著者
源 了圓
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.9, pp.13-25, 1993-09-30

魏源(一七九四―一八五七)の『海国図志』(Hai-kuo t'u-chin)は、明治維新の前夜、中国から輸入された多くの書籍のうちで、当時の日本人に最も多く読まれ、かつ最大の影響を与えた。その本が一八五四年に輸入されてから僅か三年間のうちに、二十三種もの和刻本が『海国図志』というタイトルで翻刻された。この中には十六種の日本語訳(書下し文)版が含まれている。この事実は、『海国図志』が漢文の読めない庶民にも読まれたことを物語る。この本に対する日本人の熱狂的態度は、一八五六年アロー号事件において敗北を喫する以前の中国知識人の、この本に対する無関心な態度とは対照的であった。 当時の日本における『海国図志』の受容の仕方は三つのタイプに分けられる。第一のタイプは、「夷の長技を師として夷を制する」こと、すなわち西洋の科学技術を採用することによって日本の独立を全うしようとするものである。第二は、この本から戦法、戦略を学ぶことによって攘夷をしようとするものである。そして第三は、西欧諸国の政治、法律、経済、ならびに社会組織における諸々の卓越した点を学び、このことを通じて日本を開化しようとするものである。 これらのうち、第一と第三のタイプが重要である。この論文においては第一の点のみに限って考察した。第一のタイプの社会的特性は、アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)によって、「ヘロデ主義者」(Herodians)と称された。そして私は、当時の日本におけるヘロデ主義者の代表者として佐久間象山(一八一一―一八六四)を選びたいと思う。 魏源と佐久間象山とは、お互いに何の交渉関係もないけれども、西欧の科学技術を採用するということにおいて共通の基盤をもっていた。象山は魏源を海外における「同志」とみなしている。 両者の差異は次の如くである。魏源は諸外国から戦艦や大砲を買うことで満足している。象山はこれに満足せず、みずから西欧のスタイルで大砲をつくることを試みた。この試練に成功するために、彼はオランダ語を学び、それをマスターした。そしてオランダ語で書かれた砲術の本を読むことによって、砲の製造に成功した。 象山は魏源を尊敬していたけれども、「海国図志」における砲製造法の記述を採用しなかった。なぜならそれは魏源の実験・実試二基づかず、象山にすれば「児戯」に類するものだったからである。ここでわれわれはこれら二人の対比のうちに、技術を軽蔑した中国読書人の知的文化と、技能一般の重要性を認めていた日本の武士文化との相違を想定しても、誤りではないであろう。そして更に象山は、徳川時代の科学者たちの「親試実験」の伝統をその背後にもっていたのである。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.231-274, 2007-05-21

武士道をめぐる研究の中で注意を要することは、新渡戸稲造の『武士道』に対する評価が、専門研究家の間においては意外なほどに低く、同書は近代明治の時代が作り上げた虚像に過ぎないといった類の非難がかなり広範に存在するという事実である。
著者
山本 冴里
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.47, pp.171-206, 2013-03-29

日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。
著者
渡辺 雅子 渡邉 雅子 渡辺 雅子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.573-619, 2007-05

本稿では、日米仏のことばの教育の特徴を比較しつつ、その歴史的淵源を探り、三カ国の「読み書き」教育の背後にある社会的な要因を明らかにしたい。まず日米仏三カ国の国語教育の特徴を概観した後、作文教育に注目し、各国の書き方の基本様式とその教授法を、近年学校教育で養うべき能力とされている「個性」や「創造力」との関係から比較分析したい。その上で、現行の制度と教授法、作文の様式はどのように形作られてきたのか、その革新と継続の歴史的経緯を明らかにする。結語では、独自の発展を遂げてきた各国の国語教育比較から何を学べるのか、日本の国語教育はいかなる選択をすべきかを、「国語」とそれを超えたグローバルな言語能力に言及しながら考えたい。 個性と創造力の視点から作文教育を見ると、日本とアメリカの作文教育における自由と規模の奇妙なパラドックスが浮かび上がり、また時節の議論からは超然としたフランスの教育の姿が現れる。また評価法の三カ国比較からは、言葉のどの側面を重要視し、何をもって言語能力が高いと認めるのかの違いが明確になる。規範となる文章様式とその評価法には、技術としての言語習得を超えた、言葉の社会的機能が最も顕著に現れている。 社会状況に合わせて常に革新を続けるアメリカの表現様式と、大きな転換点から新たな様式を作り出した日本、伝統様式保持に不断の努力を続けるフランス。三カ国の比較から見えてくるのは、表現様式を通した飽く無き「規範作り」のダイナミズムである。
著者
鈴木 堅弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.13-51, 2008-09

