け, 男性間における切り返し編集と男女間における切り返し編集との問に見られる差異を考慮に入れた分析を行なう. 男性間の親密性表象に対するテクスト分析を通して, 作品内, ひいては日本映画史におけるその意味を解明する.The purpose of this essay is to clarify the significance of Fireworks Over the Sea (Umi no hanabi, Keisuke Kinoshita, 1951) as a queer film, and finally to contribute to the reevaluation of Kinoshita's films in Japan. This film had been almost neglected for years even among film scholars and critics interested in Kinoshita's works. Although it was given a long overdue attention through the reviews by Ikuko Ishihara and Hideo Osabe, their discussions tended to ascribe the prominence of the representation of male bonding in this film wholly to Kinoshita's homosexual leanings. We should keep it in mind that Fireworks Over the Sea is a mainstream film in the disguise of heterosexual ideology. In order to deconstruct this seemingly heteronormative text, this essay adopts queer film theory, focusing, among others, on the nuanced uses of shot-reverse-shot editing. The close analysis of the representation of male intimacy will help the general movement toward the reevaluation of Kinoshita's films.
著者
中川 萌子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.81-93, 2014

マルティン・ハイデガーは, 形而上学を一貫して批判することを通して, 存在問題を新たに問い直すことを目指した. しかしハイデガーは, 前期において―とりわけ彼の思索の「形而上学期」と呼ばれる時期において―形而上学の基礎づけを通して形而上学を乗り越えようとした. 後に彼自身がこの時期の思索に関して自己批判を加えている. しかし, 結局のところ「形而上学期」の思索の如何なる点がまさに「形而上学的」であったのかということは, ハイデガー自身によっても先行研究によっても明確にされているとは言い難い. けれども, ハイデガーの存在問題の独自性が, 形而上学との闘いの中で, とりわけ彼自身の形而上学的傾向に対する自己批判の中でより鮮明に捉えられるであろうということを考慮するならば, 上述の問題は等閑視されてはならない. 上述の問題の解明のためには以下の論点が肝要である. それは, 「形而上学期」において捉えられた存在の非性(「脱-底」と「無」) とその内への被投性が規定不十分により軽減されてしまっているということ, それ故にここでの存在が形而上学的に了解された存在(「現前性」) と明確には区別されえないものになってしまっているということである. 言い換えれば, 存在がここでは存在者を常に現前させ続けることと見なされてしまいうるのだが, そうした存在はハイデガーの主張する「問うに-値するもの」としての存在とは全く異なるものであると言わざるをえない. 他方で, 「形而上学期」後に述べられた存在の非性(「覆蔵性」) とその内への被投性は, 現前するものを現前させ続けうるか否かに関して無規定であることを意味していると解釈しうる. つまり, 存在は存在者とは全く異なって振舞いうるため, 形而上学的に存在者から類推されるようなものではない. これが自らの形而上学的傾向に抗うハイデガーの存在了解であると言えよう.Martin Heidegger beabsichtigte mit seiner kontinuierlichen Kritik an der Metaphysik erneut die Seinsfrage zu stellen. Trotzdem hat er in seiner ersten Periode, vorzuglich in seiner sogenannten "metaphysischen Periode" versucht, die Metapysik zu uberwinden, indem er gemas seinem Denken ein solides Fundament fur die Metaphysik legt. An diesem metaphysischen Gedanken hat er spater Selbstkritik geubt. Welche Punkte jedoch letztendlich in seinem Denken "metaphysisch" waren, ist weder von Heidegger selbst noch von den bisherigen Forschungen prazisiert worden. Zieht man allerdings in Erwagung, dass die Originalitat der Heideggerschen Seinsfrage lediglich im Kontext seines Konflikts mit der Metaphysik, insbesondere der Selbstkritik an seiner eingangs erwahnten eigenen metaphysischen Tendenz verstanden werden kann, sollte dies nicht vernachlassigt werden. Hierbei ist zu beachten, dass in Heideggers "metaphysischer Periode" die Negativitat des Seins ("Abgrund" und "Nichts") und die Geworfenheit dorthinein aufgrund defizitarer Bestimmung gemindert wird und daher das hier beschriebene Sein nicht vom metaphysisch verstandenen Sein ("Anwesenheit") unterschieden werden kann. Mit anderen Worten differiert das Sein, das als etwas, das das Seiende fortwahrend sein lasst, angesehen werden konnte, durchaus vom "frag-wurdigen" Sein. Die nach dieser Periode formulierte Negativitat des Seins (" Verborgenheit ") und Geworfenheit dorthinein konnten aber auch als etwas ausgelegt werden, das unbestimmt lasst, ob das Sein das Anwesende weiter anwesend lassen kann oder nicht. Also ist metaphysisch das Sein nicht analog aus dem Seienden zu schliesen, da sich das Sein vollig anders als das Seiende verhalten kann. Dies ist Heideggers Seinsverstandnis, das im Widerspruch zu seiner metaphysischen Tendenz steht.
著者
奥田 恒
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.129-142, 2016

