著者
久保 勇
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.25, pp.1-12, 2012-09

明治期の『平家物語』研究として,注目されることが少ない福地桜痴(源一郎)の事績に注目する。関連資料を紹介しながら,桜痴架蔵・参看の『平家物語』異本,平曲伝習とその人脈などを検証し,明治末年に大成する館山漸之進『平家音楽史』・山田孝雄『平家物語考』の前史としての研究史的位置を提示した。
著者
光延 忠彦 ミツノブ タダヒコ MITSUNOBU Tadahiko
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.16, pp.31-41, 2008-03

1965年の「刷新都議会選挙」まで都議会内では主に自民党が多数を維持したが、この選挙を分岐に多数党は登場しない政党システムに都議会は変容した。この意味でこの選挙は、戦後の都議会の政党配置に重要な変化をもたらす契機となったのである。その後、都議会では多党化の中で「合意の政治」が展開されるが、しかし、一方では二元的代表制の「民意」の集約に「課題」を残す結果ともなった。そこで本稿は、選挙時とは異なる「民意」の可能性が議会内でなぜ昂じることになったのか、この点に興味深い説明を試みる。
著者
小笠原 春菜 オガサワラ ハルナ OGASAWARA Haruna
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.165-181, 2008-09

この論文は、ケイパビリティ・アプローチにおける自由と必要の関係について考察をするものである。具体的には、初めにA. センとM. ヌスバウムそれぞれのケイパビリティ・アプローチについて詳細に考察を行う。次にケイパビリティ・アプローチにおいて自由と必要に焦点を当てた先行研究を踏まえて、これまでの研究では見落とされていた点を明らかにする。検討の結果、センのケイパビリティ・アプローチでは自由概念と必要概念の区分が不明瞭であることが判明した。本論文では、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチにおける概念構築のための機能のリストアップの立場を参考にし、ケイパビリティ・アプローチにおいて自由と必要にずれが生じているケースが存在しうることを指摘している。
著者
馬上 丈司 マガミ タケシ MAGAMI Takeshi
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.20, pp.191-206, 2010-03

本研究は、千葉大学公共研究センターと特定非営利活動法人環境エネルギー政策研究所の共同研究による「エネルギー永続地帯指標」をもとにして、日本国内における自然エネルギー利用の現状への考察を行ったものである。化石燃料などの枯渇性資源からの転換、気候変動対策として自然エネルギーの導入拡大が言われるようになって久しいが、国内の利用実態については、統計資料の整備が不十分な状況が続いている。自然エネルギーの利用には地理的条件や気象条件が大きく影響するものであり、導入を検討するにあたってもこれらの情報は必要不可欠であるが、エネルギー永続地帯指標では、全ての市区町村における自然エネルギーの利用実態を推計している。本研究では、エネルギー永続地帯指標の試算結果から、国内における自然エネルギー利用の全体像を概括すると共に、大都市あるいは自然エネルギー供給の多い都道府県を中心に、なぜ現在のような自然エネルギー利用がなされるようになったのか等、その実態の分析を試みた。
著者
光延 忠彦 ミツノブ タダヒコ MITSUNOBU Tadahiko
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-13, 2010-09

政党政治が「都政」において扱う対象の変遷は、「五五年体制」成立以降、60年代前半期までの「保守都政」、60年代後半から70年代までの「革新都政」、さらに、80年代から90年代にかけての「保守中道都政」へと推移した。90年代に入って、政党の支持を受けない知事が登場すると、「無党派都政」とまでいわれ、「都政」はこれまで政党間の対立と協調による伝統的なダイナミズムによって語られてきた。 しかしながら、こうした見方に立つと、自民、公明などの政党の支援を受けた知事候補に対抗して、政党からの協力を得ずして勝利した青島知事は、都議会内において少数の勢力の支持さえ困難であったにも拘らずなぜ「都政」を運営できたのかという疑義が生じる。そこで、本稿は、知事選挙における政党の支持の状況を、都政における知事のリーダーシップの在り方に帰する既存の議論とは異なる点から都政を検討する。
著者
荒巻 英司 アラマキ エイジ ARAMAKI Eiji
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.16, pp.281-288, 2008-03

