著者
池田 菜採子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.101-135, 2016-03

アメリカの構造主義言語学者バーナード・ブロック(Bernard Bloch)作成のSpoken Japanese(以下、SJと略す)は、日本語教育関係者のごく一部に知られているに過ぎず、太平洋戦争後の日本語教育に、どのような影響を与えてきたかということは評価がなされないまま今日に至っている。 SJは、アメリカの対日戦略の一つとして作成された。話し言葉の習得を目的とした教科書で、軍人教育に使われた。最初に出版されたのは、1945年のArmed Edition版であるが、同じ年にPublic Edition版、1972年に復刻版が出版されている。Armed Edition版、Public Edition版にはレコードが付いており、復刻版にはカセットテープが付いていた。2015年10月現在、そのテープが全巻揃っているのは、国内では国際日本文化研究センター(以下、日文研と略す)だけである。 今回、調査の結果、SJの復刻版に付いているカセットテープに収録されている音声は、1945年に最初に出版されたArmed Edition版に付いていた12インチのSPレコード24枚に収録されている音声と全く同一のものである可能性が高まった。日文研所蔵のカセットテープは、日本語教育史を考える上で、また当時の日本語の音声を知る上でも、極めて貴重な音声データである。 本稿ではこの音声データをもとに、SJのレコードがどのような目的で、どう使用されることを意図して作成されたのか考察した。また、レコード収録を行った日系人インフォーマントの話す日本語の特徴を検討した。その過程で、ブロックのインフォーマントの一人として、SJ作成に尽力した日系人、羽根幹三(Mikizo Hane)の経歴について新たな知見を得ることができた。さらに、レコードの収録内容について、昭和初期に日本で作成された日本語教育レコードとの比較検討を行った。 以上の考察を通じて、SJと、そのレコードを作成した言語学者バーナード・ブロックの日本語教育上の業績を明らかにすることに本稿の意義は認められると考える。
著者
千葉 慶
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.85-118, 2009-03

戦後日本映画は、日米安保体制下の日米関係をどのように物語化したか。本稿では、石原裕次郎を対象に上記の問題を考察する。石原裕次郎の主演映画では、「自己の擁護と回復」というテーマが執拗に反復された。このテーマは、安保体制に基づく日本の植民地的状況を舞台にした、「植民地的主体」としての日本と「帝国主体」としてのアメリカとの葛藤を描いたナショナル・アレゴリーに起源があった。一九六〇年代までの裕次郎映画には、この「植民地的主体」意識をいかに認識し、いかに克服するかをめぐる物語的系譜が存在していた。安保改定交渉による日米関係の同等化への政治的試みは、六〇年安保直前の裕次郎映画に、「帝国」アメリカに勝利する「植民地」日本のヒーローを生み出した。しかし、安保闘争の挫折以後の裕次郎映画は、日本はアメリカには決して敵わないという去勢神話を生み出し、徐々に「植民地的主体」を論じなくなってゆく。
著者
高木 正朗 森田 潤司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.159-201, 1999-06

