著者
吉田 孝次郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.9, pp.69-103, 1993-09-30

祇園会の山鉾に使用する工芸品は、質、量、品種に於いて世界の至宝といっても過言でないものを現在も使用しているが、特に懸装染織品は、近世染色美術史を痛感し得る内容をそなえ、中国大陸文化圏をはじめ、印度、中近東、大航海時代以降の欧州の染織品を数多く有している。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-64, 2009-03

本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.44, pp.77-130, 2011-10-23

茶の湯の歴史について、現代の流派や家元のあり方をイメージしながら過去を論じていることはないだろうか。近世中期に生まれた家元という存在は、近代における紆余曲折をへて、現在の姿に至っているのである。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.38, pp.315-348, 2008-09-30

和辻哲郎(一八八九―一九六〇)の『ニイチェ研究』(一九一三)は、彼の哲学者としての出発点をなす書物であり、同時に、日本における初めてのまとまったフリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Willhelm Nietzsche, 1844-1900)の研究書として知られている。また、そこに示された考え方は、その後の彼の歩みに、かなりの意味をもつものとなった。
著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。
著者
今谷 明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.201-214, 2007-05

アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。 このための調査旅行として、二〇〇六年八~十月の期間、アメリカのハーバード大学、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、およびオランダのライデン大学を訪問し、ハーバード大学歴史学部長ゴードン氏以下、幾人かの日本史研究者と面談し、第一線の研究状況を直接に聴取することができた。なお、アメリカについては、日文研バクスター教授の研究を参考とし、フランスは総研大院生ハイエク君の調査を、ドイツについては日文研リュッターマン助教授の助力を仰いだことを付け加えておく。
著者
外川 昌彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.39-94, 2020-03

本稿は、近代日本を代表する美術家・岡倉天心のアジア美術史に関する認識の転換を、1902 年のインド滞在中のベンガル知識人との多様な思想的交流の経緯を通して検証する。岡倉にとってインド美術史の探求は、ハーバート・スペンサーの社会進化論やヘーゲルの発展段階論に基づく芸術の単系的な発展モデルを克服し、アジア諸美術の「自然な成長」やその相互交渉を捉える視点を与えるものとなっていた。本稿では、岡倉がギリシア美術の影響を離れたインド美術の内発的発展という新たな視点を獲得する鍵となる人物が、近代インドを代表するヒンドゥー教改革運動家ヴィヴェーカーナンダであると考え、ヴィヴェーカーナンダとの交流を通して岡倉が、インドの美術や歴史に関わる新たな認識を深めてゆく経緯を、日本とインドに残された当時の資料を対比して検証する。本稿の構成は、以下の通りである。第一章は、日本の仏教美術とギリシア美術の類似性という美術史上の争点についての岡倉の視点の変遷を検証し、本稿の課題を位置づける。第二章は、岡倉天心の生涯を検証するこれまでの伝記的研究を整理し、本稿の課題の背景を明らかにする。第三章は、岡倉のアジア美術史観の変遷を、社会進化論やヘーゲル美学の影響を通して検証し、インド訪問後のその視点の変化を検証する。第四章は、岡倉とヴィヴェーカーナンダの相互の影響関係を検証する手掛かりとして、両者の著作に見られる共鳴関係を検証する。第五章は、インド美術に関心を深めたヴィヴェーカーナンダの、当時のインド美術のギリシア起源説への批判的なまなざしを検証する。第六章は、両者の思想的な影響関係を、仏教の伝播や社会変革の思想としての仏教などの論点を対比して検証する。第七章は、インド美術の独自の発展を捉えようとする両者の問題関心の共有を検証し、その影響関係の広がりを跡付けて、まとめとする。
著者
馮 天瑜 呉 咏梅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.159-190, 2005-10

古漢語「経済」の元々の意味は、「経世済民」、「経邦済国」であり、「政治」に近い。日本は古代より「経世済民」の意義で「経済」を使ってきた。近世になって、日本では実学が勃興し、その経済論は国家の経済と人民の生活に重点が置かれた。近代になると、さらに「経済」という言葉をもって英語の術語Economyを対訳する。「経済」の意味は国民生産、消費、交換、分配の総和に転じ、倹約の意味も兼ねる。しかし、近代の中国人学者は、「経済」という日本初の訳語に対してあまり賛同しないようで、Economyの訳語として「富国策、富国学、計学、生計学、平準学、理財学」などの漢語を対応させていた。清末民国初期、日本の経済学論著(とりわけ教科書)が広く中国に伝わったことや、孫文の提唱により、「経済」という術語が中国で通用するようになった。しかし、「経済」の新義は「経世済民」の古典義とかけ離れているばかりでなく、語形から推計することもできないから、漢語熟語の構成根拠を失った。にもかかわらず、「経済」が示した概念の変遷は、汎政治的汎道徳的な観念が中国においても日本においても縮小したことを表している。
著者
谷川 建司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.105-115, 2017-05