本論は、春画として最も有名な北斎画の「蛸と海女」を取り上げ、この画図を中心に春画・艶本表現における図像分析を試みた。まず具体的な図像分析に先駆けて、同種のモチーフが「あぶな絵」や「浮世絵」にも描かれている背景を追うことで、近世期の絵画表現史における「蛸と海女」の画系譜を作成した。そしてその画系譜を踏まえて、北斎画を中心とした春画・艶本「蛸と海女」の図像表現のなかに、同時代の歌舞伎、浄瑠璃、戯作などに用いられた「世界」と「趣向」という表現構造を見出すことにより、春画・艶本分野においても同種の演出技法が用いられていたことを発見するに至った。また、こうした図像分析を通じて、北斎画を中心とした春画・艶本「蛸と海女」の表現構造が、太古より連綿と続く「海女の珠取物語」の伝承要素や、江戸時代の巷間に流布した奇談・怪談の要素で構成されていることを読み解いたといえよう。 なお、これらの考察により、春画・艶本の性表現のみに注視しない、新たな見方を提示することができたに違いない。
著者
原 秀成
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.21, pp.213-252, 2000-03-31

本稿では一九二〇年代からのデモクラシーを求める活動から、第二次世界大戦後へのいくつかの系譜をたどった。
著者
今谷 明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.201-214, 2007-05

アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。このための調査旅行として、二〇〇六年八~十月の期間、アメリカのハーバード大学、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、およびオランダのライデン大学を訪問し、ハーバード大学歴史学部長ゴードン氏以下、幾人かの日本史研究者と面談し、第一線の研究状況を直接に聴取することができた。なお、アメリカについては、日文研バクスター教授の研究を参考とし、フランスは総研大院生ハイエク君の調査を、ドイツについては日文研リュッターマン助教授の助力を仰いだことを付け加えておく。
著者
多田 伊織
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.373-411, 2010-03-31

丹波康頼が永観二(九八四)年に撰進した『医心方』三十巻は、当時日本に伝わっていた中国・朝鮮やインド起源の医書や日本の処方を集大成した、現存する日本最古の医学全書である。最善本は院政期の写本が中心となっている国宝半井家本であるが、幕末に幕府の医学館が翻刻するまで、ほとんど世に出なかった。その後も文化庁が買い上げる昭和五七(一九八二)年まで秘蔵されていた。
著者
合庭 惇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.79-93, 2007-05-21

幕末から明治初年にかけての時期は、欧米の科学技術が積極的に導入されて明治政府によって強力に推進された産業革命の礎を築いた時代であった。近代市民社会の成立と印刷技術による大量の出版物の発行との密接な関連が指摘されているが、近代日本の黎明期もまた同様であった。本稿は幕末から明治初年の日本における近代印刷技術発展の一断面に注目し、活版印刷史を彩るいくつかのエピソードを検証する。
著者
森田 登代子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.129-158, 2009-11

