著者
田代 豊 Tashiro Yutaka 名桜大学国際学群
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.19, pp.189-192, 2014

沖縄県名護市内を流れる屋部川で,微生物資材(「EM団子」)を市民に投入させるイベントが実施された前後に3回, 3地点において河川水を採取し,塩分・全有機炭素濃度(TOC)・SSを測定した。いずれの試料の塩分も2%程度以上あり,また, 3回の採水のいずれにおいても,上流よりも下流の水試料の方が塩分が高かった。 SSは, 3回の採水時のいずれにおいても,最下流の地点が中間の地点よりも少なかった。また,降雨のあった日は最上流の地点におけるSSが多かった TOCは,各採水時ともに,最も下流の地点で高かった。また,降雨のあった日は,最上流の地点においてTOCの上昇が見られた。微生物資材投入前後で各地点におけるTOCの減少は見られず,また,投入地点上流側に比較して下流側のTOCは低くならなかった。
著者
上間 篤
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-10, 2008

千代金丸と称される琉球王朝ゆかりの貴重な刀剣が今に伝世する。史書を参照すれば、この刀の本来の所有者は、三山時代の終焉期に今帰仁勢力を率いた攀安知であったことが判る。ところが、攀安知とその勢力の氏素性の観点から、千代金丸の来歴に言及した論考はいまだ皆無に等しい。興味深いことに、近年今帰仁城跡及びその周辺域から出土した考古学史料には、元朝に仕えて江南地方の経営と治安維持に奔走した西域出自の騎馬軍団との繋がりを反映する文物が数多く含まれている。本稿では、騎馬文化との関わりを傍証するこれらの考古学史料を拠り所にして、片手持ちの拵えを特徴とする千代金丸の来歴の真相に迫る。There exists an outstanding sword named Chiyokanemaru, which is well known for its intimate connection with the first and second royal families of the unified kingdom of the Ryukyus. However, as history tells us, the sword was originally in the possession of Han Anchi, who once led the medieval militant force of Nakijin prior to the advent of a unified kingdom in Okinawa. Some features of Chiyokanemaru, especially its single-handed hilt and its thin and gracefully curved blade, suggest strongly that the sword has no connection whatsoever with the Japanese art of sword -smithing. Interestingly, the archeological record featuring some major characteristics of the medieval force of Nakijin reveals that the realm of predecessors of Han Anchi in Nakijin retained a certain ethnic and cultural heritage from the Alan Christian cavalry unit serving the Mongolian government in southern China in the Yuan Era. This paper intends to reconstruct a clearer image of the origins of Chiyokanemaru by examining its features from the viewpoint of the archeological finds mentioned above.
著者
上間 篤
出版者
名桜大学
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-10,

千代金丸と称される琉球王朝ゆかりの貴重な刀剣が今に伝世する。史書を参照すれば、この刀の本来の所有者は、三山時代の終焉期に今帰仁勢力を率いた攀安知であったことが判る。ところが、攀安知とその勢力の氏素性の観点から、千代金丸の来歴に言及した論考はいまだ皆無に等しい。興味深いことに、近年今帰仁城跡及びその周辺域から出土した考古学史料には、元朝に仕えて江南地方の経営と治安維持に奔走した西域出自の騎馬軍団との繋がりを反映する文物が数多く含まれている。本稿では、騎馬文化との関わりを傍証するこれらの考古学史料を拠り所にして、片手持ちの拵えを特徴とする千代金丸の来歴の真相に迫る。
著者
与那覇 恵子 Yonaha Keiko 名桜大学国際学群
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.19, pp.31-42, 2014

