著者
春藤 献一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.131-161, 2021-10-29

本論文は「動物の保護及び管理に関する法律」(1973年成立)の下で行われた動物保護管理行政における、飼い猫の登録制度や、野良猫用の捕獲器貸出制度、駆除目的に捕獲された猫の引取りといった施策を論じたものである。 同法により行政は、猫の虐待防止や適正な取扱い等の保護と、猫による被害から人を守る管理を行うようになった。飼い猫の登録制度や野良猫の捕獲は、猫の保護管理に関する実験的施策であった。 1976年11月、静岡県島田市は「ねこの保護管理要綱」を定め、施行した。要綱は前例のない、飼い猫の登録制度と野良猫の捕獲制度を定めた。要綱は県内で相次いだ猫による咬傷事故の防止と、飼い猫や野良猫に関する苦情への対応を目的としていた。市は市民に飼い猫の登録を指導する一方で、野良猫の捕獲を希望する市民には捕獲器を貸出し、捕獲された猫を引取った。この施策により市では猫に関する苦情が大きく減少した。 野良猫を捕獲し殺処分する施策が実施されたことからは、猫による危害防止と苦情への対応が、行政として重要度の高い課題として理解されていたことが示唆された。 この施策は1982年以降、政府発行物により全国の自治体へ類似事例と共に共有され、政府が飼い猫の登録や野良猫の捕獲を実質的に追認していたことも明らかとなった。また政府は1982年に、飼い猫の登録と野良猫の捕獲の是非を問う世論調査を実施し、過半数の賛成を得てもいた。この調査が実施されたこと自体からも、政府が猫の登録や捕獲を、実行性の高い施策として検討していたことが示唆された。 また一部の自治体では要綱等を定めず、行政サービスとして捕獲器の貸出しが行われていたことも明らかとなった。 これらの議論から「動物の保護及び管理に関する法律」の下では、捕獲と殺処分という「排除」の方法による施策が一部の自治体で行われ、猫の管理が行われていたことが明らかとなった。
著者
石野 浩司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.187-241, 2022-10-31