本稿では、アマルティア・センの潜在能力アプローチが抱える問題点を指摘する。現代の厚生経済学の基礎が抱える問題点を鋭く批判し、人々の多様性に着目した新たな福祉理論の一つにセンの潜在能力アプローチがある。本稿はこの潜在能力アプローチを詳細に検討することで、その独自性と共に、問題点を浮き彫りにすることを目的としている。最初に、センがどのようにして潜在能力を定式化しているのかを詳細に考察する。次に、そこで与件として与えられている財に対する権原が、人の福祉を決定する上で本質的な役割を果たしていることを指摘する。さらに、この財に対する権原は、他者の選択から影響を受ける点でゲーム的性質を持っていることも説明する。本稿での分析の結果、センの潜在能力アプローチは個人間の戦略的相互依存性を考慮の埒外においている点で、財の所有権構造の捉え方に重大な欠陥を抱えていることが示される。
著者
安 貞美 AHN Jeongmee アン ジョンミ
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.16, pp.196-210, 2008-03

本論では、日本における韓国大衆文化の受容について考察を行う。中でも、ここ数年間の日本における韓国大衆文化ブームに火を点けたと言われている『冬のソナタ』を中心に、どうして日本女性たちは韓国の大衆文化に沸きかえって韓国スターに熱狂するのか。そして、韓流ブームが彼女たちに与えた影響力は日本人の日常生活においてどのような変化をもたらしたのか。このような疑問を明らかにして、大衆文化を積極的に受容、消費している受容者であり、消費者である日本の女性について考えてみたい。

1 0 0 0 IR ケアを考える

著者
武井 秀夫 タケイ ヒデオ TAKEI Hideo
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-17, 2009-09

本稿はケアという現象を民族誌的に記述するとはどういうことなのか、という問いから生まれたものである。社会学領域でのケア研究に比し、文化人類学領域ではケアという現象への関心は最近になって形を成したものであり、また、文化人類学的なアプローチがどのような貢献をケア研究になしえるのかを考える上でも、この問いに答える必要があったからである。先行研究におけるケアのとらえ方には、ケアを行為に重点をおいて捉えようとするものと、ケアの関係性に重点をおいて捉えようとするものがあるが、それらは研究の場に存在する問題群に拘束されていると考えられ、またそうした場の既存の関係性を前提としているために、ケアの生成に焦点をあてるものはなかった。最終節では、むしろケアの生成を見ていくことで開かれる見通しを提示した。
著者
菅家 和雄 カンケ カズオ KANKE Kazuo
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.63-77, 2008-09

近年多くの論文で相関係数が時変動しない仮定が棄却されている結果が示されている。このような中、従来より相関係数が時変動するモデルは数多く提案されているものの、強い制約条件が付加されている場合や推定しなければならないパラメーター数が多くなる等の問題点があった。Engle(2002)等はこのような問題点をある程度軽減したDynamicConditional Correlation (DCC)モデルを考案し、その後もDCC モデルを対象とした研究が徐々に増加している。一方でポートフォリオを考えた場合、市場を観察すると、しばしば個別要因リターンを打ち消す以上の大きな市場要因リターンが発生すると、非常に多くの資産が一斉に同方向へ変動し、個々の資産の変動の相関が高まる場面が見られる。そこで本稿ではDCC モデルに同方向へ変動する資産数を組み込み、東証業種別株価指数を用いて実証検証を行い、代表的なDCC モデルと比較したところ、対数尤度等において改善が見られた。
著者
崔 昌玉 Choi Chang Ok
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.13, pp.27-44, 2006-09-28

先行研究において,ヴォイスは形態論,統辞論,意味論的な観点から考察されてきた.これらの観点だけでなく,語用論,認知論的観点からもヴォイスを考察しようとする研究も現れている.能動対受動に議論を限定するのであれば,形態論的には能動形が無標形であり,受動形が有標形である.また,統辞論的には能動文における主語や目的語が受動文では能動文の目的語が主語の位置に昇格し,能動文の主語が斜格の位置に降格する.更に,意味論的には能動文と受動文は言語外的事実には何ら相違がない.本稿の目的は一般言語学における意味論的役割について言及するところにある.意味論的役割とは,動作の主体(動作主あるいは動作の源泉)や動作の客体(受動者あるいは動作の受け手)に関わるものである.今までの研究では,意味論的役割について曖昧な議論を続けてきたが,本稿では,その議論を整理し,現代朝鮮語に適用し得る方法論を提示する.
著者
Wang Shuwei WANG Shuwei オウ ショイ
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.18, pp.1-12, 2009-03