1990年代に東アジアや東南アジアにおいて日本のポピュラー・カルチャーが極めて高い人気を獲得し、パリで第一回「ジャパン・エキスポ」が開催された2000年頃には世の中全体の日本のポピュラー・カルチャーへの視線が熱くなり始めた。一方、1990年代後半からこれを研究対象とする動きが始まり、2000年代に入ってから本格的論考が発表されるようになった。「ポピュラー・カルチャー研究」に含まれるべきジャンルについての捉え方は様々であり、厳密な意味での定義は共有されていないが、様々な学問分野の研究者が集まって一定期間の共同研究を行う形や、単発のワークショップやシンポジウムを開催して議論していく形での日本のポピュラー・カルチャー研究の枠組みも、2000年代に入ってから活発に行われるようになった。個別の研究成果に関しては、トピックによりその研究の蓄積の多寡にはかなり差がある。日文研で2003年から2006年にかけて開催された共同研究会「コマーシャル映像にみる物質文化と情報文化」(代表:山田奨治)は、終了から10年目の2016年にシンポジウムを開催し、自己検証した点で重要な試みだった。2014年度の日文研の共同研究は、全部で16の研究課題のうち実に5つが「ポピュラー・カルチャー」に関するものであり、この分野の研究への関心の高まりと同時に、日文研がその中心地として機能し始めていることを示していると言える。今後の日本のポピュラー・カルチャー研究に必要な点を挙げるならば、(1)作品が生み出され、世の中に流通して受容されていくプロセス全体に目配せし、その様々な場面で関わっている人たちにフォーカスした論考を積み重ねていく必要性、(2)産業論的なアプローチ、表現の自由と規制の問題、国家戦略との関わり、など違った角度からポピュラー・カルチャーをとらえる必要性、そして、(3)個々の領域のポピュラー・カルチャー研究を志向する研究者が共通して利用できる一次資料のデータベース化の促進、が指摘できる。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.377-391, 2009-11

福沢諭吉ら明治啓蒙思想家たちは、明治維新を「四民平等」を実現した革命のように論じたが、黒船ショックが引き起こした倒幕運動は、開国か、尊皇攘夷かが争われ、紆余曲折を経て、尊皇開国に落ち着いたもので、その過程で政治の自由や四民平等がスローガンにあがったことはない。すでに、江戸時代のうちに、いのちの自由・平等思想がひろがり、身分制度も金の力でグズグズになっていたため、デモクラシーは至極当然のことのように受けとめられたのだった。明治新政府は、一八三七年一月に徴兵令の告諭を発し、国民の自由・平等を認め、それと引きかえに「国家の災害を防ぐ」ために、西洋でいう「血税」として、二十歳に達した男子に三年の兵役義務を課した。「国民皆兵」制度は、国民各自が自分の権力の一部を国家に提供し、秩序を維持し、各人の安全の保証を得るという自然権思想に立つものだが、明治啓蒙家たちの思想においては、自由、平等が未分化で、自然権思想や社会契約説の定着が見られないことが、すでに指摘されている。しかし、その理由については、これまで恣意的な分析しか行われてこなかった。 その理由は、ヨーロッパやアメリカにおけり各種の「自由・平等」思想をひとくくりにして、天賦人権論として受けとめたこと、それらのリセプターとして、江戸時代に公認されていた朱子学の「天理」や、ひろく流布していた天道思想が働いたことに求められる。そして、江戸時代の通念では、いのちの自由と平等とがセットになっていたため、天賦人権論者たちは、あらためて自由と平等の関係について、それぞれを社会や国家と関係づけながら考えようとしなかったのである。それゆえ、個々人の諸権利についても、いのちにおける、社会における、国家におけるそれが切り分けられないまま、個人、社会、 国家の相互の関係についての考え方が、時どきの状況により、また論者の立場によって、たえず変化することになった。ここでは、まず「自由」「平等」が、どのように受け止められたのかについて検討し、そのうえで個々人の社会論、国家論を考えてみたい。外来の概念とその「リセプター」となった伝統概念とをあわせて考察すること、また、「自由と平等」のように、複数の概念を組み合わせて、個々人の概念形成を解明することは、社会的に流通する概念組織(conceptural system or network)の形成を解明するために有効かつ不可欠な方法である。
著者
青木 孝夫
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.8, pp.p55-70, 1993-03

