10 0 0 0 OA 口絵

著者
クレインス フレデリック
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.55, pp.1-2, 2017-05-31
著者
頼 衍宏
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.9-49, 2018-11-30

法隆寺金堂に珍蔵されている「銅像薬師如来坐像」という国宝の光背銘は、日本の国語学ないし古典文学の領域で重要な位置を占めている。その文体について、現代の有力説では和文とされている。一方で、「正格の漢文」という波戸岡旭の説もある。ここでは、この少数説を支持して、訓詁・音韻・修辞という三つの側面から検証した。 字義については、とくに八箇所の文字列に即して考証する必要がある。そのために、中国の類書・正史・総集・金文・造像記・敦煌変文にとどまらず、日本で写経された漢訳仏典も視野に入れて、しかるべき用例を若干拾った。結果、純漢文体で読むことができた。この観点に基づいて、筆者は新しい読み下し文を作成してみた。 字音については、『切韻』の韻摂を導入して、銘文における韻字の分布を調査してみた。また、西周の散文のなかに存在する押韻をもつ金文、言い換えれば、非定型のなかに韻字を布陣する金石文の技法に注目しつつ、本銘の押韻状況を割り出した。 従来論じられていない修辞については、まず異なる字数五十八字のうち「大」「天」という執筆者の愛字から見ていく必要がある。その十二回ほど繰り返されている主旋律および配置の有り様は、唐詩に示された技法を抜きにしては考えられない。そのうえ、本銘を検討すると、前半の「大宮治天下」「天皇」「大」「賜」「歳次」「年」「仕奉」の七箇所が後半でそのまま繰り返されているという技巧も発見した。総合的に観察すると、同心円・渦・波という繫がりが認められる。冒頭の「池」に因んだ二十一箇所の修辞は、ちょうど発願の「丙午」から完成の「丁卯」までの二十一年間に相当する。 以上の考察により、正格漢文体とする少数説を復権させるとともに、現行における文学史の主流的な記述の仕方の刷新を提起したい。
著者
谷口 雄太
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.7-37, 2017-01-31

本稿では十四世紀後半~十五世紀前半の吉良氏の浜松支配につき、特に寺社統制の問題を中心に検討し、その上で、一国の領主と守護の関係、連動する都鄙の姿、都鄙を結ぶ道の実態についても指摘した。
著者
張 帆
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.113-130, 2021-10-29

近年、学界では「グローバル国際政治学」(Global IR)に関する議論が高まり、日本の国際政治学の再考は重要な課題となった。とりわけ、高坂正堯、永井陽之助ら「現実主義者」の国際政治思想は大きく注目され、いわゆる「日本的現実主義」に関する研究が進んできた。しかし、既存の研究の多くが冷戦前期に焦点を当てるため、冷戦後期の日本的現実主義の展開は十分検討されていない。他方、同時期の安全保障・防衛政策に関する研究において「防衛計画の大綱」や総合安全保障戦略、防衛費「GNP 1%枠」の撤廃に対する「現実主義者」の関与がしばしば言及されるが、日本的現実主義の動向が議論の中心ではない。 以上を踏まえ、本稿では冷戦後期の日本的現実主義の展開を考察対象とする。同時期の日本的現実主義に関する重要な手がかりとされた「モチヅキ=永井説」は、「政治的リアリスト」対「軍事的リアリスト」という日本的現実主義の内部対立を示唆した。しかし、同説が必ずしも当時の日本的現実主義の全体像を示したわけではなく、その妥当性について議論の余地がある。これに対して、本稿では冷戦後期の防衛論争を顧みながら、同時期の日本的現実主義を再検討することを試みる。 本稿の構成は以下の通りである。第一節では、冷戦前期の日本的現実主義の展開を概観しながら、いわゆる「政治的リアリスト」の主張が七〇年代に体系化され、日本の安全保障・防衛政策と一体化する過程を分析する。第二節では、高坂、永井、猪木正道、岡崎久彦、中川八洋、佐藤誠三郎らの議論を中心に、冷戦後期の防衛論争を詳細に検討する。第三節では、防衛論争における主な争点をまとめ、「モチヅキ=永井説」の問題点を指摘したうえで、冷戦後期の日本的現実主義が「総合安全保障論」対「伝統的安全保障論」を軸に変容したことを解明する。
著者
野村 育世
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.9-34, 2021-03-31