泉涌寺「霊明殿」とは、歴代天皇の位牌(尊牌)を安置する施設である。天皇即位儀礼および宮中祭祀と関連して、宮内庁の月輪陵墓祭祀との関係性を維持している。 1. 泉涌寺が天皇家喪葬に関与し始めるのは、通説の仁治3年(1242)四条天皇喪葬からではない。『四条院御葬礼記』に見える御前僧は顕密僧であって、いまだ古代の天皇喪葬制の範疇に留まり、禅律僧らが「一向沙汰する」中世喪葬儀礼には移行していない。 2. 後光厳上皇の応安7年(1374)以降、泉涌寺創建伽藍を儀礼空間として完備された天皇喪葬儀礼(泉涌寺と安楽光院との共同運営)は、後円融・称光・後小松天皇と北朝四代の常例となる。この後光厳院流に対して、崇光院流の般舟三昧院が対抗する。 3. 応安例を画期として、泉涌寺「法堂」における龕前堂儀礼、「十六観堂院」中庭での火葬(山頭儀礼)と拾骨(『称光天皇御葬礼記』)、そして持明院統の離宮「伏見御所」域内に嘉元2年(1304)に建立された後深草上皇の葬堂「深草法華堂(安楽行院)」への納骨という、この三部構成が北朝皇室の喪葬伝統を形成する。 4. 応仁2年(1468)に泉涌寺伽藍「法堂」「十六観堂院」以下が全焼すると、明応9年(1500)の後土御門天皇「明応例」を画期として、仮設建物(仮法堂を含む)で代用された「龕前堂・山頭儀礼」が後柏原・後奈良・正親町・後陽成天皇まで式微五代の慣例を形成する。 5. 承応3年(1654)後光明天皇喪葬が、寛文8年(1668)仏殿再建以前であったこともあり仮設建物で執行された。この「承応例」(火葬儀「明応例」を土葬儀へと入句を改編したもの)が幕政下の規範とされたために、敢えて復興伽藍を使用しない仮設式「龕前堂・山頭儀礼」(これに実質的な埋葬「廟所」儀礼が加わる三部構成)が定着する。近代大喪儀「葬場殿」の雛型は、かかる泉涌寺の宋風儀礼であった。 6. 後陽成灰塚以下に模倣されるためには、四条天皇陵の九重石塔が同域内で規範性の高い建造物として認識されていたことが前提となる。般舟三昧院との争論を背景として四条陵石塔が移築再建、北朝皇室の荼毘所「十六観堂院」旧跡に月輪陵墓が形成される。 7. 十六観堂院旧跡に対して、江戸初期三代の天皇陵の慣例が回避的である。一方で後水尾院統の先祖二代と後宮は十六観堂院旧跡に「家族墓」の特異態を形成する。 8. 四条院御影堂の再興を発端とする泉涌寺復興は、寛文6年(1666)「御位牌堂(霊明殿)」創建に結実する。「承応例」以降の天皇家喪葬の典拠が『朱子家礼』である以上、位牌祭祀の空間「霊明殿」も礼制上は朱子「祠堂」と見做される。先祖祭祀を前四代に限定する朱子学礼制は、かくて明治41年『皇室祭祀令』「先帝以前の三代」に継受された。 9. 月輪陵成立過程における後水尾院統「家族墓」構図は、そのまま後水尾院統「家廟」としての創建霊明殿の位牌の配置に反映される。 10. 東山天皇陵を画期とする江戸中期100年間、月輪陵墓は天皇・嫡后だけに占有された埋葬空間「皇室の嫡流陵墓域」を成立させる。一方で嫡出皇子への特殊配慮が見られ、光格天皇以降を後月輪陵と区別する。 11. その「皇室の嫡流陵墓域」構図は、嫡出皇子への特殊配慮も含めて、そのまま弘化再建霊明殿の尊牌配置に反映されている。 12. 元来、後水尾院統「家廟」として成立した寛文創建「霊明殿」は、「嫡流陵墓域」月輪陵に対応して、祭祀する位牌は限定的であった。その限定を解除して「皇室の宗廟」を企図したのが明治9年「尊牌合併令」である。ここに後光厳院流「安楽光院+泉涌寺(北京律)」と崇光院流「安楽行院+般舟三昧院(天台兼学)」という中世後期以降二系統に分裂してしまった天皇家の先祖祭祀が一元化される。かかる位牌祭祀の泉涌寺一元化とは、明治11年(1878)制定「春秋二季皇霊祭」への階梯であった。 13. 明治15年(1882)焼失を好機として、明治16年(1883)の勅命により、明治17年(1884)に宮内省造営で近代霊明殿が成立する。古代の山陵祭祀とは異なる要素として、中世後期以降の宋礼継受により導入された祭祀主体「位牌(朱子学の神主)」形式が、皇霊祭祀の成立要件に組み込まれたことを意味する。かかる近代霊明殿を雛型として、明治22年(1889)に宮中三殿「皇霊殿」が完成した。 14. 近代成立の皇霊殿祭祀に包含される皇統意識とは、復古された山陵祭祀(律令制「近陵」)ではなく、むしろ中世・近世天皇家の「イエ」的な先祖祭祀(廟所としての「月輪陵墓」・家廟としての泉涌寺「霊明殿」)を内実として継承したものである。朝廷内の意思疎通と朝幕間の儀礼的交渉をへて治定された泉涌寺「月輪陵墓」の格式(規模と形式)には、近世皇統意識が可視化されている。
著者
山村 奨
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.111-130, 2021-03-31

近代日本において「人格」という言葉にどのような意味が与えられたのかという点と、その影響について論じる。まず1912 年に出版された『英独仏和字彙』において、Personificationという言葉に「人格化」という訳語があてられたことに対して、この言葉にどのような意味が想定されていたのかを考察する。その際、特に『英独仏和字彙』の編者である井上哲次郎と中島力造の主張を参照する。「人格化」は一般的に、「擬人化」と同様の意味で用いられている。しかし、中島の考える人格は、人間に元来ある「人格になる萌芽」、種のようなものであり、育てていくべきものである。さらに中島は、人格を自ら変化させ、よりよい状態にしていくことを主張する。中島にとって人格は道徳的な意味を含んでおり、向上させていくものである。それは井上にとっても同様であり、この点から、井上と中島らがあてた「人格化」の訳語には、よりよい状態への変化の意味があると考えられる。 中島は人格の向上のために修養を求めたが、続いて、近代日本における修養の考え方について、陽明学との関連で考察した。明治期には時代的な影響から、陽明学による精神修養を国家主義に援用する向きもあり、本論文では吉本襄や東敬治を紹介した。それに対して亘理章三郎は、陽明学によって「人格修養上の教訓」を得ようとしている点が、特徴的である。亘理には、中島や井上が人格に道徳的な意味を持たせて、その向上を求めた人格観と共通の要素がある。 最後に、安岡正篤の陽明学観を取り上げた。安岡は『王陽明研究』の中で「人格」を重視する姿勢を見せる。それを井上哲次郎の影響とする研究もあるが、本論文では安岡が特に参考文献として書名を挙げている高瀬武次郎や亘理章三郎の影響について言及した。安岡は近代日本の学術をまっとうに吸収し、陽明学が内面の修養に援用できることを主張していた。
著者
フィットレル アーロン
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.9-38, 2020-03-31