本稿は, 「心理的な事実」にもとつく世界の貧困削減へのアプローチを探るため, チャンドラン・クカサスが提唱する寛容のリベラリズムについて論ずる.まず, リベラル・コスモポリタニズムとリベラル・ナショナリズムを和解させる試みを検討し, 後者が人々の「心理的な事実」を正義の源泉と見なすがゆえに成功しないと論ずる.それに対し, クカサスは, リベラル・ナショナリストと同じく「心理的な事実」を正義の源泉と位置づけるが、ナショナルな次元より小さいアソシエーションにおいて正義は実践されると主張する.彼は.変化に開かれた集合的な貧困削減と, 各アソシエーションによる片務的な貧困削減を許容する.加えて, クカサスの理想社会と貧困削減を同時に達成しうる方策として, 国境開放政策が積極的に評価されることを指摘する. This paper discusses Chandran Kukathas' view of how tolerationist liberalism deals with world poverty. It first argues that liberal cosmopolitanism conflicts with liberal nationalism because the latter uses "psychological facts" to define what justice requires. Kukathas agrees that psychological facts have the effect of defining justice, but he doubts that they are shared across nation states. He argues that smaller associations are more likely to share "psychological facts" and an understanding of justice. He supports collective action that is open to future changes and unilateral actions to reduce world poverty. In addition, he endorses policies involving open national borders as a potential means for achieving what he views as a "good society" and reducing poverty at the global level.
著者
戸田 潤也
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.65-78, 2009

『人倫の形而上学の基礎づけ』には定言命法および定言命法と見なされるものが様々な形で提示されている.それゆえ,定言命法全てを正確に数え上げ分類することは非常に困難である.こうした中,定言命法を五つの法式に大別するペイトンの解釈は,現在に至るまで多くの研究者によって踏襲されている.この解釈は同時に定言命法の「基本法式」を「道徳性の普遍的な最高原理」とするものであるが,このことは意志の自律を「唯一の」「道徳性の最高原理」とするカントの立場と相容れないように思われる.本稿では,ペイトンの解釈をテキストに定位して確認し(第一節),その解釈とは異なった角度から意志の自律の特性を明らかにし(第二節),その正当性を確保する(第三節).これによって,意志の自律の解明を行なうその後の同書の議論への道筋をつけることができる.The Categorical Imperatives and the alleged Categorical Imperatives in Kant's Grundlegung zur Metasphysik der Sitten take a variety of forms. It is almost impossible for us to classify all of them. Hence, the interpretation of Paton, who broadly divides the Categorical Imperatives into five categories, numbers each of them to definite the relation among them, and then classifies them into three types based on their contents, has been followed by many scholars. Paton insisted that the so-called Formula of Universal Law of the Categorical Imperative is "the general and supreme principle of morality." Of course, his view is based on the text. However, this view also appears to be inconsistent with Kant's assertion, according to which autonomy of the will is "the soul"- the "supreme principle of morality." How do we solve this dilemma? In this article, I (1) trace Paton's interpretation by focusing on the text, (2) clarify the special quality of autonomy of the will from a perspective different from that of Paton, and (3) verify the validity of my thoughts. Through this examination, I can obtain a unique autonomy of the will that does not damage the value of the Formula of Universal Law. Further, we can pave the way for later arguments by addressing the problems regarding the prospects of autonomy of the will.
著者
寺尾 智史
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.137-150, 2013-12-20