有田焼の創始者の一人百婆仙は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、武雄の領主後藤家信配下の廣福寺別宗和尚に連れられ、被虜人として、夫の宗傳と共に渡来した。夫婦は内田に土地を与えられて陶器を焼いた。夫の死後、百婆仙は一族を率いて有田に移住し、磁器生産に励んだ。96 歳まで生き、1656 年に死去した。百婆仙は有田焼の創始者の一人であるにもかかわらず、これまでほとんど知られてこなかった。本稿は、百婆仙についての研究史を整理し、史料の紹介、校訂、読解を試みたものである。 百婆仙研究の嚆矢は久米邦武の仕事である。久米は百婆仙の碑文を校訂して紹介した。1930 年代後半になると、日本史の人名辞典に百婆仙が立項されたが、その背景には当該期の政策の中で植民地朝鮮の人物を国史に包摂していく方向性があった。戦後の辞典では韓国史上の人名は除かれたが、日本の伝統工芸の祖である百婆仙たちまでが削除された。1970年代になると、小説家が書いた『肥前おんな風土記』が百婆仙を取り上げたが、その虚実入り混じった内容は今もなお強い影響を残す。21 世紀の現在、日韓の市民の間で百婆仙に対する関心が高まっているが、学術研究においては出遅れている。 百婆仙の史料は、没後50 年に曾孫が建立した法塔が唯一のものである。原本は磨滅しているが、久米による写しが存在する。『後藤家御戦功記』新写本にも掲載されている。それらの写しと、碑文に残るわずかな文字を元に校訂を試みた。 碑文からわかる百婆仙の容貌は、眉を抜かず、耳にピアスの穴の跡があった。夫の宗傳(法名。日本名深海新太郎)の名について、近年「金泰道」とする説が出されたが、これは百婆仙の戒名を誤読したことによる謬説である。 最後に、百婆仙夫妻の渡来事情について、『後藤家御戦功記』新写本の解説と、碑文そのものの内容を比較すると、彼らが朝鮮において陶工であったのかなかったのか、後藤家信は彼らが陶工だから連れて来たのか、はたまた無差別な拉致であったのか、という議論を喚起しうる。 以上、現段階で可能な基礎的考察を試み、今後は科学技術を応用した碑文の読解が望まれること、国際的な学術交流が必要であることを展望した。さらに、韓国と日本のジェンダー史の流れを比較しつつ、2 つの社会を生きた百婆仙のジェンダー史上での立ち位置を考察することを、提唱した。
著者
将基面 貴巳
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.55, pp.63-72, 2017-05-31

