著者
菅野 正 (訳)
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.79-88, 1987-12

十九世紀末の中国の戊戌維新運動は失敗に終ったとはいえ,それは,中国近代の民族覚醒、改革提唱や思想啓蒙等の面では,いずれも一定の歴史的役割を果した。最近何年来,中国の歴史家は,清末の維新運動の歴史について研究を深め,その性質、役割、さらには各種の人物や思想に対して幅広い検討を進め,それに関する史料や史実について,発掘や考証を深めてきた。とくにここ数年来,北京故宮博物院で,維新派指導者康有為の一連の新史料が次々に発見され,それには,すでに失なわれたと思われていた康有為の光緒帝に進呈した『日本変ポのランド政考』『波蘭分滅記』『列国政要比較表』等の原本や,さらに康有為の上奏した『傑士上書彙録』の内府抄本が含まれ,我々に,彼の変法思想について,一歩進めた認識をもたしめることができるようになった。以下で,私は,康有為を筆頭とする中国の維新派が,日本の変法維新を模倣せんと主張した思想に重点をおいて述べたいと思う。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.21-49, 1993-12

織田信長から豊臣秀吉へとうけつがれた政権の流れを、織田政権と豊臣政権の頭字の一字ずつを合わせて、織豊政権とよぶことが一般に定着している。いわゆる天下統一の事業は、織田信長から豊臣秀吉へ、そして徳川家康へとひきつがれたという理解も一般的である。それでは織豊政権というよび方とともに、豊臣政権と徳川政権の頭字を合わせて豊徳政権というよび方が存在するのかといえば、後者の語はこれまで聞かない。おそらく、織田信長の仇を討ち葬儀をも主催した豊臣秀吉の場合は、血脈ではないけれども、正当な後継者として是認されたのに対し、秀吉と徳川家康との関係では、家康が秀吉の政権を纂奪したという評価から、一種の反倫理的なうけとめ方があったからであろう。しかし、豊臣時代を中心にして、天下統一というか近世的統一国家の形成の過程を検証してみると、織田政権から豊臣政権へひきつがれたものもあるが、豊臣政権から徳川政権へと継続されて実を結んでいったものが少なくはない。しかし、織田信長から徳川家康までの政治的な流れが等質であるとか、一貫性があるのかといえば、そうではない。中世から近世への政治的展開は、織田政権と豊臣政権の間や豊臣政権と徳川政権との間にあるのではなく、じつは豊臣政権のなかにその転回があるのではないかと考えられる。すなわち、織田政権の政策をほとんどそのまま継承した前期豊臣政権と、具体的なかたちで近世的統一国家の形成へ踏みだして、徳川政権への連動の道筋をつくった後期豊臣政権というように、豊臣政権というものを前期と後期に二分して理解することが必要なのではないだろうか。豊臣政権の前期から後期への転回を、京都という都市に焦点をすえながら検証してみようとするのが、本稿の課題である。
著者
堀内 一徳
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.112-126, 1992-12

マルク・ブロックによると、西欧ではカロリソグ時代以降、甲冑、槍、楯、剣で武装し騎馬で戦うエリートの戦士が存在し、十世紀頃に鐙が使用されると、長い槍がそれまでの短い槍に代り、また鼻当のちに面頬が加わり、さらに鎖帷子は皮か織物の綴合せの上に鉄の環や板を縫い合せて精巧となるが、このような武装は高価であり、富裕な人々のみが購うことができた。十二世紀には、騎士階級はその伝統をもたない家門の子弟を次第に排除し、以後社会の下層の者に対して門戸を閉し、十三世紀中頃から貴族身分を形成していったという。今日、騎士の起源が八世紀に遡るとか、また騎士が中世の貴族の起源であるという説は、大方のコソセソサスを得られない。しかしカロリソグ時代から十二世紀にかけての西欧の軍事技術の著しい進歩が、騎士階級ないしは身分の形成を促したことは間違いない。以下においてカロリソグ時代から一〇六六年のへースティソグズの戦までの期間に騎士が参加した主要な戦いにおけるかれらの戦術および武装について述べてみたい。
著者
尾上 葉子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.22, pp.19-36, 2004