1945年6月牛島司令官の自決により沖縄戦は終結へと向かい, 戦争で疲弊した米軍占領下の沖縄で早くも7月下旬には, 英語が必修として初等学校 (小学校) で教えられ始めた。しかしながら,米軍政府の命によって始まったこの必修の小学校英語教育は, 1953年に7年間の短い歴史を閉じる。 「必修の小学校英語教育はなぜ継続されなかったのか?」このリサーチ・クエスチョンに筆者は5つの要因を挙げる。 ①教科書不足 ②沖縄側の教員不足と質の低下 ③米軍政府の英語教育者不足 ④英語国語政策への沖縄人の反対 ⑤米国の対沖縄政策の変化である。 本論の構成として1章において, 米軍政府による小学校設立の目的と小学校教育の状況, 英語の教育課程という諸点から必修の小学校英語教育の開始から終焉までの大まかな流れを掴む。 2章から, その必修の小学校英語教育が継続しなかった5つの要因のそれぞれについて各節を設け述べており, 3章は結論である。米軍占領下の沖縄における小学校の必修英語教育の短い歴史は, 言語教育と政治の関係・占領者と被占領者の関係を象徴するものである。本論は「必修の小学校英語教育はなぜ継続されなかったのか?」の疑問に答えを提供するだけでなく, それらの関係を浮き彫りにするという観点からも意義深いものであると考える。Just after the end of the Pacific War, as early as July, 1945, English became a compulsory subject in elementary schools in war-ravaged Okinawa. However, compulsory English education ended in 1953, with a short span of seven years. "Why was compulsory elementary school English education Discontinued? The author presents five factors: ① shortage of teaching materials; ② shortage of teachers; ③ shortage of educators in the U.S. military government; ④ Okinawa's opposition to the U.S. language policy; and ⑤ a change in the U.S. policy towards Okinawa. This paper consists of three chapters. The first chapter explains the aim of elementary school education, its situation and content, and the curriculum of English. In the second chapter, each of the five factors which led to the failure of compulsory elementary school English education is explained. The third chapter is for the conclusion. This paper attempts to make a meaningful contribution in explaining the era en-compassing compulsory English education in elementary schools and the interacting forces of language education and the relationship between the occupier and the occupied.
著者
上間 篤
出版者
名桜大学
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-10,

千代金丸と称される琉球王朝ゆかりの貴重な刀剣が今に伝世する。史書を参照すれば、この刀の本来の所有者は、三山時代の終焉期に今帰仁勢力を率いた攀安知であったことが判る。ところが、攀安知とその勢力の氏素性の観点から、千代金丸の来歴に言及した論考はいまだ皆無に等しい。興味深いことに、近年今帰仁城跡及びその周辺域から出土した考古学史料には、元朝に仕えて江南地方の経営と治安維持に奔走した西域出自の騎馬軍団との繋がりを反映する文物が数多く含まれている。本稿では、騎馬文化との関わりを傍証するこれらの考古学史料を拠り所にして、片手持ちの拵えを特徴とする千代金丸の来歴の真相に迫る。
著者
上原 なつき 上原 なつき 名桜大学国際学群
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.19, pp.105-116, 2014

En la época prehispánica, existían los costumbres del culto a las momias y la gente trataba las momias como vivos en Los Andes. Desde siglo XVI, los españoles colonizaron allí y empezaron a evangelizar y también desplegaron la extirpación de la idolatría. Los españoles confiscaron y destruyeron las momias andinas que habían sido adoradas como ídolos paganos. A pesar de eso una parte de las momias prehispánicas se salvaron de esta represión y hoy en día han sido descubiertas en las cuevas y en las ruinas usadas como cementerios en tiempos antiguos. Además, algunas de ellas se adoran por la gente actual. Si bien el concepto de los muertos de Los Andes no es simple. Aparte del culto a las momias, podemos encontrar muchos cuentos populares sobre los muertos y existen los términos variados referentes al muerto en el idioma quechua. Los muertos a veces dañan a la gente y a veces satisfacen los deseos de la gente, por lo tanto no es fácil entender la fase complicada y ambigua de los muertos. Para empezar a aclarar estos fenómenos relacionados con los muertos, enfoco mis analisis sobre las representaciones de los muertos en este artículo. Al primero, explico los términos folklóricos referentes a los muertos. Al segundo, clasifico las representaciones de los muertos, y al final analizo las funciones de diferentes representaciones de los muertos en Los Andes.先スペイン期のアンデス地域では,死後,遺体をミイラに加工しまるで生きている人間同様に扱うという風習が存在した。しかし, 16世紀前半からスペイン人が当該地域を植民地として支配するようになり,カトリックの布教が開始されると,布教を阻害する土着信仰を弾圧するた釧こ偶像崇拝根絶運動が展開された。この運動によりアンデスの人々が崇拝していた多くのミイラは異教の偶像として没収され破壊された。しかしながら,この弾圧を逃れた一部のミイラが当時のまま,先スペイン期の埋葬地であった洞穴や遺跡の中などに現在も安置されている事例が各地で報告されており,さらに,それらのミイラの中には現在も崇拝されているものが存在する。しかし,アンデスの死者観は決して一様ではない。当該地域では死者に関する民間説話も非常に多く,また,死者を意味するケチュア語のフォークタームも多種多様であり, 「死者」と一括りに言っても人々に害を与える死者もあれば,人々の願いを叶えてくれる死者もあり,その死者観を理解することは容易ではない。そこで,アンデスの死者観を明らかにする作業の手始めとして,本稿では死者表象に焦点を当てて論じた。多様な死者表象を整理するために,まずは死者を意味するフォークタームの分類を行い,次に,死者の姿を表現する際の表象の違いを分析した。そして最後に,説話にあらわれる死者,ミイラ崇拝,頭蓋骨崇拝,祭祀における死者を模した仮装の登場人物,それぞれの死者が持つ役割を明らかにすることで,死者表象の多様性が意味するものについて考察した。In the pre-Columbian period, mummy worship existed in the Andes and the people treated the mummies as a living man. From the 16th century, Spain colonized this region and began evangelizing the native people and expanding the extirpation of the idolatry. The Spanish confiscated and destroyed the Andean mummies that were adored as heathen idols. Regardless of that, some of the pre-Columbian mummies were saved from this repression and many have been discovered in the caves used as cemeteries in the past. In addition, some of them are still adored by the Andean people today. But the concept of the dead in the Andes is not simple. Outside of mummy worship, we can find many popular traditions referring to the dead and various terms about the dead in the Quechua language. Sometimes the dead damage living people and sometimes the dead satisfy the wishes of living people. Therefore, it is not easy to understand the complicated and ambiguous phase of the dead. To disclose those phenomena involved with the dead, I focus on the representations of the dead in this article. Firstly, I explain the folk terms referring to the dead. Secondly, I classify the representations of the dead. Finally, I analyze the functions of different representations of the dead in the Andes.
著者
仲地 清 Nakachi Kiyoshi 名桜大学国際文化学科
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 = THE MEIO UNIVERSITY BULLETIN (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.1, pp.9-17, 1995-08-31