近松門左衛門の『曽根崎心中』、とりわけその<道行>の場面の上演に即して、独自の他界観を検討した。それに拠れば、心中の道行には二つの位相があり、一つは相対死(あいたいじに)に到る過程、今一つは霊魂の結婚に到る死後の旅路である。 『曽根崎心中』の道行では、この二つの位相が言わば重ねられて上演される。死に極まる恋愛は、身体の死に到る過程がそのまま霊魂の一体化の過程として描写または具体化されている。「恋の手本」は死の門を通過して、「一つ蓮」と二人一緒に成仏することによって成就する。蓮の花咲く来世は単なる死者の国ではなく、仏教的に了解された浄土である。かく恋愛の理想と成仏とが、心中という情死を通して結びつき一体的に実現される。 その心中は、元来遊女の愛の誓いであるが、その真心を示すのについには命を懸ける点で、この観念は「一所二懸レケル命ヲ」武士の主従の<契り>と融合している。この<契り>は前世からの定めの約束であり、心中の道行は、この約束の成就の過程にして来世への往生の過程である。この時、情死は死に行く二人の恋心が誠であることの明かしである。
著者
尹 芷汐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.137-149, 2016-03

本論は、1950年代の「内幕もの」との相関性において松本清張のノン・フィクション作品集『日本の黒い霧』を考察したものである。松本清張は当作品集の中で、下山事件や松川事件など、占領期に起きた一連の「怪奇事件」を推理し、それらの事件がすべてGHQの「謀略」に関わっていると説明したが、この「謀略論」は1960年に発表されると大きな反響を呼び、「黒い霧」も流行語となった。実は、『日本の黒い霧』の事件の表象は同時代において決して孤立した存在ではなかった。1950年代、様々な社会的事件の「内側」を知りたいという時代の気運があり、その中で「内幕もの」というジャンルのルポルタージュが総合雑誌、週刊誌の中で急速に増加していった。「内幕もの」は、権力層の「内側」の人間が語り手となり、歴史や政治上の秘密を暴露するのが常套である。しかし、そうした「内幕もの」は、「真実の暴露」に見せかけながら、権力側の世論操作の道具として利用されることも多い。例えば「内幕もの」の第一人者で、GHQの「内部」に潜り込んだジョン・ガンサーは、『マッカーサーの謎』を執筆してGHQの秘密を「暴露」している。しかし、その「暴露」は明らかにGHQとマッカーシズムを讃えるために意図されたものである。 松本清張の『日本の黒い霧』は、直接ガンサーの「内幕もの」に反論しながら、「内側」から発された「秘密」の虚偽性を明らかにした。松本清張は、「内側」に入り込んで新たな秘密情報を探るのではなく、「外側」に立つ「一市民」として新聞報道や既存の資料の読み込みを通して真実を見出そうとする手法で、『日本の黒い霧』を書いた。『日本の黒い霧』は、歴史がいかに「作り物」であるかを教え、「公式的見解」の精読、いわゆる「真実」の不自然さの発見を示唆する書物として読まれるべきである。
著者
下郡 剛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.46, pp.263-275, 2012-09-28

院=上皇・法王の意志を奉者一名が奉って作成される院宣について、古文書学は、現存文書を元に様式論を生み出し、院宣は院司が院の意向を奉じて発給する文書とされてきた。しかし、日記の中には、意志伝達が果たされた時点で、文書としての機能を喪失してしまう、一回性の高い連絡に使用された文書が多く記載されている。それでは、現存文書に基づき成立した院宣様式論は、本共同研究の対象たる日記からとらえなおすと、いかなる姿を見いだせるのか、を本稿で検討した。
著者
落合 恵美子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.p89-100, 1995-06

昨年、「近代家族」に関する本が三冊、社会学者(山田昌弘氏、上野千鶴子氏及び落合)により出版されたのを受けて、本稿ではこれらの本、及び立命館大学と京都橘女子大学にて行われたシンポジウムによい近代家族論の現状をめぐって交わされた議論を振りかえる。今号の(1)では「近代家族」の定義論を扱い、次号に掲載予定の(2)では「日本の家は『近代家族』であった/ある」という仮説の当否を論じる。
著者
戸塚 隆子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.105-122, 2001-03

