著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.237-260, 2011-03

本稿では、第二次大戦後の日本で主流になっていた「自然主義」対「反自然主義」という日本近代文学史の分析スキームを完全に解体し、文藝表現観と文藝表現の様式(style)を指標に、広い意味での象徴主義を主流においた文藝史を新たに構想する。そのために、文藝(literar art)をめぐる近代的概念体系(conceptual system)とその組み換えの過程を明らかにし、宗教や自然科学との関連を示しながら、藝術観と藝術全般の様式の変化のなかで文藝表現の変化を跡づけるために、絵画における印象主義から「モダニズム」と呼ぶ用法を採用する。印象主義は、外界を受けとる人間の感覚や意識に根ざそうとする姿勢を藝術表現上に示したものであり、その意味で、のちの現象学と共通の根をもち、今日につながる現代的な表現の態度のはじまりを意味するからである。 従来用いられてきた一九二〇年代後半から顕著になる新傾向には、「狭義のモダニズム」という規定を行い、ここにいう広義のモダニズムの流れに、どのような変化が起こったことによって、それが生じたのかを明らかにする。従来の狭義のモダニズムを基準にするなら、ここにいうのはモダニズム前史ないし"early modernism"からの流れということになる。 本稿は、次の三章で構成する。第一章「文藝という概念」では、日本および東アジアにおける文藝(狭義の「文学」、文字で記された言語藝術)という概念について、広義の「文学」の日本的特殊性――ヨーロッパ語の"humanities"の翻訳語として成立したものだが、ヨーロッパと異なり、宗教の叙述、「漢文」と呼ばれる中国語による記述、また民衆文藝を内包する――と関連させつつ、ごく簡単に示す。その上で、それがヨーロッパの一九世紀後期に台頭した象徴主義が帯びていた神秘的宗教性を受容し、藝術の普遍性、永遠性の観念とアジア主義や文化相対主義をともなって展開する様子を概括する。日本の象徴主義は、イギリス、フランス、ドイツの、それぞれに異なる傾向の象徴主義を受容しつつ、東洋的伝統を織り込みながら、多彩に展開したものだったが、その核心に「普遍的な生命の表現」という表現観をもっていた。これは国際的な前衛美術にも認められるものである。 第二章「美術におけるモダニズム」では、印象主義、象徴主義、アーリイ・モダニズムの流れを一連のものとしてとらえ、その刺戟を受けながら、二〇世紀前期の日本の美術がたどった歩みを概観する。 第三章「文藝におけるモダニズム」では、二〇世紀前期の日本美術と平行する文藝表現の動向を概観する。そして、それと狭義のモダニズムの顕著な傾向である表現の形式と構成法への強い関心との連続性と断絶を示す。ただし、広義のモダニズムの中には、もうひとつ、表現の即興性にかける流れも生まれていた。小説においては「しゃべるように書く」饒舌体で、それが一九三五年前後に、狭義のモダニズムに対して、ポスト・モダニズムともいうべき「この小説の小説」形式を生んでいたことをも指摘する。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.187-214, 2010-09

日本の一九二〇年代、三〇年代における(狭義の)モダニズム文藝のヴィジュアリティー(視覚性)は、絵画、写真、また演劇等の映像だけではなく、映画の動く映像技法と密接に関係する。江戸川乱歩の探偵小説は、視覚像の喚起力に富むこと、また視覚像のトリックを意識的に用いるなど視覚とのかかわりが強いことでも知られる。それゆえ、ここでは、江戸川乱歩の小説作品群のヴィジュアリティー、特に映画の表現技法との関係を考察するが、乱歩が探偵小説を書きはじめる時期に強く影響をうけた谷崎潤一郎の小説群には、映画的表現技法の導入が明確であり、それと比較することで、江戸川乱歩におけるヴィジュアリティーの特質を明らかにしたい。それによって、日本の文藝における「モダニズム」概念と「ヴィジュアリティー」概念、そして、その関係の再検討を試みたい。
著者
青山 玄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p69-78, 1990-03