グローバリズムの進展にともないますます流動化する人間社会について, 従来の地域的区切りで分類・把握し, その特徴に合致した施策を展開することは困難となりつつある. このような「領域性原理」による管理・統治は限界を呈している一方で, 「非領域性原理」によるガバナンス, すなわち, 区割りによる領域を定めない普遍的な管理・統治はその方法論が確立しておらず, 実効性を持ち得ていない. 本稿は, こうした社会科学, 人文科学上のジレンマに対して新たな視角を提供するため, 河川工学や環境科学で一般的になっている「流域圏」という圏域把握を「領域性」の文脈で捉えなおすものである. 本考察をすすめるうえで, 対象としたのは加古川流域である. この水系は, 歴史的境界をはじめ従来から流域内の文化的一体性が希薄であり, 従って, 現在の多様な文化的背景を持つ, 逆に言えば帰属を把握しづらい人聞が混住する社会を鳥瞰搬する枠構造としての「自然領域」として想定するには好適だからである. この観点から本稿では, 液状化し, 流動性が高くなっている人間社会におけることばの多様性を継承する枠組みのひとつとして, 流域国という舞台を適用可能か, 「加古川流域」を対象に考察する. 本稿を通じて過疎等に起因した従来の地域コミュニティの崩壊を通じて, 「地域意識」がソフトな, もしくはヴアーチャルな繋がりに移行している中, 治水, 水資源の確保, 環境保全において鍵概念となっている「流域圏」を, これまでの領域概念を補完する, 新たな領域性として認知する意義を論じた.
著者
松山 あゆみ
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.11-24, 2010-12-20

ジークムント・フロイト(1856-1939)の初期の草稿である「心理学草案J(1950 [1895]) は再評価されているが,それに対し,その他の初期の草稿には,いまだ十分な光があてられておら ず,正確な読解すらほとんどなされていない.本稿では,メランコリーというテーマに着目し,晦 渋な初期草稿のうちの一つ,草稿GIメランコリーJ(1895)を取り上げる.フロイトがメランコ リーを主題として扱ったのは,この草稿以外には,メタサイコロジー諸編のー論稿「喪とメランコ リーJ(1917 [1915J) だけである.両者には約20年もの歳月の隔たりがあるにもかかわらず, リ ビード経済論的見地から両者を比較してみれば,メランコリーに対するその基本的見解はほとんど 一致している.これを明らかにすることにより,精神分析理論に対する草稿G のリビード論的意 義を見出すことが本稿の狙いである.
著者
戸田 潤也
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.65-78, 2009-12-20

『人倫の形而上学の基礎づけ』には定言命法および定言命法と見なされるものが様々な形で提示されている.それゆえ,定言命法全てを正確に数え上げ分類することは非常に困難である.こうした中,定言命法を五つの法式に大別するペイトンの解釈は,現在に至るまで多くの研究者によって踏襲されている.この解釈は同時に定言命法の「基本法式」を「道徳性の普遍的な最高原理」とするものであるが,このことは意志の自律を「唯一の」「道徳性の最高原理」とするカントの立場と相容れないように思われる.本稿では,ペイトンの解釈をテキストに定位して確認し(第一節),その解釈とは異なった角度から意志の自律の特性を明らかにし(第二節),その正当性を確保する(第三節).これによって,意志の自律の解明を行なうその後の同書の議論への道筋をつけることができる.
著者
津田 壮章
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.135-151, 2020-12-20

本稿は, 京都府立鴨沂高等学校の学校行事「仰げば尊し」を主な題材に, 「自由な校風」という教育実践の意義と限界を考察するものである. 同校では, 戦後直後から表現の自由が重視されていた. 当初は仮装行列であった「仰げば尊し」は, 1960年代にデモンストレーションとなる. 1980年代には教育実践としても位置づけられているが, 2010年代の校舎改築及び校風改革によって廃止された. しかし, 主権者教育が推進される現代においてこそ, 自由で自立した市民を育てる校風として再評価できるのではないだろうか.
著者
大山 万容
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.121-132, 2012