本稿では、二重文脈歌の翻訳方法について検討し、翻訳の改善に向けて、翻訳方法を提案してみた。古典文学、特に和歌を外国語に翻訳する際、掛詞という、日本語の語彙と構造と深く関わる修辞法を目標言語にも伝えるのは極めて難しいことである。掛詞の一方である景物ともう一方である人事との間に、音声以外の共通点が見出しがたい場合、目標言語への翻訳または反映がさらに困難で、先行翻訳において様々な工夫がなされてきてはいるものの、問題が解決されているとは言い難い。そもそも、掛詞は種類も、一首の和歌の中での数も多く、縁語とともに出てくる例も多い。また、景物と人事の関係もさまざまであり、ときには音の繫がり以外の関連が見つけにくい例もあるが、景物と人事の性質が類似する例も多い。稿者は和歌のハンガリー語訳も行っているため、本稿ではハンガリー語訳を中心に、翻訳または反映が最も困難であると考えられる、多くの掛詞と縁語を使用した二重文脈歌の西洋の言語への翻訳方法について考察した。最初に、掛詞の本質について、同音異義の修辞法に関する主な先行研究を参考にして確認した。次に、外国語訳が複数ある『古今和歌集』と『新古今和歌集』、『百人一首』の二重文脈歌を中心に、英訳と独訳の先行例をとおして、二重文脈歌の現在までの翻訳方法を検討し、11 の翻訳方法を識別し、例をあげて分析し、その問題点を示した。最後に、掛詞の本質をより正確に伝達する翻訳方法を提案し、翻訳実践を行った。上記の検討と合わせて、二重文脈歌の特質を最も正確に伝える翻訳方法は、景物の文脈を表面に出し、人事の文脈を潜在化して、言葉の選択または擬人法によって暗示する、寓喩的な方法であると結論付けた。
著者
劉 宇婷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.57, pp.221-242, 2018-03-30

太宰にまつわる「伝説」の一つに桜桃忌がある。これは太宰治の命日で、俳句の「夏」の季語にもなっている。発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者の中には、佐藤春夫、井伏鱒二、亀井勝一郎、檀一雄、野原一夫などがいた。そしていつの間にか、桜桃忌は全国から十代、二十代の若者などが数百人も集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。多い時期に千人以上も訪れたという。まさに"季節の風物詩"の一つになっている。 本研究は、主に文化としての「桜桃忌」に焦点をあて、新聞の桜桃忌の語り方と太宰の「有名性」の関係について論じた。計量テキスト分析ソフト「KHCoder」を使った内容分析からわかるように、新聞が大いに語ったのは、「命日」に「禅林寺」で「行う」桜桃忌、心中と関連付けられる桜桃忌、大勢の女性「ファン」が訪れる桜桃忌である。このような新聞の語りをつうじて、魅力的な太宰治と桜桃忌のことが伝わり、情報が広がった。これが要因となって、桜桃忌の参加者はますます増えていった。そして、逆に新聞メディアの桜桃忌報道を促すに至った。そのような「社会的出来事―ニュース―社会レベルでの認知・態度・行動―社会的出来事」の循環の中で、太宰治の「有名性」が構築されてきたと思われる。一方、桂英澄の『桜桃忌の三十三年』、雑誌の桜桃忌関連記事との比較の中で、カリスマに群がる「ファン」、桜桃忌参加者のもうひとつの顔、及び「桜桃忌」という表象が新聞メディアではあるステレオタイプで表現されてきたことがわかった。新聞がこのように物語を作ったのは、1960年代前後から太宰治は文学史に一定の地位を占める存在となり、「合意の空間」に入ったためである。この空間における新聞ジャーナリストの役割は、作家の神話性を支持し、称賛することにある。そして、作家の神話性を揺がす言説は、新聞ジャーナリストにより、公的な場から排除されるのである。
著者
落合 恵美子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.55, pp.85-103, 2017-05-31

