著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03-31

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。
著者
鈴木 堅弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.13-51, 2008-09

本論は、春画として最も有名な北斎画の「蛸と海女」を取り上げ、この画図を中心に春画・艶本表現における図像分析を試みた。まず具体的な図像分析に先駆けて、同種のモチーフが「あぶな絵」や「浮世絵」にも描かれている背景を追うことで、近世期の絵画表現史における「蛸と海女」の画系譜を作成した。そしてその画系譜を踏まえて、北斎画を中心とした春画・艶本「蛸と海女」の図像表現のなかに、同時代の歌舞伎、浄瑠璃、戯作などに用いられた「世界」と「趣向」という表現構造を見出すことにより、春画・艶本分野においても同種の演出技法が用いられていたことを発見するに至った。また、こうした図像分析を通じて、北斎画を中心とした春画・艶本「蛸と海女」の表現構造が、太古より連綿と続く「海女の珠取物語」の伝承要素や、江戸時代の巷間に流布した奇談・怪談の要素で構成されていることを読み解いたといえよう。 なお、これらの考察により、春画・艶本の性表現のみに注視しない、新たな見方を提示することができたに違いない。
著者
松薗 斉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.407-424, 2011-10

従来、総体的な把握がなされてこなかった中世後期の日記についてその特色を述べたものである。まず室町期について、前代より継続して記される公家の日記は、南北朝期に生じた朝廷の儀式の断絶や以後顕然化したその衰退及び経済的基盤を失って生じた公家たちの疲弊が、その「家」の日記の作成活動に停滞をもたらし、彼らの日記が前代にもっていた国家的な情報装置としての役割を低下させたことを指摘した。 一方、新たに登場した室町殿の政権によって、租の儀式や政務を記録する機能が、公家や室町殿と関係深い臨済宗や真言宗(醍醐寺)の寺院、そして武家(奉行人層)に形成されつつあった。それらは、ばらばらに存在していたのではなく、公武社会の中で活発に交換され、有機的な関係を持っていたようである。またその内部には、奉行人層が公的に作成する記録に対し、「私」の記録の意識が生じつつあった。これは、平安中期の王朝日記の成立期にあった「公」の日記(外記日記や殿上日記)に対する貴族たちの「私記」の意識が、中世に入り成立した「家」の日記に一旦は吸収されるが、再びこの時期になって「公方」室町殿のもとに、「公」と「私」の意識の分化が生み出されつつあったと評価され、そこに近世への胎動を見出すことも可能かもしれない。 戦国期に入ると、『正任記』など特に大名の吏僚層に日記の作成者が現れ、今日残存事例は少ないものの、そのような地方武士の日記が当時広範に存在していたように思われる。地方の大名権力の構造的成熟による官僚層の形成と共に、下向公家や連歌師たちによる中央の文化の伝播による刺激(彼らによって旅の日記が大量に作成され、地方武士に与えられる)、それに同じ層による『山田聖栄自記』や『沙弥洞然長状』などの年代記や覚書の作成と関連付け、「家」のルーツや地域の歴史に対する興味と探求がその背景として存在していたことを指摘した。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.163-200, 2008-03

本稿は、須藤由蔵の手記である『藤岡屋日記』を素材に武士身分の売買と思われる事例を抽出し、近世中後期における武士身分の売買の実態について検討したものである。『藤岡屋日記』の中で十七の武士株の売買の事例が見つかった。分析の結果を下記のようにまとめる。 ① 全ての事例は御家人株の売買であったが、売買の対象となった御家人の役職が多彩であった。御家人の家筋をみると、「御抱席」の御家人もいれば、「御譜代准席」と「御譜代席」の御家人も少なくなかった。 ② 株の売買は密かに行われているように思われるが、実際に、家来に御家人株を買い与えた幕臣もいた。 ③ 御家人株の売買は庶民が武士になる手段として認識されているが、実際に、武家の二男以下の男子や武士身分を失った武士が武士層に戻る手段として御家人株を利用した。 ④ 身分を売った元御家人の中で町人となった者もいたことがわかった。
著者
光田 和伸
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.139-164, 2007-09-28