江戸時代、歌舞伎が庶民の生活に大きく影響を与え、歌舞伎役者着用の衣装、その文様などが流行したことは周知のことである。当時の海外事情や政治的・社会的事件が歌舞伎狂言に影響を与えたこともまたよく知られているが、反面、それらが新しい歌舞伎衣装制作に寄与したことは等閑視されている。馬簾つき四天、小忌衣、蝦夷錦、厚司などの歌舞伎装束はその形成過程において当時の話題性を巧みに取り込んで制作された。たとえば馬簾つき四天は角力のまわしに似せた伊達下がりや江戸で活躍した火消しが担ぐ纏などの意匠が取り入れられ、さらには清から入国した黄檗僧服などをも折衷し、創作された。衣装の各部位にさまざまな意匠や表象を込めた馬簾つき四天は男らしく勇猛な役柄に着用された。小忌衣は中国やオランダから伝播した西洋服装の襞襟、仏具の華鬘紐を応用・受容した衣装と考えられる。江戸時代には大嘗会再興という、天皇家神事に着用される小忌も大きく寄与した。元来は異人や謀反人であることを象徴する装束として成立したが、次第に貴人を表象する衣装へと変貌する。また蝦夷地の開発から、蝦夷錦や厚司を知ることとなり、それらもまた歌舞伎衣装へと受容されていく。これらの事例からも知れるように、歌舞伎役者は、当時の庶民が海外をも含めた様々な社会的事件に関心をもった話題に着目し、それらに関する意匠や衣装の部位に新しい意味づけを加え、あるいは誇張(デフォルメ)し、きらびやかな歌舞伎衣装を創作していったのである。
著者
ヴァラー モリー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.31-43, 2012-09-28

現在「苔寺」という愛称で広く知られている西芳寺は、一三三九年以降、臨済宗僧侶で造園を得意とした夢窓疎石(一二七五―一三五一)によって再興され、浄土宗寺院から禅寺へと改められた。従来の研究では、苔や滝石組が造園史家などに注目されてきたが、中世の文献を詳しく見れば、夢窓による修復と改宗以降の西芳寺庭園の特徴は別のところにあったようである。滝石組は江戸時代の資料で初めて確認できるものであり、高橋桃子が指摘したように、中世の西芳寺では、清冽な池での舟遊び、紅葉狩、花見などの行楽が、天皇家や公家、武家、僧侶の訪問によってなされていたのである。本稿では、「桜」を西芳寺の焦点として取り上げつつ、これまで見落とされてきた桜の意義、そしてその役割を仏教に関する文献をもとに明らかにする。主な資料として『西芳精舎縁起』(一四〇〇)、夢窓の歌集である『正覚国師和歌集』(一六九九)、および『天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』(一三五三)を用いて検討する。『縁起』に現れる当寺の伝説を概観した上で、西芳寺で何世紀にもわたって、桜が天皇家と武家、あるいは高僧と深い関わりをもち、現場での遊戯と儀礼に聖なる面を加えていたことを明らかにする。さらに、夢窓の和歌に現れる桜には、幕府を賛美し、天皇の長寿を祈ることで、夢窓入滅以降の未来の西芳寺への希望が込められていることに注目した。また『年譜』には、桜を媒介として、西芳寺が禅宗の所定の目的地として描かれていることを明らかにした。以上の過程で、夢窓の西芳寺においては、禅宗が当寺の寺院の伝説に移植されつつ、当寺が禅宗の歴史伝説において重要な位置を得たことを論じた。
著者
須藤 真志
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.18, pp.117-136, 1998-09

本稿は一九四一年の日米交渉の失敗の原因を木村汎教授の「交渉研究所説(その一)」に依拠して、木村氏の論文の枠組を使って分析したものである。木村論文は「交渉の定義」と「交渉と文化」に大きく分けられている。交渉とは何かという分類で日米交渉を見たとき、コミュニケーション・ギャップとパーセプション・ギャップがあったことがはっきりした。また、文化との関係ではアメリカの合理主義と日本の非合理主義の違いが明確となった。また日本は大東亜共栄圏をグランド・デザインとして作る気はなかったのであるが、アメリカ側は日本が東南アジア一帯を支配するための一種のドミノ理論で解釈していた。そのための時間稼ぎとして日米交渉を見ていたのである。日米交渉は交渉学の観点からみてもかなり困難な交渉であったことが良く理解できた。交渉が失敗して戦争となってしまったのは、必ずしも両国の交渉者の力不足であったとばかりとは言えないことを交渉学は教えている。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.13-72, 2010-03-31

本稿において、茶の湯の家元である千家の血脈をめぐる論争を材料として、家元システムの現代的展開について考察する。
著者
三谷 憲正
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.91-110, 2003-03