前近代社会の人々は、今日の開発途上国の国民や未開社会の人々がしばしばそうであるように、頻繁に穀物の不作や飢餓に直面した。一九世紀中期日本の最もひどい凶作(不作)はベーリング海からの寒気の吹き込みに起因する天保の飢饉だった。読み書き能力をもった人々は、この飢饉に関わるさまざまな記録を書き留めたが、こうした甚大な自然災害を精確に復元するために利用できる記録はわずかしかない。例えば、彼らは死亡の概数だけを記したので、現代の研究者がその数値が信頼できるか否かについて結論を下すことは容易ではない。幸いにも大籠の村役人が、仙台藩当局やこの村の近くで商売をしていた商人たちによって貸付あるいは寄付された穀物類、味噌、塩、胡椒、薬そして金銭の数量を詳しく記録していた。この史料は、宗門改帳と平常年の食品ストック書上げとともに使用すれば、飢饉の年と平常年のエネルギー供給量および栄養素供給量を推計することを可能にする。われわれの研究からの事実発見は左記の通りである。(A) 平常年(一八四五)のエネルギー、栄養素供給量。(1) 平年作のもとでは、一人一日当たり二、二三〇 kcalが供給された。(2) 一消費単位一日当たりエネルギー供給量は八二三 kcalだった。(3) 一日一人当たり蛋白質。脂質、炭水化物供給量はそれぞれ九三・八、三九・四そして三七五・一gだった。(B) 飢饉の年(一八三六年一二月から一八三七年五月までの一七七日間)のエネルギー、栄養素供給量。(1) 飢饉の年には、一人一日当たり三二〇 kcalが供給された。(2) 一消費単位一日当たりエネルギー供給量は一一〇 kcalだった。(3) 一日一人当たり蛋白質、脂質、炭水化物供給量はそれぞれ七・五、一・九そして六六・四gだけだった。結局、エネルギーおよび栄養素供給量は、飢饉の時期には平常年に比べ、およそ七分の一程度に急減した。流行性の疫病が人々の死亡に致命的役割を演じたかもしれない。飢餓は死亡数の急激な上昇とともに、出生力の劇的な低下をもたらした。同種の資料が利用できれば、われわれはこれと同じ手法でこうした数値を計算できるだろう。そのためには、比較研究のための良質の資料が必要である。
著者
手代木 俊一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.261-282, 2005-03

明治期盲人教育におけるキリスト教と音楽について「宣教」、および「宣教師」という観点から論をすすめた。ここで論じたのは明治九年フォールズ他が設立した東京築地の楽善会訓盲院、宣教師ゴーブルの点字聖書、宣教師によって創設された学校(横浜訓盲院、函館訓盲院、岐阜聖公会訓盲院、同愛訓盲院)である。一方盲人教育は明治政府も推し進めようとしていた事業でもあった。目賀田種太郎の論文、官立の東京盲啞学校、岩倉使節団の報告『米欧回覧実記』を紹介した。そして宣教と音楽と盲人教育の関係を京都府立盲学校を訪問した人達(ルーサー・ホワイティング・メーソン、グラハム・ベルや、アン・サリバンとの関係で知られるヘレン・ケラー、伊沢修二)との関係から明らかにした。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.79-104, 1999-06

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。敗戦直後の日本は激しい混乱と変化の時期を迎えていた。かず子の手記はそのような日本の社会的状況や文化的な背景と切り離して読むことは難しい。貴族からの没落と離婚と死産を経験したかず子は、汚れても平民として生きていくことを決意する。このようなかず子の生き方は、最後の貴族として美しく死んでいった母や、最後まで貴族としての死を選んだ弟の直治とは、非常に対照的である。かず子は強い生命力の象徴である蛇を内在化させることによって、自分の中に野生的な生命力を高めていった。また聖書の中のキリストの言葉、「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」をもって、おのれの行為を正当化し、悪賢くても生き延び、「道徳革命」を通して「恋と革命」を成し遂げる道を選ぶのである。その「革命」は「女大学」的な生き方を否定し、「太陽のように生きる」ことである。この「女大学」は、日本の近代化のなかで強化されてきた家父長制度のもとで、女性に強いられた良妻賢母の生き方を象徴している。また「太陽のように生きる」とは、明治末から大正にかけて活動していた青鞜派の女性たちを連想させており、「女大学」的な旧倫理道徳を否定し、新しい道徳をもつことである。母になりたい願望をもっているかず子は、「恋」の戦略によって、家庭をもつ上原を誘惑し、彼の子供を得た。しかしそれはかず子の「道徳革命」の一歩にすぎない。かず子が母と子どもだけの母子家庭を築き上げて、堂々と生きていったとき、かず子の「道徳革命」は完成されるのである。本稿では『斜陽』における蛇に関する言説と日本の民間信仰、聖書との関係、家父長制度とかず子の「道徳革命」との関係などを分析しており、それらが作品の展開とテーマの形成に深くかかわっていることが明らかにされている。
著者
唐 権
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.77-103, 2001-03