日本近代文学館発行の『芥川龍之介文庫目録』を見ると、和漢書四六五点一八二二冊のうち、五十七点の漢籍は、一九一二(民国元)年から一九二六(民国十五)年の間に出版されたものである。これらの近代中国書を分類してみると、詩に関する蔵書は十六点の七十六冊があり、近代書の約四分の一を占めていることが分かる。小説・物語集に関する蔵書は、十六点の一五八冊もあって、その数が『芥川龍之介文庫目録』にある近代蔵書の中で、もっとも多い。書道に関する本が十二点ある。それから以上の種類以外の本であり、全部で十三点がある。周知の事実であるが、芥川は種本を使って創作する作家であるため、芥川文学を理解するために、彼の読書経歴を明らかにすることは必要な作業である。本論文は、近代以後に出版された蔵書を対象とし、芥川の一九二一年の中国旅行と、近代に対する彼の態度を読み取りたい。
著者
王 書瑋 WANG Shuwei オウ ショイ
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.18, pp.1-12, 2009-03-20

日本近代文学館発行の『芥川龍之介文庫目録』を見ると、和漢書四六五点一八二二冊のうち、五十七点の漢籍は、一九一二(民国元)年から一九二六(民国十五)年の間に出版されたものである。これらの近代中国書を分類してみると、詩に関する蔵書は十六点の七十六冊があり、近代書の約四分の一を占めていることが分かる。小説・物語集に関する蔵書は、十六点の一五八冊もあって、その数が『芥川龍之介文庫目録』にある近代蔵書の中で、もっとも多い。書道に関する本が十二点ある。それから以上の種類以外の本であり、全部で十三点がある。周知の事実であるが、芥川は種本を使って創作する作家であるため、芥川文学を理解するために、彼の読書経歴を明らかにすることは必要な作業である。本論文は、近代以後に出版された蔵書を対象とし、芥川の一九二一年の中国旅行と、近代に対する彼の態度を読み取りたい。
著者
中村 隆文 ナカムラ タカフミ NAKAMURA Takafumi
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-17, 2008-09-24

現代哲学思想において「ヒューム主義(Humeanism)」というものは、反実在論(anti-realism)、あるいはそれに准ずるような、性質に関する「非.認知主義(non-cognitivism) 」として、一般的には主観主義に近い形で理解される傾向にある1。そのような傾向のもと、或る種の反実在主義者(そして、そのほとんどが非-認知主義者であり、たとえば、A.J. エアーのような表出論者やS. ブラックバーンのような投影論者たち)はヒュームの主張を好意的に取り上げる一方、或る種の実在論者たち(たとえば、J. マクダウェルのような認知主義者)はヒュームの主張それ自体を批判しながら反ヒューム主義を提唱するという対立の図式が出来上がっている。しかし、そもそもそうした反実在論vs. 実在論の対立が、あたかもヒューム思想を認めるかどうかであるように図式化されていることについて、私はそこに違和感を感じる。もちろん、その対立図式のもとで生み出された各種議論はそれぞれ重要な意味をもっているのであるが、そもそもヒューム思想がそのような二分法によって理解されるべきものであるかどうかについて、本論考全体を通じて考えてゆきたい。 本論考で紹介するヒューム主義的思考法とは、簡単にいってしまえば、通常は当たり前とされるような関係(いわゆる「分かっている」)を分析し、それが必然的なものではないこと(しかし、同時にそれが不可欠な形で採用されてしまっていること)を論じる手法である。そうした手法を通じて、我々が通常当たり前のように用いている「私」「われわれ」の概念を分析しながら、ヒューム主義というものが奥深く、かつ非常に哲学的な態度であることを論