沖縄は1992年5月15日で、復帰20周年を迎えた。復帰前、沖縄県民は日本国憲法の完全適用、サンフランシスコ平和条約第三条の撤廃、日米安保条約の廃止、基地の全面撤去をスローガンに闘ってきた。しかしながら、1971年の沖縄返還協定は、日米安保条約の適用を沖縄にも広げることで、米軍基地がそのまま残ったままの復帰になった。軍用地問題を分析するフレームワークとして、(1)一体推進派、(2)普遍主張派、(3)現状維持派を設定して、その中に、軍用地問題に関連する諸団体を当てはめた。そして、それぞれの団体の歴史、意見、さらに沖縄県土地収容委員会の採決内容、那覇市軍用地違憲訴訟の判決内容の分析の結果、復帰後の政治運動の特徴は次の三つにまとめられる。(1)一体化推進の力が増してきた。(2)普遍主張派は規模こそ小さいが、復帰前の沖縄県民の主張を引き継いでいる。普遍主張派が存在し続けること沖縄政治の特徴である。(3)三つの派、一体化推進派、普遍主張派、現状維持派の存在は政治のあらゆる事象で見られる。三つの派は対立、協力し合いながら共存するだろう。This paper analyzes the characteristics of the political movement in Okinawa after the Reversion by examining military land issues. During the Reversion era, the Okinawan people campaigned to completely apply the Japanese constitution to Okinawa, to cancel Article 3 of the San Francisco Peace Treaty and eventually to remove the U.S. military bases from Okinawa. However, although Okinawa did return under Japanese constitution, the U.S. military bases remained due to Japan-U.S. Mutual Defense Treaty. Okinawan people discovered a gap between Pre-Reversion deemed and Post-Reversion reality. Under such political circumstances, there are three political groups exsisted: (1) Those seeking to cooperate with and promoto the Japanese government; (2) A group representing the collective ideas of the reversion movement and (3) Those seeking to keep the status quo.
著者
与那覇 恵子
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.21, pp.29-40, 2016-03

