著者
栗田 英彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.239-267, 2013-03-29

大正期に一世を風靡した心身修養法に岡田式静坐法がある。創始者の名は岡田虎二朗(一八七二―一九二〇)という。彼は、静坐実践を通じて内的霊性を発達させることができると述べ、日本の伝統も明治以降の西洋文明輸入政策も否定しつつ、個人の霊性からまったく新たな文化や教育を生み出そうとした。こうした主張が、近代化の矛盾と伝統の桎梏のなかでもがいていた知識人や学生を含む多くの人々を惹きつけることになったようである。これまで、岡田の急逝をきっかけに、このムーブメントは急速に消えていったように記述されることが多かった。しかしながら、実際にはその後もいくつか静坐会は存続しおり、その中の一つに京都の静坐社があった。静坐社は、岡田式静坐法を治療に応用した医師・小林参三郎(一八六三―一九二六)の死後に、妻の信子(一八八六―一九七三)によって設立された。雑誌『静坐』の刊行を主な活動として、全国の静坐会ネットワークを繋ぐセンター的な役割を果たしていた。
著者
小川 順子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.73-92, 2006-10

本論の目的は、美空ひばりが銀幕で果たした役割を考察することによって、チャンバラ映画と大衆演劇の密接な関係を確認することである。戦後一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本映画は黄金期を迎える。当時は週替わり二本立て興行が行われており、組み合わせとして、現代劇映画と時代劇映画をセットにするケースが多かった。そのように大量生産されたチャンバラ映画を中心とした時代劇映画のほとんどは、大衆娯楽映画として位置づけられ、連続上映することから「プログラム・ピクチャア」とも呼ばれている。映画産業を支え、発展させ、もっとも観客を動員したこれらの映画群を考察することには意義があると考える。そして、これらの映画群で重要なのが「スター」であった。そのようなスターの果たした役割を看過することはできないであろう。本論では、戦後のスターとして、あるいは戦後に光り輝いた女優として活躍した一人であるにもかかわらず、「映画スター」としての側面をほとんど語られることがない「美空ひばり」に焦点を当てた。そして、彼女によってどのように演劇と映画の関係が象徴されたのかを検証することを試みた。
著者
魯 成煥
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.117-146, 2014-03-31

本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。
著者
北浦 寛之
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.191-207, 2014-09

近年の邦画作品、『ALWAYS 三丁目の夕日』は山崎貴監督により、二〇〇五年のその第一作目から二〇〇七年『ALWAYS 続・三丁目の夕日』、二〇一二年『ALWAYS 三丁目の夕日'64』とあわせて全三作制作、公開されているが、そのどれもが、邦画年間興行収入のベスト・テンに入り、三十億円以上を稼ぐヒット作である。全作通じて昭和三十年代(一九五五年~六四年)の東京の下町の様子が、ノスタルジックに再現されており、特に近所の者が集まってテレビを一緒に見ては、大騒ぎしている様子が、当時を知る多くの人たちの共感を呼んだと指摘されている。ただ、テレビを囲んで展開されるこうした賑やかな光景は、当時の日本映画界では、違った景色として映っていたはずである。 すなわち、「ALWAYS」三部作が描いた昭和三十年代は、日本映画界にとって繁栄から衰退へと向かう転換期にあたる。そして、その転落の要因となったのが、テレビの普及であった。一九五〇年代は映画観客が年々急増し、日本映画の黄金期と呼ばれていた。だが、一九五八年に十一億人を超える動員数を記録するも、この年を境にして減少へと転じ、その後も大衆の映画離れが拡大していく。一方のテレビはというと、一九五九年、皇太子のご成婚パレードの影響もあって、国民のテレビ購買意欲は増大し、五八年に二百万ほどだったテレビ受信契約数が倍以上の四百万超にまで急伸する。以後、着実にテレビは国民の間に浸透していき、それに対して映画の観客数は減少していくことから、テレビは映画の脅威と見なされたのである。 本論文は、そうした当時の映画とテレビの緊張関係の中で、映画製作者たちが「ALWAYS」で見られたようなテレビをめぐる場面とどう対峙したのかを探るものである。昭和三十年代の映画作品を中心に、そこで、テレビないしはテレビ業界など、総体としてテレビ・メディアがどのように表象されていたのかを分析し、いまなお大衆娯楽の中核を担う映画とテレビの攻防の歴史を、本質的な映像の次元から整理していく。
著者
山折 哲雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.15, pp.93-103, 1996-12