諸国遍歴の修験者円空(一六三二―九五)は、日本古来の修験道や密教的仏教の伝統の上に立って大量の作品を残しており、そのうち「円空仏」四、三二〇体、和歌一、六〇〇余首、他に絵一八四枚が現存しているが、円空の出自に不明な点が多いことから、一九七三年以来、円空を十分の根拠なしに私生児と考え、洪水で非業の死を遂げた母の鎮魂供養のために仏像を彫り、諸国勧進に努めたかのように説く谷口順三氏の説が広まった。この説に基づいて、一九七四年にはラジオ・ドラマ「木っ端聖・円空」が放送され、一九八八年にはテレビ・ドラマ「円空」が放映された。――筆者は、谷口氏のこのような円空観がいかに根拠薄弱であるかを明らかにすると共に、同氏が軽視した『浄海雑記』『近世畸人伝』に読まれる円空略伝やその他の断片的史料、ならびに円空の和歌などから、彼が単に天才的芸術家であっただけではなく、かなりの教養の持ち主で、その家柄も悪くなかったと思われることを明示した。そして彼が生まれた頃や少年だった頃に、その故郷の村々では無数のキリシタンが処刑されたこと、また彼が仏像を作り始めた一六六三年は、その二年前から木曽川を挟んだ対岸の尾張国中島郡やその隣の扶桑群の数十ヶ村で、無数の農民がキリシタンとして検挙されていた時であったこと、ならびに彼が造仏に精を出していた頃の美濃尾張の農民が処刑されたキリシタンの鎮魂を一大関心事にしていたこと、その他から、円空造仏の一つの動機が、信仰のために殺された無数のキリシタンたちの鎮魂供養にあることを立証した。
著者
山本 冴里
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.47, pp.171-206, 2013-03-29

日本発ポップカルチャー(以下、JPC)に対する評価や位置づけは、親子間から国家レベルまで様々な次元での争点となった。そして、そのような議論には頻繁にJPCは誰のものか/誰のものであるべきかという線引きの要素が入っていた。本研究が目指したのは、そうした境界の一端を明らかにすることだった。
著者
本庄 総子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.7-20, 2015-03

税帳制度の始まりについては諸説あるが、大宝2年の大租数文作成命令は、従来考えられているような未熟な段階のものではなく、税帳制度の開始として積極的に評価されるべきものである。また、税帳の進上文言の分析を通してみれば、最初期の税帳には雑用記載の機能が備わっていなかったか、少なくとも主要な機能とはされていなかったことが確認できる。ただしそれは貯積を基本的属性とする正税の帳簿であるためであり、制度的な未熟と評価されるべきものではない。 天平6年の官稲混合は、大宝2年に成立した税帳に大きな変化をもたらした。税帳使の身分は国史生から国司四等官へと変化し、使者の責任が増大したことが窺える。また、税帳の名称も従来の収納帳から目録帳へと変化しており、公文としての重要度も増したものと考えられる。書式にも変化が見られる国があり、従来の倉札的な時系列書式から、雑用を別立てで記載する書式へと変化した。 官稲混合は地方財政、具体的には税帳雑用記載への監督強化と評価すべき面が強い。官稲混合の結果として、雑用記載には厳密なチェックが行われるようになり、見込みではなく実績での報告が求められるようになった。その結果、税帳の進上期限も翌年2月末に固定されていったものと考えられる。
著者
李 哲権
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.41, pp.219-230, 2010-03-31

漱石文学の研究には、一つの系譜をなすものとして〈水の女〉がある。従来の研究は、このイメージを主に世紀末のデカダンスやラファエル前派の絵画との結びつきで論じてきた。そのために「西洋一辺倒」にならざるをえなかった。拙論は、それとはまったく異なるイメージとして〈水の属性を生きる女〉という解読格子を設け、それを主に老子の水の哲学や中国の「巫山の女」の神話との関連で考察する。
著者
稲賀 繁美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.105-128, 2017-01