石川啄木の第一歌集『あこがれ』の序詩「沈める鐘」には<永遠の生命>との一体感と神の加護を得て詩人の王座を築こうとする想いが描かれている。この<永遠の生命>都は主に明治・大正期の総合雑誌「太陽」を舞台に繰り広げられた高山樗牛と姉崎嘲風のドイツ思想・文化受容と日本文明批評の論説から影響を受けた詩語と考えられる。先行研究では、啄木の評論がいかに高山・姉崎の影響を受けているか、または、『あこがれ』は高山と姉崎の論説を機に啄木が執筆・中断した評論「ワグネルの思想」の詩作品かという指摘があるが、それだけにとどまらないのではないか。詩表現に即して読んでいくと、『あこがれ』の世界と高山・姉崎の主張は想像以上に深く共鳴しあっていると考えられるのである。例えば、「われなりき」などに顕著な「今」=「瞬間」に「永遠」を感受する時間認識がある。これは姉崎嘲風の「清見潟の除夜」の時間認識と重なる。また、詩「閑古鳥」に表されたこの世の汚濁と戦う勇士の姿がある。この戦闘意識も姉崎の「戦へ、大に戦へ」に触発されたと考えられる。ここで注意しておきたいのは詩の優位性と詩人の使命の自覚が詩中に認められることであるが、芸術至上主義的な発想もすでに高山樗牛の「美的生活を論ず」や姉崎嘲風の「久遠の女性」に著されている。姉崎の「民族の運命と詩人の夢と」は国民の精神に関与しその運命を導くものとして「詩人」を捉えているが、啄木は予言者としての詩人の存在をここから学んだのではないだろうか。以上を踏まえ、再び「永遠の生命」に戻りたい。高山樗牛・姉崎嘲風の論説全体から考えると、この言葉は先行研究で理解されているように宇宙の大生命との一体化を示すスピリチュアリズムだけを意味しない。高山・姉崎は真の永世は<精神と精神の交通>であることを説いているのだ。つまり、現世と理想界、天井と地上という構図的な様相のみを指しているのではなく、精神の継承を説いている点に注意すべきである。そして、この主張は啄木詩においては「閑古鳥」「マカロフ提督追悼の詩」に顕著に体現されている。しかし、堀合節子との恋愛の成就、上京の挫折を機に啄木の「永遠の生命」との一体感は薄れていく。「二つの影」には永遠と切り離された「今」だけが描写されている。また、「白鵠」ではかつての自分を幼い夢物語と自虐的に振り返る啄木が居る。では、「永遠の生命」は完全に消失したのか。いや、そうではない。後の短歌評論「歌のいろいろ」には確かに「永遠」を拒絶する啄木が居る。だが、『一握の砂』の砂山の歌十首には「有限」を選んだ者が有限を認識するが故に「短歌」という形を選び、それは<精神の交通>を果たしつつ有限の生を永遠化すると考える啄木が読み取れる。「永遠の生命」は意味を転化させながら啄木の生涯を地下水脈の様に流れていたのではなかったか。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.77-130, 2011-10-23

茶の湯の歴史について、現代の流派や家元のあり方をイメージしながら過去を論じていることはないだろうか。近世中期に生まれた家元という存在は、近代における紆余曲折をへて、現在の姿に至っているのである。
著者
廣田 浩治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.11-33, 2013-09

「政基公旅引付」は、戦国期に家領和泉国日根荘に在住した前関白九条政基の日記である。当該期の村落研究に頻繁に使用される史料であるが、ここでは公家日記としての「旅引付」の性格を考察した。「旅引付」は在荘直務時の自筆本の日記で、政基は在荘中に入手した文書(反故紙)の紙背を日記に再利用していない。政基は在荘した「旅所」を離れず、「旅引付」の記事の多くは伝聞情報であるが、政基の家僕や村の報告や情報に基づく正確な記事である。「旅引付」には「後聞」として後日知ったことを記した箇所があり、政基は「後聞」のことも含めて情報を整理して何日分かずつまとめて書いたと考えられる。政基は直務に関する事項を家僕に周知するため、「旅引付」を読み聞かせたこともある。「旅引付」は政基にとって実用的な日記で、常に引用・参照されるべき「旅所」の「引付」であった。「旅引付」には虚偽や改竄の記述があることが知られるが、これは政基が荘園経営の先例・「後例」とするにふさわしくない事柄の記述を避けたのである。しかし政基はこのような場合でも事実を記した文書を残し、「旅引付」に改竄の経緯や理由を書き残した。政基は後世に備えて作為や改竄の事実も含めて事件を克明に「旅引付」に記録した。「旅引付」には政基が手元に置いた文書が筆写され、直務支配の賦課台帳や証拠文書も引用されている。政基は日根荘の村や外部勢力(和泉守護・根来寺僧)と頻繁に文書を授受し、日根荘の脅威である守護・根来寺に対しては村を通して文書を授受した。そしてこの文書を保管するか「旅引付」に筆写した。「旅引付」は、政基の子息九条尚経の雑記集「後慈眼院殿雑筆」や九条家家僕の日記とも記事や内容が一致しており、政基は九条家を通じて京都政界の情報収集も怠らなかった。家領下向・在荘直務支配の日記であり、村落の世界を描いた「旅引付」は特異な公家日記であるが、公家の在荘が常態化した戦国期には「旅引付」のような日記は多数書かれていたと考えられる。