十七世紀以来、幕府の長崎貿易体制のもとに、長崎を訪問する中国人と丸山遊郭の遊女の間に大規模で、かつ多様な交流が存在したことは周知の事実である。この交流は日中貿易の繁栄がもたらした副産物だけではなく、日中間交通の発達とともに発生した独自の現象でもある。多くの中国人は、単に「快楽」を求めるため、長崎を訪問した。この現象が生じた最大の理由は、明清の王朝交代がもたらした中国国内の娯楽業の長い不況であると考えられる。また、幕府は、貿易に対していろいろ制限の政策を設けながら、中国人の遊興に対しては寛大であり、それを助長する傾向さえ見られる。ゆえに中国人にとって近世の長崎は貿易都市であると同時に、行楽の地としての側面も有している。中国人と遊女の交流は江戸時代を通じて存在し、一八三〇年代前後、一つのピークに達した。この交流は、明治維新以後大勢の日本人女性が「からゆきさん」として海外へ進出することと深く関わっている。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.405-419, 2007-05

古代日本における政治・軍事権力の頂点に立つ者に対して、天皇という称号が用いられたが、その称号が用いられる以前は大王であった。大王から天皇へと称号が変わったのは、いつ頃かについては、これまで多くの議論があった。現在においても、その時期については、断案がない。この問題についての、議論は、『日本書紀』推古紀、『隋書』倭国伝、「天寿国繍帳」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」などの解釈をめぐってなされてきた。天皇号が初めて使われた時期について、早稲田大学教授津田左右吉の見解がその後の議論の糸口になった。津田は、法隆寺薬師像光背銘が推古朝に書かれたと見なし、それに「天皇」という文字が刻まれていることと、『日本書紀』推古紀にみる「天皇」と対応させて、天皇号の成立を推古朝とした。それに対して、建築史家の京都大学教授福山敏夫は、法隆寺薬師像の銘文は、推古朝の年号が書かれてはいるが、それは後年に記されたもので、推古朝に天皇号が使われた根拠とすることはできないと論じた。天皇号が初めて使われた年代をめぐる議論は、津田と福山の見解の相違に集約することができる。だが、この議論は、主として、津田の見解を是認する古代研究者によって展開され、福山説にしたがう説は、近年になって発表されるようになった。津田の見解を大筋認める研究者たちについてみると、津田から直接影響をうけた、早稲田大学、東京大学に関わる者で占められ、その傾向は、今日まで及ぶ。時に、定説、通説として語られることさえある。しかし、天皇号が推古朝に初めて使用されたとする確実な論拠がない点からみると、一種の不思議な現象として目に映る。それは、あたかも、邪馬台国論争におけるかたくなな九州説の展開との類似性を指摘することができる。
著者
楊 暁捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.13-30, 2012-09

詞書と絵によって構成される中世の絵巻は、独自の表現の規則を持つ。その規則を析出することは、絵巻読解の上で大事な課題である。この論考は、言語における文法の言説を応用して、「絵巻の文法」を構築しようとする。規則の細目を説明するために、中世絵巻の基準作である『後三年合戦絵詞』三巻十五段を用いる。「絵巻の文法」の枠組みを描き出すために、絵巻の表現方法をめぐる在来の研究成果を受け継ぎ、それを整理し、具体的な位置づけを与える一方、新たな表現の原則を見出すことを試みる。とりわけ時間と空間の表現に関連して、これまでの研究で繰り返し取り扱われた「瞬間表現」、「異時同図」、「単一固定視点の排除」に加えて、「同図多義」、「異次元の時空」などの概念を提出する。さらに構図にみる語彙と文型について、代表的な事例を詳しく分析し、絵巻における規則への反動、詞書にみる文字と音声という異なるメディアの特牲などを指摘する。
著者
梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p13-23, 1989-05