「アジア」のプレゼンスが急速に拡大している現代のグローバルな文脈の中で「日本」をいかに再定義するか、とりわけ「日本」と「アジア」との関係をいかに語り直すかが、日本研究がいま直面している最大の課題であろう。 韓国の歴史家イム・ジヒョンによれば、日本で定着している「西洋史」「東洋史」「日本史」という三分法は、「自分自身にとってのオリエントをアジアの隣人たちから創り出すこと」により創られた。この場合、「日本」は「西洋」に近いものと定義される。他方、同時代の「汎アジア主義」では、「日本」は「東洋」の盟主である。「東洋」においては「西洋」を代表し、「西洋」に対しては「東洋」を代表してみせる――「東洋」と「西洋」の狭間に立つ日本のこの独特の位置取りは、戦前と戦後を通じて連続してきた。 しかし、アジアの経済成長が現実世界を変えた今、世界認識も描き換えられつつある。その方向は流動的ではあるが、それでもいくつかの方向は見えている。戦前のような「日本によって代表される「アジア文明」」はありえず、中国が「アジア」の中心に座るであろうこと、その場合、中国は「東洋の中の西洋」を演じるのではなく「自己オリエンタリズム」とセットになった「反西洋的オクシデンタリズム」の立場をとるであろうこと、日本は「中国によって代表される「アジア文明」」の末席を汚すことを潔しとせず、さりとて「東洋の中の西洋」という立場はもはや有り得ず、位置取りに苦労するであろうことなどである。 「日本」と「アジア」の再定義は同時に行わねばならないとすると、日本研究とアジア研究の結合が必要である。そのような問題意識から京都大学で実施したプロジェクトからは、極めて対照的な二つの「アジア」の存在と、その狭間に立つ日本が見えてきた。 日本だけに視野を限っていては日本研究はできない。「開かれた多元的なアジア」研究と結合した日本研究を再構築しなくてはならない。
著者
マスキオ パオラ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.81-106, 2018-11-30

『寓骨牌』(天明七[一七八七]年刊)は、その時期に江戸で大流行していた「めくりカルタ」(ポルトガル由来のトランプカードで行われるカードゲーム)を擬人化して登場させる山東京伝の黄表紙である。従来の研究では、珍しい題材の擬人者の一つとして挙げられてきたが、特に意義があるとはされてこなかった。しかし、当時の読者が持っていためくりカルタの知識を意識しながら本作を読むことで、その構成や娯楽性を理解することができる。 本稿ではまず、めくりカルタの基礎知識や遊び方を紹介し、『寓骨牌』でそれぞれの札がどのように擬人化されているかを分析した。『寓骨牌』の擬人化の手法はゲームにおける役割を反映しているといえる。例えば、クラブ・スペード・ダイヤ・ハートに当たるハウ(青札)・イス(赤札)・オウル・コップの四種一~十二の計四十八枚のうち、最大の点数が付く青札の六は、姫君の六大御前として擬人化されている。実際のゲームで点数の高い札が狙われるように、『寓骨牌』の物語で六大御前はさまざまな登場人物に思いを寄せられる。 次に、作品の趣向を考察した。「めくり」のルールを意識しながら物語を読んだ結果、登場人物の関係もゲームを反映していることがわかる。例えば、赤蔵がお七と桐三郎を追いかけている時に、鬼と幽霊が突然現れて難儀を救う場面は、ある遊戯者が赤札の七で青札の七を取ろうとしている様子に、ジョーカーのような役割を果たす鬼札や幽霊札が突然現れるゲームの様子に見立てられている。よって、『寓骨牌』は「カルタ見立て」の趣向を持っているといえる。 このような解釈によって、山東京伝の擬人物黄表紙における『寓骨牌』の位置付けを改めて考察することが必要になる。京伝が『御存商売物』(天明二年)で人気作者となってから素材を変えて同じパターンで天明期に執筆した擬人物黄表紙と比較して、『寓骨牌』では擬人化された札にお家騒動に見立てためくりの勝負を演じさせることで、「お家騒動の擬人物」の趣向をさらに複雑にし、凝りに凝った作品を生み出した。この後、寛政の改革以降の大衆化した京伝の黄表紙には、そのように細かく編まれた擬人物は見出されない。そのため、『寓骨牌』は京伝の擬人物黄表紙の到達点と見なせるのではないか。
著者
神戸 航介
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.7-31, 2016-03-25