本稿では, フランスにおけるニューカマーの子どもに対する受け入れ政策と, 雷語教育支援の特般について論じる. フランスは国際社会においては欧州評議会の言語政策部門が提唱する複言語主義(plurilingualism) を標榜するが, 国内の移民に対する政策にその主張はどのように反映されているのだろうか. 本稿ではフランスにおける移民の定義について概観した後, 政策の実践例として, フランスの「ニューカマーおよびロマの子どものための学校教育センター」(Centre Academique pour la Scolarisation des Nouveaux Arrivants et des enfants du Voyage :CASNAV) を取り上げ, その設立に至る背景, ニューカマーの子どもと学校教師への支援のあり方とその課題を明らかしその取り組みにおける複言語主義との組離を示す. 最後に社会統合のための複言語主義教育の可能性について考察する.
著者
川北 天華
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.101-114, 2018

Charlotte Brontëの『ジェーン・エア』(Jane Eyre, 1847)は出版当初から傑作として高く評価された一方, 話の展開が不自然, また主人公Janeの行動が不自然で一貫性がないといった批判がなされてきた. 特に, Janeが一度Rochesterの元を去りながら, ある日突然遠く離れた彼の呼び声を聞き, 彼のもとに戻って結婚するという筋書きには反発が多い. これらの批判はJaneの行動原理が正しく理解されていないことに起因する. 本稿では, Janeの行動原理を分析する手掛かりとして, 第12章で彼女が口にする"power of vision"という表現に注目し, このvisionの力こそがJaneの求めるものであり, Rochesterとの結婚がその願望を充足させるという仮説を立てる. ここでのvisionは従来視覚の意味で捉えられてきたが, 本稿ではこれに留まらず, 予示, 想像という別の解釈を導入する. これにより, Janeの行動は一貫して不思議な予示の力に導かれていること, また, 彼女の成長は作者Charlotte Brontëの想像力の表現の発展と呼応していることが示される. JaneがRochesterと結婚するのは, 彼となら彼女が求めていたvisionの共有が叶うからであり, またそれは, 読者とvisionを共有したいという作者本人の欲求に根差すものである.
著者
細川 真由
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-217, 2018-12-20

第一次世界大戦後, 未曾有の大戦争を経験した世界は, 国際連盟の創設や多国間条約の締結を通じて国際平和の構築を図った. 中でも1928年に締結された「国策の手段としての戦争放棄に関する条約」(不戦条約)は, フランスとアメリカとの協議から生まれた条約であるが, 最終的には多くの国が参加し, 史上初めて「国策の手段としての戦争」を禁止した画期的な条約となった. そして, この条約の成立にはアメリカにおける戦争違法化運動が大きな影響を与えたとして, 多くの先行研究の対象とされてきた. その一方で, 不戦条約をめぐるフランス外交に関する研究はほとんど見られない. しかし, 条約成立に至る複雑な交渉過程におけるフランス政府の意図やその背景にあるものについて検討を加えてはじめて, 不戦条約の意義と限界を明確にすることが可能となる. 本論文では, 政府文書・外交文書・同時代の著作等の一次史料, および先行研究に基づき, 不戦条約をめぐるフランスの外交的背景を考察した. その結果, 不戦条約は, 従来考えられてきたような理想主義的性質とはかけ離れた, 現実主義的な交渉過程を経て成立したことが明らかとなった.
著者
細川 真由
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.201-217, 2018

第一次世界大戦後, 未曾有の大戦争を経験した世界は, 国際連盟の創設や多国間条約の締結を通じて国際平和の構築を図った. 中でも1928年に締結された「国策の手段としての戦争放棄に関する条約」(不戦条約)は, フランスとアメリカとの協議から生まれた条約であるが, 最終的には多くの国が参加し, 史上初めて「国策の手段としての戦争」を禁止した画期的な条約となった. そして, この条約の成立にはアメリカにおける戦争違法化運動が大きな影響を与えたとして, 多くの先行研究の対象とされてきた. その一方で, 不戦条約をめぐるフランス外交に関する研究はほとんど見られない. しかし, 条約成立に至る複雑な交渉過程におけるフランス政府の意図やその背景にあるものについて検討を加えてはじめて, 不戦条約の意義と限界を明確にすることが可能となる. 本論文では, 政府文書・外交文書・同時代の著作等の一次史料, および先行研究に基づき, 不戦条約をめぐるフランスの外交的背景を考察した. その結果, 不戦条約は, 従来考えられてきたような理想主義的性質とはかけ離れた, 現実主義的な交渉過程を経て成立したことが明らかとなった.
著者
西島 順子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.153-167, 2018