現在、欧米のみならず日本でも学会を揺るがせている問題のひとつに「人文学の危機」がある。ネオ・リベラリズムの席巻に伴い、人文学のような、国民経済に直接的に貢献しない学問は「役に立たない」という議論が横行するようになっている。その結果、人文学系学部・学科は各国政府やメディアからの攻撃にさらされつつある。いわゆる「日本研究」の分野に属する研究の多くは人文学的なものである以上、「人文学の危機」という問題を傍観視するわけにはゆかないであろう。実際、日本国内外を問わず、人文学系の研究者たちは、人文学の意義について積極的に発言するようになっている。しかし、そうした発言の多くは、ネオ・リベラル的潮流への批判であり、人文学の自己弁護に終始し、人文学的研究と教育の現状を再検討する視点が総じて欠落している。 本稿は、こうした現状認識に基づき日本研究の今後を考える上で、人文学的な専門研究が陥りがちな「落とし穴」を指摘することにより、人文学としての日本研究が、時代の逆風にもかかわらず、存立していく上での必要条件のひとつを考察するものである。 その「落とし穴」とは、「学問のプライベート化」とでも称すべき事態であろう。すなわち、人文学の専門的研究が、もっぱら研究者の個人的興味・関心に矮小化する結果、現代社会や文化の諸問題との関連性がもはや研究者によって自覚されない事態である。そうした状況の背後にあるのは、19世紀以降における歴史主義の圧倒的な影響力であろう。歴史主義が空気のように当たり前の存在となり、全ての事象が個性的かつ一回的なものと認識され、あらゆる価値が相対化される時、極めて専門化の進んだ歴史的研究が現代において主張しうる意義とは何か。この問いへの答えは必ずしも自明ではなくなっている。本稿は、この難問への手短な回答を試みる。
著者
張 小栄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.243-280, 2022-10-31

「王道主義」は「満洲国」建国過程で唱えられた統治理念である。満洲事変(九・一八事変)後に、関東軍のイニシアチブのもとで進められた建国工作では、主として現地文治派指導者、関東軍に随伴する植民地統治のイデオローグである橘樸や野田蘭蔵等「理念派」および満鉄実務官僚出身の上村哲弥等「実務派」が相互に絡み合いながら統治理念の形成に関わった。 橘樸や野田蘭蔵等「理念派」は、現地文治派指導者の政治的主張を取り込みつつ、中国の伝統的儒学思想を淵源とする「大同の世」の理想的社会像を「農民自治」に見出しつつ「王道方法論」を構築した。しかしそれは、関東軍の「満洲国」統治を正当化する論理にとどまり、実質的な内容を持たない理念となった。 これに対して、上村哲弥らによって代表され、金子雪斎の満蒙経営論からの思想系譜をもつ実務派は、大正期から「王道主義」を唱え、中国の東北地域における長年の「満蒙経営」、なかんずく教育実務者としての経験から、その教育政策立案を通じて政治的具体化を目指した。しかしその重要性にも拘わらず、従来上村等は「王道主義」の文脈では重視されてこなかった。 そこで本稿では、「満洲国」の統治理念として唱えた「王道主義」をいかに認識し、いかに教育政策に反映させようとしたのかを検討する。
著者
佐竹 真城
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.221-254, 2020-03-31

小論で扱う『往生礼讃光明抄』は、神奈川県立金沢文庫管理の国宝称名寺聖教に属する一書で、撰者は法然門下の覚明房長西である。本書について、文永5(1268)年の書写奥書を有していることから、『往生礼讃』の註釈書として最初期に位置付けることができ、史料として貴重である。撰者の長西については、法然の室への入門は遅かったが、後に九品寺(くぼんじ)流と称する一派を形成していることから、法然門下のなかでも重要視される人物である。しかしながら、九品寺流は早くに途絶え、その著作も殆どが早くに散逸していたため、第三者の所伝のほかは詳細を知る術がなかった。ところが、昭和の調査で本書を含めた数点の長西著作が顕出されたのである。以降、学界としてその重要性・貴重性は大いに認識され、真の長西教義が明らかにされることが期待されていた。しかしながら、筆者以前に実際に翻刻された典籍は僅かであり、十分に研究が進展しているとは言い難い。また、これら未翻刻の典籍には、同時代に活躍した浄土宗第三祖良忠への影響を指摘することができる。如上の点から、長西研究のみならず、当時の法然門下の交流や思想交渉など、従来知られていなかった点を明らかにする上で、貴重な史料と成り得ると考える。よって小論は、長西研究ならびに中世浄土教研究の進展を期して翻刻を公開する。

5 0 0 0 OA 口絵

著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, 2020-03-31
著者
古俣 達郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.107-137, 2018-11-30