本稿は税収が豊かな国のことを指す「熟国」と、税収が不安定で統治が困難な国を意味する「亡国」の語に注目し、熟国・亡国概念の制度的構造について検討を加え、摂関期の地方支配のあり方の一端を明らかにすることを目指した。
著者
カウテルト ウィーベ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.7-35, 2019-10-10

日本から東インド会社を通じて輸入された高価な陶芸・染織品・漆工芸品などの珍品は、17世紀後半に北西ヨーロッパ貴族たちの手に渡り、とりわけ日本の着物は大人気を博した。また、漆工芸においては豪華に装飾された蒔絵簞笥が驚くほどの高値で販売された。これらの珍品にみられる日本美はウィリアム・テンプル(一六二八~一六九九)によって「シャラワジ」(sharawadgi)として紹介され、「シャラワジ」はイギリス風景式庭園の発展のきっかけになる言葉になった。本論では、この日本美の伝播経路と、江戸期の「洒落」と「味」の美学、現在の「しゃれ味」とのかかわりに迫ってみた。鍵なる人物は、オランダ人の文人ホイヘンス(一五九六~一六八七)と商人ホーヘンフック(?~一六七五)であった。これまで300有余年、謎の言葉であった「シャラワジ」を、当時のエッセイ、貴族の手紙や日本工芸品から解明し、江戸時代の工芸家の「しゃら味」の美学であると結論付けようとするものである。
著者
小林 善帆
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.51-89, 2022-03-31

本稿は、明治初中期、いけ花、茶の湯が遊芸として捉えられながらも、礼儀作法とともに女子教育として高等女学校に、条件付きで取り入れることを許容された過程を考察するものである。手順としてまず教育法令の変遷を遊芸との関係から確認し、次に跡見学校、私塾に関する教育・学校史資料の再考、続いて欧米人による記録類や、欧米で開催された万国博覧会における紹介内容をもとにして、検討を加えた。 教育法令の変遷と遊芸との関係を見ると、1872年「学制」頒布においていけ花、茶の湯は遊芸と捉えられ、教育にとって有害なものであり不要とされた。このことから茶の湯研究が、1875年跡見学校で学科目として取り入れた、としていることは考え難い。いっぽう、1878年のパリ万国博覧会、1893年のシカゴ万国博覧会において、いけ花や茶の湯が女子教育として位置づけられた。それは1879年のクララ・ホイットニーの日記や1878年のイザベラ・バードの紀行からも窺えることであった。 また改正教育令が公布された1880年、「女大学」に初めていけ花、茶の湯が、余力があれば学ぶべき「遊芸」として取り上げられた。さらに1882年、官立初の女子中等教育機関の学科目「礼節」のなかに取り入れられたことは、いけ花、茶の湯が富国強兵という国策の女性役割の一端を担うことになったといえ、ここで女子の教育として認められたと考える。 そのいっぽうで1899年、高等女学校令の公布においていけ花、茶の湯は学科目及びその細目にも入れられなかった。しかし同年、福沢諭吉は『新女大学』で、いけ花や茶の湯は遊芸であっても、学問とともに女性が取り入れるものと説いた。 そして1903年、高等女学校においていけ花、茶の湯は必要な場合に限り、正科時間外に教授するのは差し支えない、との通牒が出された。遊芸を学校教育で課外といえども教えてよいかの是非が問われ、「必要な場合に限り」「正科時間外」という条件付きで是となったのであった。
著者
権 東祐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.7-32, 2017-10-20

本稿は、富士山が信仰の場とされながらも、各々異なる祭神が形成され、変貌してきたことを〈神話解釈史〉という視座から考察することを目的とする。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.173-188, 2021-03-31