糖餅行とは、清代の北京に存在した菓子屋および菓子職人のギルドのことである。糖餅行は外城の広渠門内にあった馬神廟にギルドホールを置き、雷祖を自分たちの主祭神として祀り、活動をおこなっていた。奈良史学第七号(一九八九)に掲載させていただいた論文では、糖餅行を取りあげて、その起源・祭祀・行規・衰退、および馬神廟の起源の各項目に分けて述べるとともに、北京の菓子屋と菓子、そして菓子と北京の人々とのかかわりについても触れている。今回の小論では、前回詳しく論じることができなかった、馬神廟がなぜギルドホールになったのか、雷祖がどうして祭神として祀られるようになったのか、の二点について、もう一度見ていきたい。当時、ギルドの人々はギルド内で重要と考えられた事項を石碑に刻み、ギルドホールに立てたが、糖餅行の人々も多くの石碑を残している。それらの碑文は、『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集』第五巻(東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献センタi一九八〇、以下「資料集」と略)、および『明清以来北京工商会館碑刻選編』(文物出版社一九八〇、以下「碑刻選編」と略)に収められており、さらに、拓本が『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匪編』(中州古籍出版社一九九〇、以下「北拓」と略)に収録されている。ここでは、こうした碑文を中心的な資料として、上に書いた問題を考えていきたい。
著者
安田 真紀子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.23, pp.33-56, 2005

近年、街道や旅に対する関心の高まりもあって、交通史も多岐の分野にわたって研究が進められている。中でも、旅のルート・観光コースに関する研究は、歴史学のみならず、地理学や観光学の見地からも注目されてきている。奈良・三重問においても、伊勢街道を中心に実地調査や参宮ルートの研究が行われ、その成果も報告されている。その一方で、開発や荒廃等により街道のルートや存在も曖昧になってきつつある。また、同一の街道であっても地方によって呼称が異なっており、研究者や自治体等によって、各街道にさまざまな名称が付けられた結果、混同を招き、街道自体の姿をより複雑なものにしている。そこで、本稿では、今一度、江戸時代の大和における伊勢街道の整理を行い、道中案内記類から、大和と伊勢を結ぶ参宮ルートの変遷や、参宮と大和巡りとの関係について事実を確定し、考察したい。とくに、伊勢参宮に古くから利用されていた「伊勢本街道」を中心に、現地調査も踏まえて考察を加え、その歴史的な位置付けを明らかにしていきたい。
著者
木本 久子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.28, pp.115-136, 2010

本稿では、頼道像解明の一環として、『春記』を中心に、資房のいうところの「親々」の人々を抽出してその存在を明らかにし、その上で彼らの行動を分析することで、「親々」の人々の打うち、頼道と血縁関係のない者について取り上げるが、血縁関係のない者たちであるだけに、かえって「親々」の人々のもつ特質が明確に知られるに違いない。
著者
菅野 正
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.4, pp.23-37, 1986-12

一九一九年(中華民国八年、大正八年)の五四運動が、中国近現代史上にあって、時代を画する重要な意義を有することについては論をまたないであろう。それは一五年の日本の二十一ケ条要求、世界大戦への中国の参戦・勝利、戦後のヴェルサイユ会議での中国の要求拒絶、という背景の中で発生したものであるが、より直接的には、その前年の一八年五月に、日中間に締結された日中共同防敵軍事協定に対して、帰国在日留学生を中心とした学生や各界が反対運動を展開していたことが、その一つの基盤をつくった。このことについては前稿でふれ、それが五四運動と直接関係のある連続上にあること、五四運動の前奏であることの意義を論じた。日中軍事協定締結が五四運動の舞台をつくった訳であるが、その際、帰国在日留学生らはその調印拒否を、締結後は廃止を、或いは秘密協定であったものの公表を要求した。もとよりそれらの要求は納れられないまま五四運動に突入した。小論は、世界大戦も既に終結し、軍事協定の必要性もなくなり、五四運動という反帝・反封運動の中で、軍事協定の存廃問題が如何なる経過を辿ったかをみようとするもので、その廃止への過程を素描せんとするのが目的である。
著者
河内 佐智子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.6, pp.52-68, 1988-12