朝鮮王朝末期の王妃「閔妃」は韓国および日本を通じ、これまで多くの資料と作品の中で語られてきた。が、現在一般的に流布している「閔妃」の写真から喚起される<像>をもってしてそれらの資料と作品を読んでいいのだろうか、という疑問がつきまとう。なぜなら、従来「閔妃」の写真、と言われて来たものは、実は別人のものである可能性が高いからである。これまで流布してきた「閔妃の写真」と言われるものは、もともと、「宮中の女官」あるいはそれに準ずる女性を撮ったものだったのではないか、と推測できる。実際不思議なことではあるが、戦前の「閔妃」に言及している日本語文献の資料は「閔妃」の写真は出て来ない。したがって、戦前までの文学作品を含む文献に登場してくる「閔妃」に関しては、現在流布している"閔妃の写真"をもとに<現在の視点>からそのイメージを喚起することはできない、ということが言えるのではなかろうか。
著者
多田 伊織
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.41, pp.373-411, 2010-03-31

丹波康頼が永観二(九八四)年に撰進した『医心方』三十巻は、当時日本に伝わっていた中国・朝鮮やインド起源の医書や日本の処方を集大成した、現存する日本最古の医学全書である。最善本は院政期の写本が中心となっている国宝半井家本であるが、幕末に幕府の医学館が翻刻するまで、ほとんど世に出なかった。その後も文化庁が買い上げる昭和五七(一九八二)年まで秘蔵されていた。『医心方』所引の先行医学書を、馬継興「『医心方』中的古医学文献初探(『撰進一千年記念 医心方』医心方一千年記念会 一九八六)は二百四種、一万八八一条と数える。その内、仏教関係の典籍は計十五もしくは十六種あるが、南朝の劉宋・南斉間の僧侶釈僧深の撰述した散逸医書『僧深方』は、『医心方』に多く引用されるだけでなく、『医心方』も引用する唐・王燾(六七〇?~七五五)『外台秘要方』に相当数採録されるなど唐代に重視されていた。『医心方』では直接引用二百・間接引用十九の計二一九条、『外台秘要方』では直接引用三二五・間接引用一三二の計四五八条を認め、重複を除いても、『僧深方』のまとまった輯佚が可能である。『僧深方』は、『隋書』経籍誌以降、書目に著録され、藤原佐世(八四七~八九七)『日本国見在書目録』医方家には「方集廿九巻 釈僧深撰」とあり、日本にも伝来していた。『僧深方』の構成は出典の巻次を明記する『外台秘要方』から一部復元できる。髄唐までに成立したおもな中国医書は、北宋において校正医書局の手で再編集され(宋改)ており、遣唐使などが将来した古鈔本に基づく『医心方』所引の文献は、宋改以前の本来の体裁を保つ点で貴重である。本稿では、『僧深方』輯佚の第一段階として『医心方』から『僧深方』を輯佚し、失われた『僧深方』がいかなる医学書であり、仏教東漸において、仏教医学がどのような役割を担ったかの一端を明らかにする。
著者
姜 鶯燕 平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.301-335, 2012-03

平安末期の僧である法然は、比叡山で天台を学び、安元元(一一七五)年に称名念仏に専念する立場を確立し、浄土宗を開いた。庶民だけではなく関白九条兼実など、社会的地位に関係なく多くの者たちが法然の称名念仏に帰依した。建暦二(一二一二)年に亡くなったあとも、法然の説いた教えは浄土宗という一派だけではなく、日本仏教や思想に影響を与えた。入滅から四八六年が経った元禄一〇(一六九七)年には、最初の大師号が加諡された。法然の年忌法要が特別に天皇の年忌法要と同じく御忌とよばれているが、正徳元(一七一一)年の滅後五〇〇年の御忌以降、今日に至るまで五〇年ごとに大師号が加諡されており、明治になるまでは勅使を招いての法要もおこなわれていた。本稿は、法然の御忌における法要が確立した徳川時代のなかで、六五〇年の御忌の様子を記録した 『蕐頂山大法會圖録全』『勅會御式略圖全』の翻刻を通じて、徳川時代における御忌のあり方を浮かび上がらせることを目的とした。
著者
田代 慶一郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.227-259, 2006-03