連歌師の宗祇(一四二一~一五〇二)が、その弟子とともに制作した『水無瀬三吟』(一四八八)と『湯山三吟』(一四九一)は、連歌史上で最高の作品であるという評価が定まっている。しかし、そのどこがどのように素晴らしいのか。宗祇のこの二つの作品を、宗祇以前、あるいは宗祇以後の連歌作品と比較して、その素晴らしさを、具体的にまた客観的に指摘する方法はないだろうか。本論文は、第一に、連歌のルール全体を体系的に理解すること、そして第二に、独自に考案した解析シートにより連歌作品の展開を理解することによって、この課題を解決しようとする最初の試みである。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.451-467, 2007-05

ジャズはそれまでの音楽にはない急速で広範囲の伝播を特徴としている。その原型ができあがってまもない一九二〇年代に世界共通語になった背景には、三つの新しい再生技術―電気録音、ラジオ、サウンド同期映画(トーキー)―の力が大きい。 ジャズが地理的な辺境を拡大するにつれて、多くの地元の音楽家はその外来性をいかにして地元の文脈に引き寄せるかという問題にぶつかった。ジャズは生まれた時から圧倒的にアメリカ中心の価値観で世界中に広がったが、各地のアメリカ観・演奏家・評論家・聴衆は、外来モデルの拘束力、個人の嗜好と能力、創造性などの交錯するなかで、それぞれの状況にふさわしく変形し、解釈してきた。日本もまた例外ではなかった。本論はそれをいくつかのパターンに分けて明らかにする。(1) 概念。「日本的ジャズ」と仮に呼ばれるタイプの音楽は昭和十年代から間歇的に提唱された。常にアメリカの物まねではないジャズ、日本人らしいジャズという民族的独自性が含意されてきた。この発想はジャズ界のなかでは常に少数派に属し、主流とはならなかった。時には「間」、「わび」のような伝統的な概念を使ってジャズの日本らしさを言い表すこともあった。これは六〇年代末から七〇年代にかけて、ジャズ界の前衛派のなかで民族主義が強かった時期に顕著だった。(2) 俗調の編曲。ジャズを日本に適応させる最も手軽な方法は民謡、俗曲、三味線曲の編曲で、昭和一ケタ代から試みられてきた。これは明治前半の軍楽隊以来、外来の器楽形式が導入されるたびに繰り返されてきたことで、最近では素材が拡張し、二〇年代の童謡を採り上げた録音が盛んになっている。(3) 日本の旋法の応用。一九五〇年代末、アメリカで新しい音階(旋法)理論にもとづくスタイルが創造されると、それを日本の伝統音階に応用する試みが始まった。雅楽の旋法は日本の音楽のなかでも特異だが、それを応用した録音が八〇年代以降、いくつか現れている。伝統楽器の採用。六〇年代初頭、筝と共演が試みられて以降、尺八や能管、鼓、太鼓、笙などがジャズ演奏に加わってきた。これは西洋人のリードないしあるいは西洋での演奏のために企画されることが多い。日本らしさを視覚的にも音響的にも最も明確に打ち出す方法といえる。
著者
岩井 茂樹 Iwai Shigeki イワイ シゲキ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.29-53, 2006-10