本稿は, 1970年代のイタリアにおいて展開した民主的言語教育の複言語主義の概念と起源を, トゥッリオ・デ・マウロの言説をもって解明した. 民主的言語教育は欧州評議会の言語教育理念である複言語主義と親和性があるといわれているが, 両者は政治的な文脈も時代も異なるものである. 民主的言語教育を学界に提唱した言語学者デ・マウロは, それを提唱する以前の1960年代から1970年代にかけて, 論考などにおいて複言語主義を意味するplurilinguismoを使用していた. デ・マウロが使用するこれらのplurilinguismoを分析・分類したところ, 三つに分類された. 第一に「複言語状態」(ある領域において複数の言語が共存する状態, つまり多言語状態・一つの個別言語にさまざまな言語の性質が共存する状態・言語に多様な表現記号が存在する状態), 第二に「複言語政策」(多言語地域において政治的に複数の言語使用を認める政策), そして最後に「複言語能力」(個々人の言語体験によって蓄積された複数の言語を, コミュニケーションや創作活動において用いる能力)を意味していた. また, その起源を考察すると, 「複言語状態」「複言語政策」はソシュールの理論や記号学などの一般言語学, そして歴史的・地理的言語研究に由来することが判明した. その一方で「複言語能力」はデ・マウロの政治思想を内包しており, グラムシの言語哲学の影響を受け「複言語教育」としての民主的言語教育へと展開したことが明らかとなった.
著者
小島 基洋
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.17-28, 2017

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(一九七九年)は, 語り手の三人目の恋人を襲った悲劇的な死を隠蔽すべく, <<虚偽>>の詩学を用いて書かれている. この目的のために, 村上は「ハッピー・バースデイ, そしてホワイト・クリスマス」という<<虚偽>>のオリジナル・タイトルを付け, 最終的なタイトル「風の歌を聴け」が付けられた後には, カポーティの短編「最後のドアを閉めろ」という<<虚偽>>の出典を指示する. また<<虚偽>>のSF作家デレク・ハートフィールドの自死について語り, 物語の<<虚偽>>の焦点を当てるのは, 彼女が死んだ1970年4月ではなく, 8月である. 更に, 彼女への鎮魂の意味合いが強い「風の歌を聴く」という表現の代わりに, 「雲雀の唄を聴く」という<<虚偽>>のフレーズを使用する. 恋人の死という余りに重いテーマは新人作家であった若き村上春樹には表現することが困難であったのだが, 彼は後年, 『ノルウェイの森』(1987年)において, それを見事に表出するに至る.
著者
辰已 知広
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.39-48, 2020

本稿は, 1954年に映画製作を再開した日本の映画会社「日活」の歴史を, 衣裳の検証を通じて解明することを試みるものである. 映画衣裳については, 欧米の研究者が1970年代頃よりその重要性を指摘し, 直近三十年程で研究を充実させた経緯があるものの, 日本映画の衣裳そのものを詳細に分析した先行研究はほとんど存在しない. こうした状況に鑑み, 本稿では, 日活が一時中断していた映画製作を再開した1954年から62年までに公開された代表的な作品を取り上げ, 日活の歴史とその独自性を, 衣裳を通じて振り返るとする. 第1節では, 日活専属のスクリプターであった白鳥あかねの証言をもとに, 当時の日活が森英恵に多くの衣裳製作を依頼していたことや, 撮影所システムの下で衣裳がどのように扱われ, 最終的に決定に至ったのかを明らかにし, 整理する. 続く第2節では, 文芸作品からエンターテイメント路線への変更によるアクション作品までにおける, 特徴的な男女の衣裳をピックアップし, それらの機能や意味を, 日活衣裳部員の証言を交えつつ, 時代の流れや風俗と共に考察する. 最後に第3節では衣裳の変遷をジェンダーの観点から捉え, 当時の日活が「男性路線」と言われつつも, いかに女性観客を意識した男性像を視覚化していたかを論証し, 結論へと導く.
著者
平井 克尚
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.13-26, 2011