アニミズムはふつう原始社会の宗教であり、高等宗教の出現とともに克服された思想であると考えられている。タイラーの「原始文化」がそういう意見であり、日本の仏教はもちろん、神道もアニミズムと言われることを恥じている。しかし私は、日本の神道はもちろん、日本の仏教もアニミズムの色彩が強いと思う。それに、アニミズムこそはまさに、人間の自然支配が環境の破壊を生み、人間の傲慢が根本的に反省さるべき現代という時代において、再考さるべき重要な思想であると思う。
著者
阿満 利麿
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.55-67, 1993-09-30

死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。
著者
朱 捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.15, pp.69-91, 1996-12

本稿では、日本人の語感において嗅覚がいかに格別な地位を占めているかを論じる。京都の染色や日本刺繍、日本画、陶芸などでは今日でも、花の雄蘂・雌蘂その場所のことを「におい」と呼ぶ。これは仏教経典に見える、生命誕生に決定的な役割をはたす匂いの神ガンダルヴァの話を想起させる。どの辞書にも載らないこの使い方は、生命のほのかな、原初的な躍動を嗅覚でとらえる「にほひ」ということばの、最下層の面影を残しているように思われる。語源的に、「にほひ」は神秘的な生命力を秘める霊的物質水銀とのつながりを示唆する。「二」は水銀の原鉱石の丹砂を指し、「ニホ」は丹砂の産出を意味する「ニフ」や水銀の女神の名前ニホツヒメと明らかに接点をもつ。「にほひ」ということばには視覚と嗅覚が重なり合っている。それは、血のように鮮やかな水銀朱の色を視覚的に表現するいっぽう、視覚ではとらえきれない、丹砂という鉱石の奥をうねり脈打つ生命力の神秘性を嗅覚的にとらえていることを示している。内在的な生命力のうねりを嗅覚的に表現する「にほひ」の用例は、古典文学に多く見られる。源氏物語ではそれは男女の内在的な美的性的魅力をも意味する。魅惑的なフェロモンのような体臭をもちながら、薫がもっとも恐れていたのは「にほひ」のない男と呼ばれることだった。日本語では、絵画に与えるもっとも高い評価にも、「声のにほひ」などのように、聴覚のなかのもっとも美しい音声を表現するのにも、「にほひ」が使われる。そして「にほひ」は芭蕉の美学理念の重要なキーワードでもある。日本人の嗅覚は、他の感覚ではとらえきれない物事の奥に秘める生命力や人の心を打つものに対してとくに繊細である。対照的に、中国人の語感において聴覚が格別的で、響きを意味する「韵」が他の感覚を凌駕するキーワードとなることが多い。しかも興味深いことに、「にほひ」の漢字表記「匂」は、「韵」の右半分を取って造られた和製漢字である。
著者
早川 聞多
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.6, pp.p115-136, 1992-03

本研究ノートは、ある美術作品とそれを観る者の間に生まれる「魅力」といふものを、生きた形で記述するための一つの方法を提起する。私がここで提起する方法は、スタンダールが『恋愛論』の中で詳細に生き生きと記述した「結晶作用」といふ、恋する者の心の中で起こる現象の記述方法に倣はうとするものである。「結晶作用とは目前に現れるあらゆることから愛する相手の裡に新しい美点を次つぎと発見する精神の作用のことだ」とスタンダールは述べてゐるが、かうした心理現象は恋人に対してだけ生じるものではなく、愛好する美術作品に対しても起こつてゐるのではないかと、私は考へる。そこで本文では、この「結晶作用」といふ心理現象に従つて美術作品の「魅力」を記述する具体例を示すために、私が長年興味を覚え続けてきた美術作品の一つ、與謝蕪村筆『夜色樓臺図』を例に採り、私の裡で生じた「結晶作用」の発展過程を記してみようと思ふ。そこには私の勝手な思ひ込みが幾重にも重ねられてゐるが、私にとつてはそれこそが「魅力」というふものの真の姿のやうに思へてならない。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.451-467, 2007-05-21