仏教の説話文学に登場する「捨身飼虎」の物語は、インドでつくられ、中国の千仏洞の壁画に描かれ、やがて日本の法隆寺にある厨子の側壁に再現されることになった。しかしこの絵はその残酷なシーンのためか、わが国では、その後しだいに敬遠され忌避されるようになった。ところが中世になって、三匹の野生の虎に見守られて瞑想する僧の絵がつくられることになる。「華厳絵巻」のなかに出てくる七世紀の韓国僧・元暁にかんする一シーンがそれだ。この絵巻をつくる上で大きな役割をはたしたのが明恵(一一七三~一二三二)であるが、そのかれにも、小動物や小鳥たちに囲まれて瞑想にふけっている肖像画がある。明恵の伝記によると、かれは若いころ「捨身飼虎」図に惹かれ、そのように生きようと願うが、やがて成長し、動物たちとの共存の生活を夢見るようになったのである。「捨身飼虎」の犠牲のテーマは、日本ではどうも定着しなかったようだ。
著者
Vovin Alexander
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.11-27, 2009-03

最近日本祖語、琉球祖語と日琉祖語の再構が非常に進んだとは言え、まだ不明な箇所が少なからず残っている。特に、日本語にない琉球語の特別な語彙と文法要素、また、琉球語にない日本語の特別な語彙と文法要素が目立つ。それ以外にも、同源の様でも、実際に説明に問題がある語彙と文法要素も少なくない。この論文では、そうしたいくつかの語彙を取り上げる。結論として次の二つの点を強調したい。先ず、琉球諸言語の資料を使わなければ、日琉祖語の再構は不可能である。第二に、上代日本語と現代日本語の本土方言には存在しない韓国語の要素が琉球諸言語に現れていることを示そうとした。私の説明が正しければ、ある上代韓国語の方言と琉球祖語の間に接点があったことを明示する事になるであろう。
著者
森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.5, pp.p67-87, 1991-10

本論文は、パソコン通信のフリーチャットに典型的に見られる、匿名性のコミュニケーションを分析し、電子架空空間で成立する匿名性のコミュニティの諸性質について論じる。その際に、都市社会学の観点からの分析を試みる。パソコン通信を都市社会学の観点から議論する試みにはほとんど前例がない。本論文で提起されるいくつかの仮説は、今後のメディア論に一定の影響を与えると思われる。
著者
石井 紀子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.167-191, 2005-03

一八八〇年代から一九〇〇年代にかけて北中国ミッションと日本ミッションに赴任した医師の資格を持つ一人のアメリカ女性宣教師の本国宛の書簡を手がかりに、伝道地の主体性、宣教師の専門性、ジェンダーと伝道活動の相互作用を検討した。その結果、伝道活動を決定する要因として伝道地の事情が宣教師個人の専門性より優先することが明らかになった。本事例でホルブルックは中国で専門を生かして診療所開設の上、「医療バイブル・ウーマン」を養成できたのに対し、日本では女子高等教育の中の理科教育、家庭衛生教育の分野で自身の専門性を生かした。女性宣教師はジェンダーの分離を根拠に女性のための伝道を正当化していた上、海外伝道の目的として伝道と女性の地位の向上を矛盾したものとはとらえていなかったので、ホルブルックにとって二つの伝道活動は一貫していたといえる。
著者
小田 亮
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.131-140, 2000-10

日本人における配偶相手の好みにみられる性差を、結婚相手募集広告の分析から研究した。一九九七年一〇月から二〇〇〇年一月までに個人広告雑誌に掲載された七八〇件(男性によるもの五七七件、女性によるもの二〇三件)の広告を分析対象とした。要求または提示されている特徴を比較すると、男性では要求された特徴と提示された特徴の数に違いはないが、女性は提示数よりも要求数の方が多かった。また女性は男性よりも要求数が多く、提示数は少なかった。男性は自らの経済的状況あるいは社会的地位を提示する傾向があり、女性はそれを要求する傾向があった。家庭への投資に関しては提示には偏りがなかったが、女性の方がより要求する傾向があった。身体的な特徴については要求、提示のどちらにも性による偏りがみられなかったが、相手に写真を要求するのは女性の方が多かった。連れ子の拒否については偏りがなかった。一方男性の方が女性よりも連れ子を受け入れる態度を示す傾向があった。男性は年下の女性を相手として好んだが、女性については充分なデータが得られなかった。これらの結果を先行研究ならびに質問紙を使った調査の結果と比較検討した。