藤原不比等については、『日本書紀』・『続日本紀』をはじめとする史料を綜合して、多くの検討が加えられ、さまざまな人物像が描かれている。一般的には、藤原鎌足の後継者で、大宝律令の制定に関与し、養老律令の撰定、平城遷都などの推進者として、八世紀初頭の律令体制の中心に位置し、政治面に大きな権力を保持していた人物であるとされている。しかし、鎌足と不比等の継承関係も、父子であること以外には明瞭にされておらず、『家伝』の「大織冠伝」と『日本書紀』との関係をはじめとする史料批判も完了しているとはいえない。また、野村忠夫氏・上田正昭氏等によって指摘されてきた「不比等の絶対的な権力」についても、再検討を必要とするという動きがみられる。さらに、佐藤宗諄氏は、不比等についても仲麻呂の造作がかなり為されているので、この詔で不比等に与えられた「五千戸」という封戸の数についてもおそらくは仲麻呂の造作であろうと指摘しておられる。第一に藤原氏が確定〔文武二年(六九八)に不比等のみ藤原氏と称することが許されるようになってからという意であろう〕してから未だ十年にも満ちていないこと、第二に不比等の上位には右大臣石上朝臣麻呂が健在であることをあげておられる。つまり佐藤氏は、それまでの不比等の経歴からでは彼が五千戸を与えられ得るだけの力量と基礎をもっていたとは考えられないのではなかろうかと主張しておられる。『続日本紀』の本文批判は、まだ『日本書紀』に対してのようには厳密には行われていない。そのなかでは、佐藤氏の見解は特異なものである。本稿では、藤原不比等の「功封」を中心にして、それが賜与された慶雲四年(七〇七)ごろの不比等についても考察を加えて行きたい。
著者
下坂 守
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-20, 1993-12

本稿の目的は、中世、山門公人と呼ばれた人々が、延暦寺の寺内においてどのような位置を占めていたかを考察することにある。山門公人に関しては、しばしば延暦寺領の年貢謎責にあたっていたことや、彼らが延暦寺衆徒の示威行動の先頭に立っていたことなどから、その活発な活動状況についてはよく知られている。しかし、そのいっぽうで彼らが延暦寺内において具体的にどのような存在であったに関しては、正面からこれを取り上げて論じたものがまったくないのが現状である。これは一つには延暦寺内における山門公人の位置付けが、史料的な制約もあって、容易に明確にし得ないことによるところが大きいが、延暦寺内における「公的」権力のあり方、ひいては大寺院における「公的」なるもののあり方を考える上において、その歴史的な評価は不可避のものと考える。
著者
松山 宏
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.2, pp.1-20, 1984-12

中世城下は一般によく分っていないし、研究も少ない。しかし地方武士権力の実態をつかむために、その拠点を明らかにすることは必要である。現在のところ私が把握している城下は、戦国以前の中世を通じ一国一つ程度であり、それもほとんどは守護のそれである。ところがそのなかで信濃国は異例であり、鎌倉・南北朝・室町の各時代においてそれぞれ複数の城下が存在している。しかもそれには守護を含む地頭・国人層のものもみえるのである。もっとも厳密にいってこれらが真に城下といえるかとなると疑問のもたれるのもあり、また城下が備えている政治・宗教・商業・交通などの諸機能がすべて明らかだともいえない。だが他国での守護城下にみあうものが、ここでは地頭・国人などの城館地にもみられる。信濃国に城下が多いのは、一つには史料によるが今一つは現在の長野県の各地域での豊かな調査・研究のためである。いずれにせよこれらの城下を、地元の諸成果をふまえて明らかにしたいと考える。

1 0 0 0 IR 道照伝考

著者
水野 柳太郎
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.1, pp.1-30, 1983-12