本稿は、口述筆記創作における〈男性作家―女性筆記者〉というジェンダー構成に着目し、近代作家を取り巻くケア労働の問題の一端を明らかにするものである。公的領域における自律した主体概念と密接に絡みつく形で周縁化されるケア労働の問題は、作家の有名性の陰でシャドウワークとして扱われてきた女性筆記者の不可視化の構造とも通底している。 本稿では、まず作家という職業において公的領域と私的領域との境界確定がいかにおこなわれているのかを確認し、特に女性筆記者の営為が評価の対象から取りこぼされ、搾取される構造をケアの論理と重ねて整理した。そのうえで、実際に谷崎潤一郎の筆記者を務めた伊吹和子(1929 ~ 2015 年)の回想記の記述を導きに、口述者と筆記者との交渉の実態や口述筆記の現場に生じる摩擦や軋轢のありようを具体的事例として検討した。特に、伊吹が筆記者としての自身のスタンスを示すなかで繰り返す「〈書く機械〉になる」という自己認識に焦点を当て、自らの立場を非人格化した無機質なライティング・マシーンに重ね合わせる一見受動的な自称が、女性が労働する身体として主体化する際の戦略的な構えであると同時に、 筆記者の役割を矮小化する評価構造への抵抗にも繋がることを指摘した。 また、〈書く機械〉として伊吹が口述筆記の現場に参画することが、谷崎が〈小説家になる〉 という生成変化と表裏一体に立ち上がるものであることを考察した。これは、支配や抑圧といった紋切り型の言葉で表象されざるをえなかった口述者と筆記者との固定化した主従関係に風穴を開け、ケアの実践に根ざした関係性のなかにその営みを位置づけるうえで有効な視角となる。伊吹の言葉から谷崎との相互依存性を読み取ることで、口述筆記創作の現場を口述者と筆記者双方におけるアイデンティティの形成と承認の空間として捉えることが可能になると結論づけた。
著者
伊藤 謙 宇都宮 聡 小原 正顕 塚腰 実 渡辺 克典 福田 舞子 廣川 和花 髙橋 京子 上田 貴洋 橋爪 節也 江口 太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = Nihon Kenkyū (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.157-167, 2015-03-31

日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
著者
スムットニー 祐美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.35-67, 2021-03-31

本論文は、16 世紀末に来日したイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが作成した茶の湯関連規則が、千利休によって形成されたわび茶の影響を受けていた可能性について、ローマイエズス会文書館所蔵の史料を用いて検証するものである。 ヴァリニャーノは日本視察を通して意図の異なる2 つの茶の湯関連規則を作成し、修道院内に茶の湯による接客態勢を整えた。その規則とは、1579 年から1582 年までの第1 次視察中、豊後(大分)において作成された『日本の習俗と気質に関する注意と助言』(Advertimentos e avisos acerca dos costumes e catangues de Jappão 以下、『日本イエズス会士礼法指針』と称す)と、第2次日本視察を終え、1592 年に滞在先のマカオにおいて作成した「日本管区規則」である。本稿では主に、後者に収録されている「茶の湯者規則」(Regras para o Chanoyuxa)と「客のもてなし方規則」(Regras do que tem comta de agasalhar os hospedes)を扱い、そこに示されている茶の湯規則と利休の茶の湯の心得との共通点を明らかにする。 本稿では『日本イエズス会士礼法指針』から、ヴァリニャーノの指示によって修道院で行われた茶の湯の準備態勢について検証したのち、「茶の湯者規則」「客のもてなし方規則」との相違点を浮き彫りにする。さらに、後者に示されている精神性と、『南方録』の「覚書」にみる利休の茶の湯の心得との共通性を検証する。以上の研究で導き出された結果から、「茶の湯者規則」と「客のもてなし方規則」には、わび茶の影響が及んでいたことが明らかとなった。
著者
浜野 真由美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.7-43, 2020-11-30