米軍初期占領下の沖縄において,壊滅状態となった沖縄の政治経済,教育文化の復興に携わった米軍政府の米軍将校,兵士がいる。彼らは海軍のエリートであり知識人であり,「軍政要員」として訓練された人々であった。「軍政要員はどのようなキャリアや考えをもち,初期占領下の沖縄においてどのような役割を果たしたのか」が本論のリサーチ・クエスチョンである。その問いに答えるため,軍政要員の中でも特に名前が知られているハンナとワトキンスに焦点を当て,彼らの人物像,考え方,沖縄における活動について沖縄側,米軍側両者の資料を基に調査した。高学歴の研究者である彼らは占領地となる地域の歴史文化をよく理解していた。その任務は住民と共に戦後の地域復興に従事し,占領環境を整備するというものであった。彼らの活動は沖縄の初期占領が基地の島沖縄としての本格占領に続く環境を整備するという米軍にとっての役割を果たした。しかし,地域住民と共に戦後復興を助けるという役割をも果たした彼らは,その人柄,考え方,沖縄への理解など,軍人的視点よりも文化人的視点をもち,初期占領下沖縄の指導者にとってアメリカの良心的存在であった。
著者
平野 貴也
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.14, pp.283-290, 2008

キッズウインドサーフィン体験の実施状況を報告し、今後の実施方法およびプログラム内容を検討することに加え、小学生及び中学生対象の短期的なウインドサーフィン体験活動を評価するための基礎的な観点を得ることを目的とした。「キッズウインドサーフィン体験」には3日間で153名の参加があった。準備運動、陸上練習、海上練習、シーマンシップの学びの4つのプログラムで構成された。参加者からは非常に高い満足度が得られた。「通常の生活の中で感じる風と異なる感覚」「風の力の理解」「スピード感や水面を滑る感覚」「体験する機会の重要性」に関する特徴的なコメントが得られ、短期的なウインドサーフィン体験を評価する観点が得られた。This research examines the teaching method and the contents of a water sports program, with the additional purpose of obtaining fundamental data for evaluating short-term windsurfing experience activities for elementary and junior-high school students. 153 students participated in the "Windsurfing Experience for Kids" program over three days. This program consisted of the four learning stages of warm-up, land practice, marine practice, and seamanship. A very high degree of satisfaction was reported by the participants. Characteristic comments were "An unusual experience of wind", "Understanding the power of wind", "The feeling of gliding over the water surface and of speed", and "The importance of the apportunity for direct experience". We gained new perspective from evaluating this short-term windsurfing experience.
著者
上原 なつき 上原 なつき 名桜大学国際学群
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.19, pp.105-116, 2014

En la época prehispánica, existían los costumbres del culto a las momias y la gente trataba las momias como vivos en Los Andes. Desde siglo XVI, los españoles colonizaron allí y empezaron a evangelizar y también desplegaron la extirpación de la idolatría. Los españoles confiscaron y destruyeron las momias andinas que habían sido adoradas como ídolos paganos. A pesar de eso una parte de las momias prehispánicas se salvaron de esta represión y hoy en día han sido descubiertas en las cuevas y en las ruinas usadas como cementerios en tiempos antiguos. Además, algunas de ellas se adoran por la gente actual. Si bien el concepto de los muertos de Los Andes no es simple. Aparte del culto a las momias, podemos encontrar muchos cuentos populares sobre los muertos y existen los términos variados referentes al muerto en el idioma quechua. Los muertos a veces dañan a la gente y a veces satisfacen los deseos de la gente, por lo tanto no es fácil entender la fase complicada y ambigua de los muertos. Para empezar a aclarar estos fenómenos relacionados con los muertos, enfoco mis analisis sobre las representaciones de los muertos en este artículo. Al primero, explico los términos folklóricos referentes a los muertos. Al segundo, clasifico las representaciones de los muertos, y al final analizo las funciones de diferentes representaciones de los muertos en Los Andes.先スペイン期のアンデス地域では,死後,遺体をミイラに加工しまるで生きている人間同様に扱うという風習が存在した。しかし, 16世紀前半からスペイン人が当該地域を植民地として支配するようになり,カトリックの布教が開始されると,布教を阻害する土着信仰を弾圧するた釧こ偶像崇拝根絶運動が展開された。この運動によりアンデスの人々が崇拝していた多くのミイラは異教の偶像として没収され破壊された。しかしながら,この弾圧を逃れた一部のミイラが当時のまま,先スペイン期の埋葬地であった洞穴や遺跡の中などに現在も安置されている事例が各地で報告されており,さらに,それらのミイラの中には現在も崇拝されているものが存在する。しかし,アンデスの死者観は決して一様ではない。当該地域では死者に関する民間説話も非常に多く,また,死者を意味するケチュア語のフォークタームも多種多様であり, 「死者」と一括りに言っても人々に害を与える死者もあれば,人々の願いを叶えてくれる死者もあり,その死者観を理解することは容易ではない。そこで,アンデスの死者観を明らかにする作業の手始めとして,本稿では死者表象に焦点を当てて論じた。多様な死者表象を整理するために,まずは死者を意味するフォークタームの分類を行い,次に,死者の姿を表現する際の表象の違いを分析した。そして最後に,説話にあらわれる死者,ミイラ崇拝,頭蓋骨崇拝,祭祀における死者を模した仮装の登場人物,それぞれの死者が持つ役割を明らかにすることで,死者表象の多様性が意味するものについて考察した。In the pre-Columbian period, mummy worship existed in the Andes and the people treated the mummies as a living man. From the 16th century, Spain colonized this region and began evangelizing the native people and expanding the extirpation of the idolatry. The Spanish confiscated and destroyed the Andean mummies that were adored as heathen idols. Regardless of that, some of the pre-Columbian mummies were saved from this repression and many have been discovered in the caves used as cemeteries in the past. In addition, some of them are still adored by the Andean people today. But the concept of the dead in the Andes is not simple. Outside of mummy worship, we can find many popular traditions referring to the dead and various terms about the dead in the Quechua language. Sometimes the dead damage living people and sometimes the dead satisfy the wishes of living people. Therefore, it is not easy to understand the complicated and ambiguous phase of the dead. To disclose those phenomena involved with the dead, I focus on the representations of the dead in this article. Firstly, I explain the folk terms referring to the dead. Secondly, I classify the representations of the dead. Finally, I analyze the functions of different representations of the dead in the Andes.
著者
小柳 弘恵 金城 やす子 八田 早恵子 島袋 尚美 長嶺 絵里子 鯉淵 乙登女 鶴巻 陽子 大浦 早智 松田 めぐみ
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 = The Meio University bulletin (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.23, pp.131-138, 2018