「わび」、「さび」という言葉は、「日本美を代表する言葉」として広く認知されている。同時に、多くの人が「茶道」を想起する言葉でもある。たしかに、「わび茶」という言葉は、江戸時代から現在まで途絶えず用いられ続けているから「わび茶」とは何かを考えることは重要なことであろう。しかし、その美意識とされる「わび」、「さび」といった言葉の意味する内容についてはどうだろう。つまり、茶道の重要概念を表現する言葉として、現在では必ずといっていいほど使用される「わび」「さび」という言葉が、茶道史上常に使用されてきたのか、それはどのような意味においてであったか、ということを筆者は問いたいのである。本論考はそのような疑問に答えようとしたものである。いつから「わび」、「さび」という概念が茶道で重んじられるようになったのか、そこにはどのような意思や愛大の力学が働いていたのかを明らかにすることを目的としたものである。 本論考で明らかになったことは、次の五点である。① 元禄期の茶書には「わび」、「さび」について語っているものは多いが、江戸時代を通じてみれば、それは少数でしかない。② 明治期には「質素・質朴」、「礼儀」などが重視されていた。大正期になると「和敬清寂」が重要理念として強調され始め、昭和期にはその「寂」の部分を「わび」や「さび」で説明する書物が多くなってくる。③ 「わび」や「さび」は明治期から大正期には主に茶室・茶道具などを形容する言葉として用いられることが多かった。それが機能的方法により茶道に集約されたのである。④ 茶道と「わび」、「さび」が結合するようになった要因として、三つのことが考えられる。一つは、大正期から盛んに論じられた「風流」や「日本趣味」が、文化ナショナリズムが昂揚していく過程において非常に注目されるようになったこと。二点目は、創元社の『茶道全集』の刊行である。三点目は、家元、禅学者、そして京都帝国大学史学科出身の学者ないしはその弟子たちによって書かれた日本文化論がよく読まれたことである。⑤ 茶道の「わび」「さび」化は、主として京阪神中心の文化によって形成されたものである。 本研究によって、「わび」、「さび」という言葉が茶道において、常に強調されてきた理念ではないこと、そしてそれは、大正期から昭和初期にかけて喧伝され、第二次大戦後広範に認知されるに至ったことが明らかになった。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.101-127, 2013-09-30

本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。
著者
小野 健吉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.61-81, 2014-09-30

景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.185-236, 2012-03

明治維新によって日本の伝統的芸能が大きな打撃を受け、茶の湯も衰退を余儀なくされたことはしばしば指摘される。しかし、上層階級を中心とする「貴紳の茶の湯」の世界では、ひとあし早く茶の湯が復興し始めていた。この茶の湯の復興を先導したのは、旧大名、近世からの豪商にくわえて、新たに台頭した維新の功臣、財閥関係者らの、「近代数寄者」とよばれる人々である。 本稿では、『幟仁親王日記』および『東久世通禧日記』をもとに、明治前期の茶の湯をめぐる状況を概観する。この結果、明治十年(一八七七)を過ぎたころから、旧大名、旧公家、維新の功臣らの上層階級を中心に茶の湯が流行しはじめたと考えられる。それを象徴するできごとは、明治十年八月二十一日の脇坂安斐による明治天皇への献茶である。この時期にはじめて茶の湯にふれた東久世通禧は、急速に茶の湯に傾倒し、さかんに技芸を稽古し、茶会を催すようになる。このような茶の湯の交際の広まりが、明治維新以前から茶の湯に親しんでいた有栖川宮幟仁親王を巻き込んでいこうとする現象がみられた。 興味深いことは、明治前期の「貴紳の茶の湯」の世界において、家元は積極的には登場しないことである。おそらく、家元を中心とする「流儀の茶の湯」の衰退が深刻であり、家元の存在基盤が脆弱であったためと考えられる。 家元が広く庶民層に技芸を教え広めることにより苦境を克服するのは、大正期以降のことと考えられる。こうした状況の変化をみて、いったんは茶の世界から離れていた中小の流派の後継者たちは、茶の世界に復帰する。明治期に茶の文化を維持した近代数寄者の一部は、のちに家系中心の家元システムが整備されるなかで、"家元を預かった"人物として位置付けられることになる。
著者
磯田 道史
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.13-42, 2009-11