学術としての「美術史学」は全球化(globalize)できるか。この話題に関して、2005年にアイルランドのコークで国際会議が開かれ、報告書が2007年に刊行された。筆者は日本から唯一この企画への参加を求められ、コメントを提出した。本稿はこれを日本語に翻訳し、必要な増補を加えたものである。すでに原典刊行から8年を経過し、「全球化」は日本にも浸透をみせている話題である。だがなぜか日本での議論は希薄であり、また従来と同じく、一時の流行として処理され、日本美術史などの専門領域からは、問題意識が共有されるには至っていない。そうした状況に鑑み、本稿を研究ノートとして日本語でも読めるかたちで提供する。 本稿は、全球化について、①アカデミックな学問分野としての制度上の問題、②日本美術史、あるいは東洋美術史という対象の枠組の問題、③学術上の手続きの問題、④基本的な鍵術語(key term)の概念規定と、その翻訳可能性、という4点に重点を絞り、日本や東洋の学術に必ずしも通じていない西洋の美術史研究者を対象として、基本的な情報提供をおこなう。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-64, 2009-03

本稿は、安永七(一七七八)年から安政六(一八五九)年までを生きた幕臣筒井政憲に光を当て、幕末期の対外政策論争におけるその役割を考察するとともに、とくに後半において、そこに至る筒井の経験の蓄積を検討の対象とする。 今日、筒井の名が知られるのは、嘉永六(一八五三)年から翌年にわたり日露和親条約交渉にかかわったこと、弘化年間(一八四九年代半ば)に老中阿部正弘の対外顧問的な立場に登用されたこと、また、それ以前に江戸町奉行として高い評判を得たという事績程度であろう。本稿では、安政三(一八五六)年に下田に着任した初代米国総領事ハリスの江戸出府要求が、翌年にかけて幕府の一大議案となった経緯、その中で、幕府の最終的な出府許諾に重大な影響を与えたと考えられる筒井の議論に着目する。そこで示された筒井の論理は、日米関係の開始を、徳川幕府がその歴史を通じて維持してきた日朝関係の延長線上に整理する、すぐれて特異なものであった。 これは筒井が満七十八歳から七十九歳を迎える時期のことであり、長い職業生活の集大成と位置づけることができる。この地点からその人生をたどり直すとき、見えてくるのは、若き日からのさまざまな経験が、筒井という一人の人間の中に豊かに蓄積され、上記のハリス出府問題への態度に結実していく様である。具体的には、昌平坂学問所の優秀な卒業生として、文化八(一八一九)年の朝鮮通信使迎接のため対馬に赴く林大学頭の留守を預かった青年期から、日蘭貿易を拡大し、オランダ商館員らとの交流を深めた長崎奉行時代、そして、新たに「外国」として登場した欧米への対応と、幕末まで継続した朝鮮通信使来聘御用との双方にまたがる、幕府の対外政策形成に深く携わった最終的なキャリアまでを順に取り上げ、ハリス来日の時期に戻ることになる。 筒井の歩みは、「近世日朝関係史」「幕末の対欧米外交史」といった後世の研究上の区分を架橋し、徳川政権下において自然に存在したはずの、国際関係の連続性を体現するものと言うことができよう。
著者
下野 敏見
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.12, pp.p101-119, 1995-06

トカラ列島から奄美・沖縄の琉球文化圏の墓制は、亀の甲墓や破風墓、積石墓、崖下葬、その他、いろんなタイプがある。墓制によって、また地域によって先祖祭りの仕方もちがってくる。 これらの地域の広い意味の祖霊祭はいったいどのような経過をへて現在に至っているのだろうか。 琉球における墓制の基本的な流れは遺棄的風葬墓と洗骨改葬墓の二つがある。この二つに伴う祖霊祭は当然異なる。前者は葬ったきり墓地へは二度と行かぬのだが、その代り年に一度、家でありったけのごちそうをして、歓待する。しかし、トカラ列島では家の外に近い縁側の隅でこれを行う。このことは神窓の外の庭で行うアイヌの先祖祭りのシヌラッパとよく似ている。 祖霊には、浮遊霊と遠祖(高祖)霊、近祖霊があるが、正月や盆の正祖霊は近祖霊が主対象であり、高祖霊は、正月や節替りの来訪神として現れる。浮遊霊は邪霊であり、病災をもたらしたりするので、正月や盆には門松や水棚でちょっとごちそうして退散してもらう。種子島やトカラ列島の門松での祭りがそれを証している。 琉球の夏正月とヤマト文化圏の冬正月に伴う祖霊祭の比較や夏正月の一日目から七日目までの第一週目の正月と、ヤマトの第一週目とそれに続いての十五日までの第二週目が加わった正月との比較も重要であるようだ。
著者
吉本 弥生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.331-371, 2010-03