ジャズはそれまでの音楽にはない急速で広範囲の伝播を特徴としている。その原型ができあがってまもない一九二〇年代に世界共通語になった背景には、三つの新しい再生技術―電気録音、ラジオ、サウンド同期映画(トーキー)―の力が大きい。
著者
山本 美紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.283-294, 2005-03

ジョージ・オルチン(George Allchin 1852-1935)による幻燈伝道は、彼の日本での宣教師としての仕事において、賛美歌の仕事と並ぶ大きな活動である。彼の伝道旅行は地方にも及び、多くの人々にとって福音のみならず賛美歌や聖歌といった西洋文化に初めて生でふれる機会となっていた。本論文は、時に一〇〇〇人以上という動員数を誇った彼の「幻燈伝道集会 Lantern Lecture」に焦点を当て、特に彼のオリジナル作品「ほととぎす」「世は情け」を中心にとりあげる。この二つの作品は聖書のたとえ話「放蕩息子」「善きサマリア人」の翻案である。本論では、オルチンの幻燈伝道を追うことにより、彼独自の宣教観や興行的センスと同時に、一般社会のレヴェルにおける実質的な文化反応の諸相を明らかにする。
著者
康 志賢
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.101-114, 2011-03

本稿は翻刻と解題を通して『色男大安売』を考察する筆者の五番目の論文である。草双紙の翻刻作業に取り組むことによって、以下のことが新しくわかった。(1)図のみ見ると御飯のおかずのように色を売り歩く滑稽な設定のように見えるが、続く地の文を読むと結局そこまで非現実的な行動はしないことが初めてわかり、荒唐無稽な黄表紙との差が理解できる。(2)駆け落ちの相手を間違えるという事件が、状況的に荒唐無稽ではなく、起こり得る話として写実的に描写されている。これも地の文を丹念に読むことでわかる合巻の特色である。(3)艶二郎に対して「幸福者なり」という表現が度々使われるが、これは彼を揶揄する意味を含む。(4)本文では語られない場面が画像として描かれている、即ち本文では省略された後の事件を想定して絵として補充して見せていることがわかる。(5)オチョンの服装が先学の言及とは異なる服装であることがわかるのは、本注釈作業のように文字と絵を細々と読んで、見て、初めて得られる成果であろう。

1 0 0 0 IR 黥と渡来人

著者
張 従軍 岡部 孝道
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.20, pp.31-67, 2000-02

渡来人の問題は、日本歴史の文化を研究する上で重要な課題である。一般には、渡来人は稲作とともに日本列島に入ってきたとされている。しかし、考古学の資料を見ると、古くは稲作が渡来した以前の縄文時代前・中期には、日本列島において、大陸文化に極めて類例した新しい文化要素が、すでに出現していたことが判明する。特に、顔に刻まれた入れ墨を特徴とする土偶などは、大陸の黄河流域における新石器文化に見られる入れ墨の形象と、ほぼ完全に一致している。入れ墨は、古代中国においては刑罰の一種であり、その起源も大変古い。入れ墨の刑を受けた者は、ただちに辺境の寒冷な北方地区に追放されるのが常で、二度と故郷に戻ることはなかった。このため、受刑者が追放された地方もまた、「鬼」の国と呼ばれていた。アジア東北地域に広く存在していた「鬼」の信仰など、この地域一帯で古くから密接な交流があったことを物語っている。初期に日本に上陸してきた「渡来人」とは、入れ墨の刑を受けた大陸からの流刑囚であった可能性を提起したい。彼らの影響によって日本列島では「紋身黥面」という風習が起こったのではなかろうか。