近世日本の諸藩では、さまざまな、藩政改革がなされた。なかでも、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、全国諸藩に最も影響した藩政改革をあげるとするならば、熊本藩の宝暦改革と水戸藩の天保改革の二つが特筆される。 十九世紀以降、幕府諸藩は近代化にむけた動きをみせはじめるが、この時期には、いくつかの改革モデルを提示する「先駆的な藩」があらわれた。近世中期から後期の藩政改革の展開は、第一段階として一七五〇年ごろから、熊本藩など少数の「先駆的な藩」が藩政改革をすすめ「プロト近代化行政」とでもいうべき行政モデルが形成され、第二段階として、一八〇〇年ごろ、このような先駆的な藩の動きが、松平定信政権のもとで幕府の寛政改革にとりこまれてゆき、全国の諸藩でも相次いで類似の「官制改革」がおこなわれた。そして、第三段階として、一八三〇年ごろ、幕府と水戸藩が天保改革を行い、いわゆる雄藩が登場し、とくに水戸藩の天保改革が「海防」の政策モデルとして諸藩に政策的影響をおよぼすようになった。つまり、熊本藩と水戸藩の改革は一九世紀における日本の近代化の流れに強い影響を与えたといえる。 そこで本稿では熊本藩と水戸藩をとりあげ、両藩の政策を比較検討し、政策的影響の有無をみた。熊本藩の宝暦改革が、後に全国諸藩に大きな影響を与えることになる水戸藩にどのような政策的影響をあたえていたのか。一九世紀前半における日本の近代化を考えるうえで、熊本藩から水戸藩へという流れをみる。一八世紀後半、熊本藩には先駆的な行政モデルが胚胎していた。これが天保改革に帰結していく水戸藩の藩政の動きに、具体的に、どのようにつながるのか。または、つながらないのか。この点を考察した。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.43, pp.237-260, 2011-03-31

本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.231-274, 2007-05

武士道をめぐる研究の中で注意を要することは、新渡戸稲造の『武士道』に対する評価が、専門研究家の間においては意外なほどに低く、同書は近代明治の時代が作り上げた虚像に過ぎないといった類の非難がかなり広範に存在するという事実である。 すなわち、新渡戸稲造が同書で描き出したような武士道なるものは、前近代の日本社会には実際には存在しておらず、欧米諸国の人々に向けて、日本社会の文明性、道徳的な高さを主張するために、西洋中世の騎士道に比肩するものとして「武士道」なる語句と概念とを新渡戸が創造したものである、とする論である。 武士道批判のもう一つのタイプは、津田左右吉『文学に現れたる我が国民思想の研究』で展開されているそれで、武士道は世に喧伝されているがごとき道徳高潔なものではなく、裏切りと下克上の暴力的行動に他ならぬことを力説する。このような武士道の非道徳性に関する津田の議論は、そのまま今日までも継承されており、さらにこれは前者のタイプの議論とからめる形で、かりに江戸時代において「武士道」と呼ばれるものが存在する場合があってもそれは、もっぱら戦国時代の余習とも呼ぶべき暴力的、非道徳的性格の行動形態であり、その意味において新渡戸『武士道』の描き出しているそれとは隔絶したものとする論調である。 すなわち、新渡戸がその著書で描き出している武士道なるものは、近代日本の時代的要請のもとに創作された虚像にすぎず、いわゆる「近代における伝統の発明」の典型事例のごとくに見なされているというのが実情である。 武士道をめぐるこのような研究の現状にかんがみて、本稿では武士道概念を厳密に検討して、それが歴史実態としては具体的にどのように存在していたのか実証的に究明することを課題とする。そしてこの種の概念問題をめぐる論述が、しばしば思弁的な議論に流れていく弊を避けるためにも、その概念を表現する言葉、すなわち「武士道」という用語に即して分析を進めていくこととする。明治以前の前近代社会において、「武士道」という言葉がどのように存在し、どのような意味内容で使われていたかを、時代の推移とともに、また地域的な広がりをふまえて考察する。この種の概念的問題を実証的、客観的(間主観妥当的)なものとするためには、このような限定は不可欠であると考える。
著者
辛島 理人
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.155-183, 2012-03

