- 著者
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戸塚 隆子
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.23, pp.105-122, 2001-03
石川啄木の第一歌集『あこがれ』の序詩「沈める鐘」には<永遠の生命>との一体感と神の加護を得て詩人の王座を築こうとする想いが描かれている。この<永遠の生命>都は主に明治・大正期の総合雑誌「太陽」を舞台に繰り広げられた高山樗牛と姉崎嘲風のドイツ思想・文化受容と日本文明批評の論説から影響を受けた詩語と考えられる。先行研究では、啄木の評論がいかに高山・姉崎の影響を受けているか、または、『あこがれ』は高山と姉崎の論説を機に啄木が執筆・中断した評論「ワグネルの思想」の詩作品かという指摘があるが、それだけにとどまらないのではないか。詩表現に即して読んでいくと、『あこがれ』の世界と高山・姉崎の主張は想像以上に深く共鳴しあっていると考えられるのである。例えば、「われなりき」などに顕著な「今」=「瞬間」に「永遠」を感受する時間認識がある。これは姉崎嘲風の「清見潟の除夜」の時間認識と重なる。また、詩「閑古鳥」に表されたこの世の汚濁と戦う勇士の姿がある。この戦闘意識も姉崎の「戦へ、大に戦へ」に触発されたと考えられる。ここで注意しておきたいのは詩の優位性と詩人の使命の自覚が詩中に認められることであるが、芸術至上主義的な発想もすでに高山樗牛の「美的生活を論ず」や姉崎嘲風の「久遠の女性」に著されている。姉崎の「民族の運命と詩人の夢と」は国民の精神に関与しその運命を導くものとして「詩人」を捉えているが、啄木は予言者としての詩人の存在をここから学んだのではないだろうか。以上を踏まえ、再び「永遠の生命」に戻りたい。高山樗牛・姉崎嘲風の論説全体から考えると、この言葉は先行研究で理解されているように宇宙の大生命との一体化を示すスピリチュアリズムだけを意味しない。高山・姉崎は真の永世は<精神と精神の交通>であることを説いているのだ。つまり、現世と理想界、天井と地上という構図的な様相のみを指しているのではなく、精神の継承を説いている点に注意すべきである。そして、この主張は啄木詩においては「閑古鳥」「マカロフ提督追悼の詩」に顕著に体現されている。しかし、堀合節子との恋愛の成就、上京の挫折を機に啄木の「永遠の生命」との一体感は薄れていく。「二つの影」には永遠と切り離された「今」だけが描写されている。また、「白鵠」ではかつての自分を幼い夢物語と自虐的に振り返る啄木が居る。では、「永遠の生命」は完全に消失したのか。いや、そうではない。後の短歌評論「歌のいろいろ」には確かに「永遠」を拒絶する啄木が居る。だが、『一握の砂』の砂山の歌十首には「有限」を選んだ者が有限を認識するが故に「短歌」という形を選び、それは<精神の交通>を果たしつつ有限の生を永遠化すると考える啄木が読み取れる。「永遠の生命」は意味を転化させながら啄木の生涯を地下水脈の様に流れていたのではなかったか。