『弱法師』は能の五流で現行の曲であって上演も稀ではなく、演者に人を得れば、素晴らしい舞台として輝くこともある。『弱法師』は世阿弥の伝書『五音』によって観世元雅の作であることが知られている。ところが、一九四一年元雅原作の形を伝える「世阿弥自筆本」が発見されたが、それによると、現行のものと元雅の原作とは可成りの違いがあることが分かった。こうして『弱法師』と名乗る能が二つ併存することになった。弱法師はもと高安通俊の嫡男俊徳丸であったが、継母の讒言によって、家を追放された。彼は悲しみのあまり盲目となり、今は乞食となって天王寺の傍らで、芸人として暮らしている。悲惨とも言える境遇にありながら、この青年に不思議な明るさがあるのは、盲目となることによって得た詩的想像力が彼にはあるからである。この盲目の詩人による詩的飛翔こそが『弱法師』という曲の魅力であって、このことは元雅原作においてもまた現行曲においても変わるところはない。現行曲は類型的な親子再会の能という構成を持ち、登場人物もその親と子の二人だけである。曲全体が単純化された結果、清澄な悟りの境地にいる孤独な青年の姿を浮き彫りにすることになった。それだけ詩的に純化されたということもできる。これに対して、「世阿弥自筆本」には俊徳丸の妻や天王寺の僧侶が登場し、それとともに天王寺の彼岸会に寄り集う群衆のにぎわいも漂っている。それだけに、この参詣人を相手に芸人として活躍する弱法師の姿もより明確な輪郭を持つ。妻の存在や芸人としての職業のような、弱法師の生活を支える現実的な背景が書き込まれているところに原作の第一の特色がある。第二の違いは劇構造に関するもので、「世阿弥自筆本」でも最後は親子の再会によって終るのだが、この場面に至るまでは高安通俊は正体不明の人物であり、俊徳丸の方もただ弱法師と名乗る乞食であって、再会の場において初めて俊徳丸であることが明らかになる、という構造になっている。元雅の原作は、最後の場面において主人公弱法師を万人周知の「俊徳丸伝説」に引き渡すことによって観客を驚かせる、そういう意外性の劇作法によって作られている。しかし、このサプライズのドラマトゥルギーは、所詮一回限りのものであって、仮に初演で成功を収めたにしても、再演は難しい。そこに元雅原作の『弱法師』が創演後、三年後のただ一回の上演記録を残しただけで、消息を絶ってしまった理由があるように思われる。それから百五十年から二百年にわたる沈黙を経て、「室町末期筆無章句本」と呼ばれる写本が現れるが、ここには既に妻の存在は無く、高安通俊の名ノリが天王寺僧侶の名ノリの前に来るダブル名ノリの形で曲は始まっている。『弱法師』が公式の場で上演されるようになったのは徳川中期、綱吉の頃とされるが、その時には天王寺の僧侶も抹殺され、既に親子二人の形になっていた。現行五流の『弱法師』はこの時上演された形を源流としている。この論文の主旨は、今や歴史の霞の彼方に隠れてあまり興味を持たれることのない元雅原作『弱法師』を、「世阿弥自筆本」というテキストを通じて、読解し解明せんとしたところにある。
著者
井上 章一 森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p97-106, 1990-03

「売春はなぜいけないんですか?」「身体を売るのはよくないんです。」「でも、我々は頭を売って生活していますよ。頭なら売っていいんですか?」「臓器移植って知ってますか。臓器移植は、無償の提供を原則として運営されます。臓器売買は、決して許されません。従って、売春も許されないのです。」「むちゃくちゃな話やなあ。」「いや、これは、現代社会における身体の交換と贈与に関する、重大な問題系なのです。売春と臓器移植というポレミックな問題を、こんなふうに結合させて論じたのは、我々が世界ではじめてでしょう。」「当たり前や。こんなアホな話、学問的に突き詰めるなんて、ふつうやりませんって。」