少子化や核家族化に伴い、妊娠から出産、育児に不安を抱える母親は多く、適切なサポート体制の整備が求められている。私たちは保健師・助産師・看護師の資格を持った教員が、母子の健康に関わってきた経験を活かし、昨年度から、屋部に開設されている子育て支援センター『子育て広場・ヤッホーハウス』で育児相談のボランティア活動を行ってきた。1年間で受けた相談数はのべ86件だった。最も多かった相談内容は【子どもの身体症状】で、次に【子どもの皮膚症状・スキンケア】について、【卒乳・断乳】という結果だった。皮膚症状や卒乳に関しては時期や季節によって多くなる傾向があった。また,母親自身や上の子に関する相談内容もあり、病院を受診して医師に相談するほどではないことを、ちょっと相談する母親が多いことが推察された。"ちょっとしたこと"がすぐに解決することに、この活動の意義があるといえる。この活動が新しいエビデンスを基に変化する育児情報を母親たちに伝えていく機会になるとよいと考える。また、出産後~育児中の女性は、母親自身より子どもについての気になる事が優先される傾向にあるため、「ここにくれば自分のことも聞くことが出来る」と、母親自身の健康への関心やセルフケア行動に繋がっていくことが期待される。
著者
上間 篤
出版者
名桜大学
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-27,

かつて伊波普猷は、今帰仁という地名を手掛かりにして、中世にこの地域を勢力基盤とした武装集団の出自に関して独自の渡来人説を公表した。奇しくも近年の発掘調査から得られた出土史料は、押し並べて伊波のこの見解を支持する内容を具備したものとなっている。ところで伊波が唱えた渡来人説については、従来ややともすれば研究者の間でなおざりにされて来た感は否めない。それ故に、統一王朝以前の今帰仁勢力の氏素性を問う研究は遅々として進展せず、今日の状況を招いている。それはさておき、発掘された中世今帰仁勢力ゆかりの関係史料は、あまねく元朝に仕えて江南地方で活躍した西域出自の色目系騎馬軍団との関係を傍証する内容を孕んだものとなっている。本稿では、伊波の見解を再考し評価する観点から、指摘した関係史料及びそれと不可分の関係にあると判断される元朝配下のアラン騎馬兵団について考証し、従来謎とされてきた攀安知とその家臣団の民族的出自の解明を目論む。
著者
金城 やす子
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.13, pp.29-38, 2007