3 0 0 0 IR 戌亥の風

著者
久野 昭
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p11-35, 1990-03

日本に吹く主要な季節風は二つある。ひとつは冬季に吹く北ないし西北からの季節風であり、もうひとつは夏季の南ないし東南からの季節風である。不意に激しく吹く西北の季節風は、西日本では「あなし」とよばれてきた。「あな」はこの場合は恐怖をも含む感嘆詞であり、「し」は息であり風である。古代、漁師も農夫もこの「あなし」を怖れた。しかも、この風は疫病をもたらすとも考えられ、だから疫病は風病、風の病ともよばれていた。七世紀、飛鳥に宮廷を置いた天武天皇は龍田で風祭を行ったが、龍田は飛鳥の西北に位置する。奈良時代および平安時代、不安定な政治情勢を背景に凶作と疫病の蔓延が繰り返されたとき、これらの現象は、権力の座から追い落とされて死んだ者たちの怨霊の所為にされた。怨霊は祀られねばならなかった。たとえば京都では上御霊社、下御霊社が建てられたし、御霊会が祇園で行われた。最も有名な御霊は菅原道真の怨霊だが、この御霊はこの両社に他の御霊たちとともに、また北野には単独で祀られている。古代、朝廷は出雲地方を怖れていた。おそらくこれが、出雲が黄泉と結び付けられた主な理由である。その出雲は飛鳥や奈良から西北の方角に位置する。祇園社、下御霊社、上御霊社は一直線上にある。そして上御霊社の近くから出雲路が始まる。道真の御霊の祀られた北野は祇園の西北の方向にあり、この方向も出雲を目指す。朝廷およびその周辺の人々にとって、死者の怨念は黄泉から戌亥(西北)の風に乗って都を襲ったのである。
著者
韓 韡
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.129-147, 2013-09

本論は、従来の研究で注目されてこなかった清末「日本型教育体制」の成立における女子教育と日本モデルという問題を、女子手芸科目という視点から考察した。その結果、清松の女子師範学堂および民国の女子中学校と女子師範学校のカリキュラムに組み込まれた手芸科目「編物・組糸・嚢物・刺繍・造花」が、明治三十四年文部省発布の「高等女学校令施行規則」における随意科目の手芸内容の模倣であることを明らかにした。そして、富国強兵の方策を模索していた清末の教育視察者が、実業技能として教授された明治期の手芸が女性の職業と結びつき、国家の産業発展に貢献しているのを見て、またそれが伝統的な婦徳にも合致するため、中国でもこれを実現しようと意図的に中国の女子教育に組み込んだ結果であることを論証した。 しかし、中国に導入された手芸は、実用性がないものとして教育関係者から批判された。手芸が日本のような大きな発展を見せなかった理由の一つとして、教育制度の導入に際し、日本の高等女学校では随意科目とされた手芸科目を裁縫や家事と同様の家政科目として取り入れたことが考えられる。さらに、日本における手芸は、女子教育の中で実業技能という位置づけであったが、中国においては近代的産業の未発達が女子実業教育の社会的実利を妨げたため、実業教育としての手芸が成り立たなかった。また、日本では産業全体と女子実業教育の発展とが連動しており、手芸の中でも開化趣味に合った「編物」と「造花」は、明治後期にはすでに女性の職業の一つとして成立していた。一方、中国では、原材料すら日本からの輸入に頼らなければならない「編物」と「造花」は、その物自体も単なる装飾品・奢侈品として認識されるにとどまった。近代女子教育に導入された手芸は、当時の社会状況と産業経済の未熟さによって、日本のような職業と結びついた実業として発展を遂げることができなかった。
著者
頼 衍宏
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.41-62, 2015-03