古代仏教史において、道照は重要な人物の一人とされている。道照に関する基本的な史料には、八世紀末の『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)三月己未条の道照の死亡記事に附載された道照伝、九世紀に入ると『日本霊異記』上巻第二二話の「勤求学仏教、法利物、臨命終時、示異表縁第廿二」と題する道照説話、および『三代実録』元慶元年(八七七)十二月十六日壬午条がある。従来は、これに『扶桑略記』や『今昔物語』など後出の史料を加えて、充分な史料批判を加えることなく、道照を考察していた。小論では、主として『続紀』道照伝と『霊異記』道照説話を比較検討することにより、両者の史料的性格を明らかにするとともに、それを通じて道照に関する史実を確認したい。両者の類似点と相違点について、すでに松浦貞俊氏が考察しておられるが、両者の関係については、想ふに道昭の伝記記録に二つ以上あって、霊異記の著者は其一を執たものであらうか。とするのみで、深く言及しておられない。この点については、更に追求できると思われるので、本稿では段落をつけて比較考察し、両者の性格やそれぞれの原資料を明らかにしたい。
著者
菅野 正
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.10, pp.77-96, 1992-12

一九〇五(清光緒三十一、明治三十八)年、厘門の富豪林維源によって、福建勧業銀行設立が計画された。この事業は、林維源の死去によって結局挫折したが、一年有余の後、養嗣子林爾嘉によって普通銀行に改組し、福建信用銀行として設立された。そしてその計画の中で、日本にも出資の要請を灰めかした事から、日本もそれの対応を検討し始めた。その設立計画の過程をたどり、背景をみんとするのが小論の目的である
著者
北村 昌史
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.22, pp.37-60, 2004

この二〇年ほど近代ドイッ史研究において市民層の再検討が中心的課題の一つであったことはここで改めて指摘するまでもあるま斡酬これは・一九八〇年代に繰り広げられた「特有の道」論争の焦点の一つが「市民」の評価をめぐるものであったことをその背景とする。最近一〇年の動向に話を移せば、個別都市単位の都市市民層Stadtburgerの研究が盛り上がりをみせている。ここで都市市民という場合、手工業者や小商人など伝統的な都市の市民が念頭におかれている。都市市民へ関心を集中させる近年の傾向は、市民層を都市社会の具体的な状況のなかに位置づけることを意図したものであり、八〇年代以来の研究の必然的な帰結といえる。L・ガルを中心としたフランクフルトのグループが西南ドイッの都市に焦点をあてて研究を進めているのがもっとも顕著な動きであろう。それにとどまらず、市民層研究ということではガルのグループに先行していた、コッカを中心とする社会構造史派のグループにもノルテなど都市市民をとりあげる研究者がおり、また都市市民に関心を寄せるのはこうした大プロジェクトに関わる者ばかりではな咋酬具体的な都市という場で市民を考える動きは、現在近代ドイツ史研究に極めて大きな裾野を有しているといえる。本稿では近年の都市市民研究の動向を包括的に整理することは差し当たって断念し、ベルリンの都市行政の名誉職と市民との関係を論じた二つの研究の紹介を試みたい。べルリンの市民層については、企業家の出自をあつかったケルブレの先駆的研究(一九七二年)以降研究成果が蓄積されており、とくにベルリンの壁崩壊後の史料へのアクセスの改善を背景に矢継ぎ早に実証的研究成果が世に問われている。そうした研究のなかでもパールマンによる、一九世紀前半の市議会選挙や市議会議員についての網羅的研究(一九九七年)と、スカルパによるルイーゼン市区(ベルリン南東部)の救貧委員会の社会的機能を扱った研究(一九九五年)を本稿では検討したい。
著者
石田 真衣
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.25, pp.83-103, 2007

ヘレニズムの文化を語ろうとするとき、支配する側にあるギリシア文化と、支配される側にあるオリエント文化の出会い、対立、あるいは共存といったさまざまな文化変容のあり方が問題となってくる。従来、ギリシアとオリエントの関係については、ギリシア文化の一方向的な伝播と優位性が評価される傾向にあったが、近年では、オリエントの側からの視点が個別研究において重要視されるようになってきた。わが国においては、大戸千之氏の『ヘレニズムとオリエントー歴史のなかの文化変容』によって、このような観点からの見直しが指摘され、すでにセレウコス朝シリアの文化変容について詳細な検討がなされている。一方、プトレマイオス朝エジプトについては、高橋亮介氏によって欧米学界における近年の修正論と新たな研究成果が紹介されているが、まだ具体的な実証研究は緒についたばかりである。そこで本稿では、前三世紀後半の伝統社会エドブを取り上げ、近年の研究動向を反映させるかたちで、やや立ち入った検証を試みる。
著者
森本 轟
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.18-58, 1990-12