本稿は、アメリカの反共リベラル知識人と民間財団による、一九五〇・六〇年代の日本の社会科学への介入とその反応・成果に焦点をあて、戦後における日本とアメリカの文化交流を議論するものである。その事例として、経済学者・板垣與一がロックフェラー財団の支援を受けて行ったアジア、ヨーロッパ、アメリカ訪問(一九五七~五八)を取り上げる。ロックフェラー財団は、第二次対戦終了直後に日本での活動を再開し、日本の文化政治の「方向付け」を試みた。その一つが、日本の大学や学術をドイツ式の「象牙の塔」からアメリカのような政策志向の実践的なものへと転換させることであった。そのような方針を持つロックフェラー財団にとって、官庁エコノミストと協働していわゆる「近代経済学」を押し進めていた一橋大学は好ましい機関であった。板垣與一は、同財団が支援する「アングロサクソン・スカンジナビア」型の経済学を推進する研究者ではなかったが、日本の反共リベラルを支援しようとしたアメリカの近代化論者の推薦をうけて、同財団の助成金を得ることとなる。そして、一九五七~五八年に板垣は、「民族主義と経済発展」を主題としてアジア、ヨーロッパ、アメリカを巡検する。アメリカでは、近代化論者の多かったMITなどの機関ではなく、ナショナリズムへ関心を払うコーネル大学の東南アジア研究者との交流を楽しんだ。板垣は日本における近代化論の導入に大きな役割を果たすものの、必ずしもロストウら主唱者の議論に同調したわけではなかった。戦時期に学んだ植民地社会の二重性・複合性に関する議論を、戦後も展開して近代化論を批判したのである。ロックフェラー財団野援助による海外渡航後、板垣は民主社会主義者の政治文化活動に積極的に参加した。しかし、ケネディ・ジョンソン政権と近しい関係にあったアメリカの反共リベラル知識人・財団の期待に反し、反共社会民主主義が議会においても論壇においても大きな影響力を持つことはなかった。
著者
長島 要一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.323-376, 2004-01

一八四六年八月に浦賀沖に達したビレ提督指揮下のガラテア号の出現が興味深いのは、1.それがとにもかくにも日本―デンマーク文化交流史の第一ページを飾る出来事であり、『故事類苑』外交部にも記事が載っていること、2. デンマークの国旗が史上初めて日本人の目にとまり、両国がお互いの存在を短時間とはいえ認めあったこと、3.デンマーク側の訪問が文字どおりの即興であり、十七世紀半ばのデンマーク東インド会社による二度にわたった日本進出計画挫折の時と同様、またしても情報不足、準備不足で日本を訪問したこと、にもかかわらず、4.上海から浦賀沖に至る航路途上の測量を、クルーゼンシュテルンおよびシーボルトの成果を比較しつつ行っている点、同様に、5.日本と日本人に関する観察を、これも先行文献の記述を対照しながら行い、私見を述べている点に興味をひかれるからである。ビレ提督の日本印象記は、デンマークの教科書中に散見されていた日本関係記事と、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』デンマーク語版をのぞけば、日本を訪れたデンマーク人によって書かれた日本論の嚆矢であった。この印象記は、それまでの先行文献からの広い意味での「引用」に過ぎなかったデンマークの日本観が、ほんの短時間にしろ日本の国土と日本人に接し、その印象と評価を書き記した広義の「翻訳(誤訳)」へと質的変換をとげた画期的事件となったのである。以後のデンマーク人による日本記事は、直接に引用してあるかはともかくとして、ビレ提督の日本印象記抜きに語られることはなかった。 本稿は、ビレ提督の日本印象記を先行文献との関連で紹介しつつ、その史料としての特徴を素描し、ビレ提督浦賀沖訪問に関する日本側の史料と照合することにより、あわせてデンマークの日本認識と日本のデンマーク観を浮き彫りにする。 日本側の史料が終始一貫して「記録」にとどまり、その複数の記録がいずれも報告であり判断と評価を欠いているのに対し、ビレ提督の日本印象記は、事実の記録のみならず、先行史料を参照し、それを批判的に吟味する総合的かつ戦略的な「記述」であった。そこに一八四六(弘化三)年浦賀沖で演じられたドラマの象徴的な意味が見出されると思う。そしてそれは、七年後のペリー提督来訪により、大きなドラマに進展するのである。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.101-127, 2013-09