日本上代文学の研究成果の金字塔の一つと評価されているのが小島憲之『上代日本文学と中国文学――出典論を中心とする比較文学的考察』(1962~65)である。出版されて以来、中国文学もしくは国文学の立場から相次いで書評が寄せられている。特に頂点となったのは日本学士院賞恩賜賞を授与されたことであろう。しかし、1965年に公表された審査要旨においては「中国の典籍から出典をとりあげる場合に異論のある点もないではない」とあって、懸念材料が完全に払拭されたわけではない。この「異論」の意見を重視すべきであろう。そして『文淵閣版四庫全書電子版』を補助的に活かしたうえで、小島の提出した漢語の見解について追考してみなければならないだろう。結果として、「及」をはじめとする和習の六語について典例を洗い出してみれば、新たな解釈を示すことができるのではないかと思われる。漢語に関して、小島が誤解してしまったのは、明らかに類書と韻書に頼りすぎたためである。これは単発的な事例にすぎないとはいえまい。そのほかに、入矢義高の書評(1965)で取り上げられた四語、神田喜一郎の論著(1965~66)で文句をつけられた三語も穏当ではないだろう。また吉川幸次郎『漱石詩注』(1967)における五語も問題がないとはいえない。海彼の用例を採集するために力を注がねばならないし、これをもって和習と見なされている言葉と突き合わせつつ慎重に考え直さなければならない。小稿は、主に京都大学の権威のある四名による1960年代の典型的な論考に焦点を合わせ、「和習」とされてきた十八語の正体を明らかにする。インターネットを駆使して研究をするのが主流となりつつある昨今、従来いわれてきたような語性についての判断の適否を確認する場合、コーパスによる検証の手続きは不可避といえよう。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.193-241, 2012-09

髪には、人々の身分や生き方が如実に反映されてきたという歴史から社会の変遷を読み取り、また人々のもつ無意識の戦略について論じることで、普遍的な美への志向を読み取る。化粧や髪形は時代とともに変化する。動態的には公家から武家へといった支配的地位にいる者の変化、異性から同性など、「誰のためによそおうのか」というよそおう対象の変化に伴って、表現として変化する。 本研究では、主に女性の髪に焦点を結び、髪の長さや結髪などが文化史的にもつ意味をあきらかにするとともに、それが社会的な存在であったこと、美意識はその社会性に裏打ちされてきたことなどを、男性の髪の社会的変化とともに論じる。そのなかで、俗説的に言われてきた、垂髪は平安時代の顔隠しに由来するという説や、髷は歌舞伎や遊女を真似たとする説などを批判し、文化史としてのコードを明確に読み解く。
著者
鄭 敬珍
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.151-181, 2016-03

1764年の通信使行は、使行のすべてを尽くしたと評価されるほど、苦難に満ちた使行であったが、日本人との詩文や筆談の唱和を通した文化交流は、どの使行よりも盛んに行われたといわれている。本稿は、この1764年の朝鮮通信使の日本来聘の際に、大坂で行われた朝鮮の製述官・書記と木村蒹葭堂をはじめとする蒹葭堂会の人々の交遊を再考察するものである。この交遊については、すでに高橋博巳をはじめ、先行研究において論じられてきたが、その交遊を可能にした背景や、朝鮮側の人々については、十分な考察が行われてこなかった。一方で、朝鮮の書記・成大中が依頼したとされる「蒹葭雅集図」の製作過程についても再考察の余地があると考えられる。 本稿では、まず、朝鮮側からの視点に寄り添って、蒹葭堂会の人々と交遊した製述官や書記たちが「庶孼」という庶子の身分であったことに注目した。庶孼身分と朝鮮通信使との関連性について分析すると同時に、彼らが朝鮮通信使に参加する前からすでに、詩社などを通し、文人との交遊を持っていたことも明らかにした。 本稿は、使行録の記録を分析材料として取り上げ、日本ではほとんど注目されてこなかった、製述官・南玉の『日観記』を中心に、江戸に向かう前と帰路の大坂での記録を時系列で追うことを試みた。このような考察を通して明らかになったのは、朝鮮側の製述官や書記たちは、通信使として派遣される前から文人詩社に集い、文人としての経験を培っていた、ということである。そして、そのようなことが、1764年の交遊を可能にした一因になっていたのである。多様な階層の文人による蒹葭堂会と、朝鮮社会の特殊な身分の「庶孼文人」たちの間に、文人として認識が共有されていた可能性は、交遊の産物である「蒹葭雅集図」の製作意図を考える上でも重要な意味を持つ。「蒹葭雅集図」の意味合いについては、今後の課題として、「蒹葭雅集図」と朝鮮後期の雅集図との比較分析を行うなど、さらなる考察を加えていきたい。本稿が、朝鮮通信使に関する研究だけでなく、近世日本と朝鮮社会における多様な「文人」の有様を考察する上でも、有効な手がかりとなることを期待したい。
著者
権 東祐
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.7-32, 2017-10