奈良県立美術館に所蔵される「架鷹図屛風」は、曽我直庵(生没年不詳、桃山時代)の架鷹図に和歌賛が認められた紙本著色押絵貼六曲一双屛風である。本作は、大正7 年(1918)刊行の『国華』339 号で『国華』主幹の瀧精一(1873~1945)氏により「島津公爵家所蔵の直庵の鷹図」として紹介されており、数ある鷹図の中でも直庵の精緻な画技が際立つ作である。しかし、本作は、これまで直庵の画蹟として取り上げられることはあっても、宮廷貴族による寄合書として考究されることはなかった。当該期を代表する能書である近衛信尹(1565~1614)の関与が推定されながら、和歌賛の筆者も定まらず、制作の時期やその背景も不明のままとなっていたのである。本作の成立事情に着目することは、近世初期の宮廷における文芸活動、とりわけ近衛信尹の書作を解明するきっかけにもなるだろう。したがって、本稿では宮廷貴族の寄合書という新たな視点から、本作の成立事情を明らかにすることを目標とした。まず、和歌賛の書風と花押から筆者6 名を確定し、慶長13 年(1608)から同19 年の間に制作された作であることを導き出した。さらに、本作の鷹繋ぎの作法が近衛家の家人であった下毛野氏の鷹術に基づくこと、近衛家に伝来する近衛信尹筆「鷹画賛」が本作に類似する構成であること、そして近衛家と島津家との緊密な関係などを勘案した結果、本作は島津家が発注し、近衛信尹が斡旋した作であるとの結論に至った。 また、上述した制作時期は、徳川幕府によって公家への統制が強化された時期に相当する。放鷹禁止に始まる公家統制政策は、幕府と朝廷との間に軋轢を生み、後陽成天皇(1571~1617)を譲位へと至らしめる。そうした最中、放鷹を主題とする屛風が、放鷹権を否定された公家によってプロデュースされ、島津家へと渡っていたという事実は、宮廷文芸の在り方が時代の動向とも無関係ではなかったことを想像させる。
著者
西田 彰一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.139-167, 2018-11-30

本稿では筧克彥の思想がどのように広がったのかについての研究の一環として、「誓の御柱」という記念碑を取り上げる。「誓の御柱」は、一九二一年に当時の滋賀県警察部長であり、筧克彥の教え子であった水上七郎の手によって発案され、一九二六年に滋賀県の琵琶湖内の小島である多景島に最初の一基が建設された。水上が「誓の御柱」を建設したのは、デモクラシーの勃興や、社会主義の台頭など第一次世界大戦後の急激な社会変動に対応し、彼の恩師であった筧克彥の思想を具現化するためであった。 水上の活動は、国民一人一人に国家にふさわしい「自覚」を促すものであった。この水上の提唱によって作り出された記念碑が、国民精神の具現化であり、同時に筧の思想の可視化である「誓の御柱」なのである。この記念碑の建設運動は、滋賀県に建てられたことを皮切りに、水上が病死した後も彼の友人であった二荒芳徳や渡邊八郎、そして筧克彥らが結成した大日本彌榮會に継承され、他の地域でもつくられるようになった。こうした大日本彌榮会の活動は、特に秋田の伊東晃璋の事例に明らかなように、宗教的情熱に基づいて地域を良くしたいという社会教育に取り組む地域の教育者を巻き込む形で発展していったのである。 この「誓の御柱」建設運動の真価は、明治天皇が王政復古の際に神々に誓った五箇条の御誓文を、国民が繰り返し唱えるべき標語として読み替え、それを象徴する国民の記念碑を建てようと運動を展開したことであろう。筧や水上たちは、国民皆が標語としての御誓文の精神に則り、建設に参加することで、一人一人に国家の構成者としての「自覚」を持たせ、秩序に基づいた形で自らの精神を高めることを求めたのである。そしてこの大義名分があったからこそ、「誓の御柱」建設運動は地域の人々の精神的教化の素材として伊東たち地域で社会教育を主導する人々にも受け入れられ、日本各地に建設されるに至ったのである。
著者
鈴木 洋仁
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.54, pp.79-104, 2017-01-31

本稿は、「平成」改元にあたって、小渕恵三官房長官(当時)が行った記者会見を分析することによって、大日本帝国憲法(1889)と日本国憲法(1947)における天皇の位置づけの相違を分析するものである。具体的には、改元を天皇による「時間支配」の究極の形式と定義したうえで、「平成」改元における、(1)政治性、(2)公共性、(3)メディア性という3点の違いを抽出する。なぜなら、日本国憲法においても、大日本帝国憲法と同様、「一世一元」の原則が法律で定められているからである。