ウルマーのイディッシュ期の映画『グリーン・フィールド』を論じる.これまでこの映画に関しては,文化的側面とフィルム・テクスト的側面の差異がさして意識されることなく調和的に論じられてきたが,本論では,これまで論じられてこなかった,イディッシュ文化とフィルム・テクストとの軋みの部分に焦点をあて,この観点を軸に論じる.それは,ウルマーによるこの映画がマイノリティの文化的共同性を単に補強するものではなく,様々な映画的記憶により織り成されたテクスチャーであることを示すことになるであろう.最初に,この期の映画を検証するにあたりイディッシュ,ウルマー,イディッシュ期のウルマーについて見る(I).次に,この期のウルマーの映画『グリーン・フィールド』の製作経緯を見る(II).引き続き,この映画の最後のシーンに着目する(III).最期に,この映画のフィルム・テクストを分析する(IV).This article sets out to argue about the film Green Field directed by E. G. Ulmer in the yiddish period, from a viewpoint of the dissonance between the yiddish culture and the film text. This film is not just an attempt to reinforce the cultural community of the ethnic minorities. It should be seen as a landmark film for Ulmer with a whole array of cinematic memories behind it. First we survey the yiddish film, E. G. Ulmer and his yiddish period to examine his films in the yiddish period (I).Second the making process of the film Green Field in his yiddish period is examined (II).Third we take notice of the last scene of this film (III).Finally through a close analysis of the cinematic text, we try to place Green Field in the context of Ulmer's career as well as American film history (IV).
著者
早瀬 善彦
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
no.21, pp.175-190, 2012-12-20

政治哲学者レオ・シュトラウスの提示した論点は数多いが, なかでも, もっとも重要なテーマの一つが披のレジームをめぐる議論である. シュトラウスによれば英語の「レジーム」という言葉の語源はギリシャ語の「ポリテイアJにあるが, このポリテイアとは, 本来いかなる法律よりも一層根本的なものであり, また社会に性格を与える秩序であると同時に, その形態でもあった. 小論の日的は, こうしたレジームという観念がもっ原理の重要性を考察することである. はじめにレジームと社会の関係から, 善き生き方とレジームの関係をみつつ, レジームの起源が人為的力にあることを明らかにする.次に, 善きレジームの形成の問題についてシュトラウスの『国家』解釈を通し明らかにしていく. そして, 最後に, 哲学者がレジームを越えていくという論点を提示し哲学と政治社会の関係はどうあるべきかという問題に一定の結論を提示する.
著者
真鍋 公希
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.39-51, 2019

作田啓一は, 生の経験の中にあらわれる非合理性を捉えるための理論体系の構築に一貫して取り組んだ社会学者である. 先行研究では, 彼の生の経験への関心が中心的に論じられてきた. しかし, 作田の特徴は, 生の経験への関心だけでなく, それとは矛盾するように思われがちな体系化への志向性をも兼ね備えている点にあるように思われる. この問題意識に基づき, 本稿では作田の思想における理論の位置づけについて検討する. 本稿では, まず, 『命題コレクション社会学』の付論に注目し, 水平的関係と垂直的関係という二つの関係性を抽出する. 続いて, 現代社会学と小林秀雄に向けた作田の批判を検討し, 批判の要点が, 両者がともに, 現実を水平的/垂直的関係に還元して論じようとする点にあることを明らかにする. 最後に, 作田の犯罪分析を取り上げ, 彼が水平的関係と垂直的関係の両方を論じようとしていたことを指摘する. 以上から, 作田は社会学的な説明(水平的関係)と生の経験(垂直的関係)の二つを結びつけた理論的視座の構築を試みていたことを指摘し, その理論によって一つの「全体」を仮構していたと結論づける.