中世のイングランド北東部に所在したダラム司教座聖堂付属修道院(Durham Cathedral Priory)は、聖ベネディクト会派に属す修道院であり、修道院解散時に至るまで役職員組(Obedientiary System)を維持していた。当該修道院の役職員の中では会計収支を統轄していた「出納掛」(Bur sarius,Bursar)がもっとも重要な存在であったが、歴代の出納掛の会計報告書は、比較的良好な形で連続性を保ちつつ、ダラム大学古文書学部において保存されている。われわれは、これまでの一連の研究において、主として出納掛会計報告書のシリーズを根本史料として使用しつつ、当該修道院の一四世紀から一五世紀前期に至る時期の経済生活について考察してきた。そこで、本稿では、一五世紀後期における当該修道院の経済生活の実態を理解するための一つの試みとして、ワインの需要と購入について考察してみよう。中世のイングランドにおいて、ワインはいうまでもなく重要な輸入商品であったので、ワイン貿易の推移に関しては、周知の如く、すでにサージェント(F.Sargeant)、ベァードウッド(Beardwood)、ケァラス"ウィルソン(E.M.Carus-Wilson)およびジェームス(M.K.james)の諸研究があり、それぞれがすぐれた研究成果を公けにしている。とくに、ジェームス女史は、一五世紀におけるワイン貿易に関する研究を、一四世紀のそれにひきつづいて行なったのち、一四ー五世紀を通じてのイングランド・ガスコーニュ・ワイン貿易の変遷が、イングランドの主要諸港の経済に如何なるインパクトを与えたかを、関税記録などからきわめて詳細に論証している。したがって、われわれのここでの考・察は、ジェームス女史の研究成果に基づいて行なわれることはいうまでもないが、同女史の国内におけるワインの需要分析が地域的にも時期的にもムラがあるという欠陥を、たしかに北東部といった限定された地域においてであるけれども、諸データの時系列的処理で以て補完することができる、といった点に意義を見出すことができよう。
著者
菅野 正
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.76-100, 1996-12

一九〇五年(清国光緒三十一年、乙巳年、明治三十八年)中国は転換の年を迎えた。八月、革命派は、東京において、中国同盟会を結成し、革命運動は新たな段階を迎え、革命は政治日程にのぼってきた。九月、千有飴年継続されてきた科挙が廃止され、官僚体制は変化した。若い知識層は、新しい学問を求めて日本に留学し、その数もこの年八千人にも増加してきた。留学生が革命運動を始めるに及んで、日本政府は清朝政府の要請を入れ、十一月、所謂「清国留学生取締規則」を公布して、その政治活動を取締らんとし、留学生は猛烈に反揆して、陣天華は東京大森海岸に入水自殺して抗議の意を示し、留学生も続々「綴学帰国」して日本批判を始めていた。一方、米国がその労働市場を守るべく、中国人労働者を排除しようとしたことから、初夏より米貨排斥運動が中国各地で組織された。さらに、満州を中心に展開された日露戦争に、日本が勝利して、八月ポーツマス講和会議が開かれ、条約が締結された。満州を清国に還付し、露国が満州において所持していた利権を継承すべく、日清両国間に交渉がもたれ、同年十二月二十二日、北京において、「満州還付に関する条約及び附属協定」が締結された。ところが、この九月のポーツマス条約締結より十二月の日清協定締結に至るまでの十月、十一月に、日本が、満州還付の代償に、福建割譲要求をしたとの風説が伝えられたことから、これに反対して、日本商品排斥・大阪商船排斥・工場、学校採用の日本人技師、教員の解雇を呼びかける民族運動がおこりかけた。これが即ち、「割閲換遼」反対運動である。この割閏換遼をめぐる民族運動については、以前これをとりあげて検討したことがあるが、今、ここでは、前稿より後、知り得たことより、湖南での運動状況、その中心人物禺之護について、および風説の出所由来等の表題に係る関係資料等を紹介してみようとするのが本稿の目的である。