本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.75-100, 2023-03-31

本稿は、武田泰淳と武田百合子の口述筆記創作に着目し、書くことの協働性が具体的な文学実践のなかにどのように織り込まれているのかを考察するものである。 二人は「男性芸術家とその妻」であり、創作現場における「口述者と筆記者」でもあったが、作家夫婦にしばしば生じる支配と従属の関係とは一線を画するものとして、肯定的に評価されることが多い。しかしながら、二人の関係性を無前提に称揚してしまうことは適切ではないだろう。重要なのは、二人の関係性が望ましいものであることを論の前提とするのではなく、何がそうした関係を切り拓く鍵となっていたのか、その背景を解きほぐしていくことである。本稿では、泰淳の病後、百合子の筆記によって彼の執筆活動が成り立っていたことに目を向け、書くことのディスアビリティに対峙した両者の姿から見えてくる問題について、ケアや中動態の概念を補助線に検討をおこなう。 分析対象に取り上げる『目まいのする散歩』(1976年)は、病後の不如意の身体に対する泰淳の意識が強く反映されており、書く行為を他者に委ねるという状況を彼自身がどのように捉えていたのかを考える上で興味深いテクストである。テクストに示された自律した主体像への懐疑的なまなざしを、中途障害を抱える自らに対する内省として捉え、そうした依存的な自己のありようを凝視することが、他者との開かれた関係を構築する契機となっていることを明らかにする。 また、テクスト後半のロシア旅行に関する章で用いられる百合子(筆記者)の日記を借用するという方法に焦点を当て、それが「書かせる」(能動)/「書かされる」(受動)という単純な二元論に回収し得ない、書くことの協働性に結びついていることを論じる。ケアの思想に基づくこれらの分析を通して、一方的な搾取や支配の関係ではなく、互いの他者性や依存性を否定しない倫理的な関係を築くための視点を導出することが本稿の目的である。
著者
永塚 憲治 上田 眞生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.423-465, 2022-10-31

近世にさまざまな形式で制作されてきた艶本、その総数は一説に拠れば、多く見積もった説では三千点を超えるとされ、少なく見積もった説では千二百点と言われており、いずれにせよおびただしい数の艶本が出版されていたことが分かっている。今回紹介する艶本は、稿者の一人の永塚が京都の古物商からネットオークションで入手したものである。 艶本に於て性典モノはしばしば見受けられ、その中で春薬(強壮剤や催淫剤等の性行為を助ける薬の総称)が登場するも、春薬の処方集というのは、他にあまり例を見ない形式の艶本である。この春薬というものは、元々中国で生まれたもので、今回の欠題艶本でも漢の武帝や陶真人(陶弘景)や唐の玄宗といった中国史上で著名な人物に由来するとされている。この艶本には、全部で二十三の春薬を載せるが、「艶薬奇方」ではその効能・用法を、「春意奇方」ではその構成する生薬と修治などの製造に関わる記述を載せており、実用に適った形式を取っている。 全二十三の春薬の内、例えば、「固精丸」は、明の嘉靖15年(1536)に刊行された房中書の『素女妙論』に載る「固精丸」と処方名が同じで、構成する生薬もほぼ同じものが載せられている。一般に『素女妙論』と言えばヒューリックの『秘戯図考』に所収の「丙寅仲冬」の「序」を載せるものだが、それではなく嘉靖15年に刊行された『素女妙論』は、戦国時代の医師である曲直瀬道三によって『黄素妙論』として和語に抄訳されている。この『黄素妙論』は、後の時代に艶本や養生書に取り込まれ、近世日本の房中書の流通の中核となっている。春薬の研究は、房中書と艶本という共にアンダーグラウンドの出版物であった為か、依然として不明な点も多い。そこで今回は解題・翻刻をして江湖に問うことにした。本稿は、この知られざる日中交流の歴史を明らかにする為の基礎作業であり、諸賢の指摘・叱正を請うものである。