入院児の療養環境について、看護師長を対象に調査を行った。その結果、小児病棟の混合病棟化が進み、混合病棟では子どもにとっての遊びや教育環境が十分な状況にないことが明らかになった。入院している子どもにとって子どもとしての生活、遊びや教育は重要である。そのため、入院児の生活について検討することは、今後の小児看護を検討するうえの重要な視点となる。
著者
小柳 弘恵 鶴巻 陽子 島田 友子
出版者
名桜大学
巻号頁・発行日
no.23, pp.109-115,

フリースタイル出産は、「自由な姿勢」「自由な場所」「自由な心」で出産するスタイルである。産婦が自分の本能に合わせて自発的に動くため、産痛は軽減され、過剰な医療介入がなく自分と胎児の力で出産することから「自分で産んだ」という感覚を持ち、出産満足度が高いといわれている。WHOの勧告でも「胎児の安全性が確保できれば産婦はできるだけ拘束のない自由な姿勢で過ごすことができるように配慮されるべき」と記されている。しかし、沖縄県内の産科施設でフリースタイル出産を導入している施設はあまりない。本年、本学に助産学専攻科が開設された。その記念事業としてフリースタイル出産介助法の講習会を開催した。分娩時の損傷も少なく産痛軽減効果、出産満足度が高いフリースタイル出産が沖縄県北部で普及することを祈念して企画したものである。本稿では、講習会の概要および受講者の感想と、そこから見出された沖縄県北部における助産実践能力の向上と「安全・安心・満足できる」出産・育児環境整備のために本学が担う役割について報告する。
著者
金城 正英 Kinjo Masahide 名桜大学事務局
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.19, pp.85-95, 2014

本稿においては,戦後沖縄の高等教育行政制度の中で設立された私立大学の設立経緯について言及するとともに,沖縄大学と国際大学の統合に関し,日本政府・琉球政府及び大学関係者との間でどのような検討がなされたのか,その一端を明らかにした。 「日本復帰」に際して琉球大学は国立大学に移管された。一方,沖縄大学と国際大学の統合は,沖縄の私立大学が大学設置基準を満たすために教育内容の充実と教育水準の向上を図り,新たな大学の設置を求めるものであった。この大学統合により二つの問題が認識された。一つは,戦後沖縄の大学設置認可行政は,教育研究条件の改善向上を図る機能が働かないチャータリング機能(大学設置認可)だけであったことである。二つ目は,大学の統合に関して,関係者相互のコンセンサスが不可欠であるということである。本稿で取り上げた事例において,統合問題は,沖縄大学と国際大学のそれぞれのアイデンティティをいったん解体し,新たな大学として再構築するプロセスであったということが理解される。大学の統廃合は,教員・職員・学生を含む利害関係者への説明責任を果たしコンセンサスを得ることが最も重要であることを戦後沖縄における私立大学の統廃合の事例が示唆している。本稿は,沖縄県公文書館に所蔵されている文部省・琉球政府私立大学委員会等の一次資料を分析しつつ,戦後沖縄の私立高等教育機関の統合について論じた。
著者
名桜大学紀要委員会
出版者
名桜大学
巻号頁・発行日
1995
著者
森田 恵子 石川 幸代 永田 美和子
出版者
名桜大学
雑誌
名桜大学紀要 (ISSN:18824412)
巻号頁・発行日
no.15, pp.49-57, 2009

高齢者の背景や日常生活をイメージ・理解するための教育方法として、ライフ・ヒスリー・インタビュー(以LHI)時に円グラフを用いてタイムスタディを聴取した。このLHI記録用紙に記述された「一日の過ごし方から気がついたこと」の学びを質的に分析しカテゴリ化を行った。150の記録単位、10カテゴリ、27サブカテゴリが抽出され、円グラフを用いたタイムスタディによる学生への学習効果は以下の2点であることを考察した。この教育方法は、高齢者の日常生活の量と質を理解する方法として有効であること、及びIADLの視点を養う効果があることが示唆された。また、それは高齢者の文化・社会的活動の重要性及びその量と質を理解する教育方法として有効であると考える。As a method of teaching a fuller understanding of the elderly, we had students take Life History Interviews (LHI) and construct pie-charts of their subjects' daily life. We analyzed students' written reports on what they had learned about how the elderly spend their days. We identified 150 activities, divisible into 10 categories and 27 subcategories. This method improves student understanding of the Quantity and quality of daily life among the elderly, and is useful (in developing) their awareness of the Instrumental Activity of Daily Living (IADL). It is also effective in helping them to appreciate the quantity. quality and importance of the culture and social activities of the elderly.