本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。 欧米外交官による江戸城中での外交儀礼は、安政四(一八五七)年十月二十一日におけるアメリカ総領事ハリスの登城・将軍拝謁を初発の事例とするが、その際の様式は、徳川幕府が長い経験を持つ朝鮮通信使迎接儀礼を土台に考案されたのであった。筆者がすでに別稿で詳細を論じたそのハリス迎接を起点として、本稿では、以降数年の動きを追跡する。具体的には、安政五年にオランダ領事館ドンケル=クルティウス、続いてロシア使節プチャーチンを江戸城に迎えるにあたり、幕府内で外交儀礼の定式化をめざして進められた検討の実態、その後、安政六年に再びハリス(アメリカ公使に昇格)が登城した際、日米間に発生した問題と、その解決のため翌万延元(一八六〇)年に実行された同じハリスによる「謁見仕直し」の経緯、さらに、ここまでに検討された式次第が同年、イギリス公使オールコック、フランス代理公使ド=ベルクールの登城・将軍拝謁に準用され、当面の通例として定着に向かう様を、史料から明らかにする。 ここから浮き彫りになるのは、「幕末前期」とも言うべきこの時期の徳川幕府が、従来国交のなかった欧米諸国から次々と外交官が到着する事態に向き合うなかで、その迎接をできるかぎり特別視せず、もとより長きにわたって政権を支えてきた各種殿中儀礼の枠組みの中に取り込み、平常の準備の範囲で彼らに対しうる態勢をつくろうとした努力の過程である。儀礼を窓口に、より広義の解釈を試みるなら、対外関係業務そのものを幕府の一所掌領域として安定させ、持続可能なものにしていこうとする意思が、ここに表れていると言うことができる。
著者
森田 登代子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.32, pp.181-203, 2006-03-31

近世、京都の庶民階層は大嘗会、新嘗祭、即位儀礼の情報を町触れから逐一得ていた。天皇家祖先への神祭りである大嘗会では忌避されたが、公的な就任儀礼である天皇即位儀礼では庶民の拝見が許可された。入場券代わりの切手が男性一〇〇人女性二〇〇人に配られ、禁裏内、日華門近くで拝見した。即位儀礼を感涙にむせびながら厳粛に拝見する民衆もいれば、遊楽と見紛う行為も見られた。大嘗会や新嘗祭、譲位、即位儀礼、入内が布告されるたび、火の始末、鐘撞や芝居上演禁止など日常生活への拘束がともなったが、天皇に関する行事が庶民の関心を呼んだことは間違いがない。
著者
秋沢 美枝子 山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.32, pp.285-315, 2006-03-31

ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.37, pp.201-245, 2008-03-31

一柳満喜子は一八八四年、一柳末徳子爵の子として誕生した。満喜子はミッション経営の幼稚園、女子高等師範学校附属小学校、附属女学校、神戸女学院などで学び、一九〇九年に渡米。米国ではブリンモア大学予備学校で学び、在学中に受洗した。その後、ブリンモアカレッジに入学したものの退学し、女学校時代の恩師アリス・ベーコンのもと、サマーキャンプなどを手伝っていたが、末徳の危篤の知らせを受け帰国。そして、兄恵三の邸宅を設計していたウィリアム・メレル・ヴォーリズと出会う。メレルとの結婚後、近江八幡の地に移った満喜子は、そこでいくつかの教育事業を行った。