本稿は、富士山が信仰の場とされながらも、各々異なる祭神が形成され、変貌してきたことを〈神話解釈史〉という視座から考察することを目的とする。 〈神話解釈史〉とは、「中世日本紀」や「中世神話論」を継承しつつも、従来の「古代神話」のように架空の時代を形成しそれに固定することを否定し、神話解釈がどのように新たな歴史を創造してきたかを考えるものである。とくに、「近代主義」によって構築された歴史観念を離れ、神話を解釈・創造する過程こそが新たな歴史を作るという視点から神話と歴史の概念を改める作業である。 このような発想は、磯前順一の主張した「記紀神話」は「どう読まれたか」という「記紀解釈史」と類似している。しかし、磯前は神話が歴史上でどのように解釈されてきたかを考える「神話の解釈史」にとどまっている。対して、神話解釈がどのように歴史を叙述してきたかを考える「神話解釈の歴史」の発想は、斎藤英喜によって提示されており、本稿はそれを積極的に継承しつつ、〈神話解釈史〉という方法の可能性をより広げていきたい。 そこで、本稿では従来の神話研究者が主に『古事記』や『日本書紀』を中心とする神話研究を展開してきたこと、また、神話解釈への関心も「中世の『日本書紀』と「近世の『古事記』」に集中してきたことに対し、それとは異質的な「富士信仰」を中心としてその祭神の変貌を考えてみた。 「浅間の神」から「浅間大菩薩」そして「コノハナサクヤヒメ」を経て「天御中主神」に展開していく富士信仰における神格変貌は、従来の日本神話研究の枠組からは読み取れなかった新鮮な神話世界の一面を見せてくれるだろう。
著者
漆﨑 まり
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.55-100, 2013-09

江戸歌舞伎においては、舞踊の場面に、半太夫節・河東節、長唄、常磐津節・富元節・清元節など多彩な音曲が用いられてきた。新作が上演されると、音曲の詞章は演じる役者や演奏者などの上演情報とともに三~五丁程度の小冊子に載せられ、芝居茶屋や絵草子店に頒布された。これが歌舞伎の音曲正本である。 筆者は江戸版の長唄本について広く書誌調査を行ってきた。伝本は、享保十六年(一七三一)から明治期にわたりほぼ継続して残っている。長唄正本には上演後も稽古本としての用途があったため、多くの版元が再販を手がけており、異版の非常に多いことが一つの特徴である。その伝本の多さからも、長唄本が地本の主要品目の一つであったことが窺える。異版はいずれも初版を踏襲した体裁をとっており、そのなかには、共表紙(本文と同じ料紙)に描かれる役者絵や外題・本文の書体などが初版に酷似するものも存在する。この異版の存在によって、地本における当時の偽版の実態や版権の確立する過程を知ることができるのである。本稿は、長唄本を江戸における草紙(地本)の一品目として捉え、版権の確立する過程(すなわち株板化)について考察したものである。 これを中村座の長唄本によって説明すると、以下の段階を経て株板化に進んでいる。まず、版元村山源兵衛は座と専属的関係をつくり、長唄正本の版行を独占する。するとこれに伴い、その独占的な利益に不正参入しようとする偽版も現れるようになる。その偽版には、村山版を版下に流用して作成する手法が多く用いられている。 次の段階として、村山源兵衛は、偽版の版元を相版元とし、出版にかかる経費を偽版の版元に担わせるようになる。これにより原版の不正利用に対する弁済の方策が立つようになったと考えられる。 寛政期になると版元が沢村屋利兵衛に代わり、蔵版して再版を数次行うかたちに版行形態が変化する。そして、再版に際しても沢村屋と他の版元との相版のかたちがとられ、沢村の原版に対する所有権は概ね守られていると見なされることから、株板化したと判断される。 これは、寛政二年(一七九〇)の出版令により、地本問屋仲間行事による新本に対する自主検閲が義務付けられるようになったことを受けて、地本にも版権を明らかにして取り締まりを強化する体制が整えられたことに連動した動きと捉えられよう。しかしその一方で、こうした長唄正本の版行形態の変化が、稽古本の需要の高まりを受けて再販性の高い出版物へと成長した長唄本の出版益を、座あるいは芝居町に取り込む目的のもとに、座側の主導によってもたらされている面は看過できない。