絵画の約束論争(一九一一~一九一二年)は、木下杢太郎・山脇信徳・武者小路実篤によって交わされた、当時の絵画の評価基準に関する論争である。三人の議論が起こった最初のきっかけは、木下杢太郎が、山脇信徳の絵画についておこなった批評にある。本稿は、論争の中心人物となった三人の言説を明確化し、従来、指摘されてきた「主観」と「客観」の二項対立からではなく、「主客合一」の視点で論争をとらえ直した上で、同時代の芸術傾向と、批評を合わせて考察した結果、三人の芸術観には、共通して「印象」ではなく、「象徴」がベースにあることが分かった。
著者
梁 青
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.48, pp.167-178, 2013-09-30

『新撰万葉集』(八九三年)はそれぞれの和歌に一首の七言四句の漢詩が配された詩歌集である。本論文では、『新撰万葉集』上巻恋歌に付された漢詩を取り上げ、そこに見られる日本的要素を探り、先行した恋歌との関連を考察することによって、それと中国および勅撰三集の閨怨詩との相違を明らかにし、『古今集』成立前夜における王朝漢詩の展開の一端を浮き彫りにしてみたい。
著者
伊藤 謙 宇都宮 聡 小原 正顕 塚腰 実 渡辺 克典 福田 舞子 廣川 和花 髙橋 京子 上田 貴洋 橋爪 節也 江口 太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.157-167, 2015-03

日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
著者
園田 英弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p71-87, 1992-09
被引用文献数
1

近世の京都図の分析を通して、「洛中」と「洛外」の関係や、「洛外」のより詳細な性格などを明らかにすることを目的としている。「洛外」は、性格の異なる緑地とのうちが存在し、近世の京都図の中では農地の部分が極端に縮小されて描かれていた。また神社仏閣・池・野原・丘・川などを中心とする緑地の部分は、京都が近世後期に古都化するのに対応して、しだいに拡大する傾向にある。近世以前から「洛中」と「洛外」は一組のものと考えられてきたが、それは密集した「洛中」の都市生活と、それを補完する不可欠の部分としての緑地のことであった。そして、「洛中」のすぐ外に広がる農地は、あたかも存在しないような空間として地図上には位置付けられていた。このような地図上の歪みこそが、ミヤコ意識の空間構造を表現しているのである。
著者
片桐 圭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.9, pp.230-184, 1993-09-30

ペリー提督が、それまで200年間鎖国を続けていた我々の国、日本を訪れ、そのドアを叩いたとき、『ニューヨーク・タイムズ』はすでに日本を見つめるための窓を大きく開いていた。(同紙は、日本国内のあらゆることに関心を持っており、)今、我々はその記事から、史実を知るのみではなく、わが国にたいする同紙の考え方をも読み取ることができる。当時、近代国家・国際国家へと変わろうとしていた日本にたいする認識を、である。 日米両国が外交関係を成立させた当初、『ニューヨーク・タイムズ』は、未知の国民との交渉に際しては、アメリカは彼らの信頼と好意を得るために何らかの努力をするべきだと主張し、武力を行使することを非難した。記事の内容は日本に対して非常に友好的だったが、それは日本側がアメリカの言いなりになっていたためだった。 一八六〇年代前半になると、『ニューヨーク・タイムズ』は日本に対してよい感情を持たなくなる。日本は未だ開国に躊躇しており、その混乱の中で、日本政府はしばしば国際社会のルールを破った。『ニューヨーク・タイムズ』は日本での混乱の理由を理解しようとし、日本固有の制度、とりわけ天皇と大君が並立する二重権力構造と封建制について考察しようとするのである。 一八六〇年代後半になると、日本はついに開国を決意、各国と友好関係を築くための基盤を整えていった。そして戊申戦争後、『ニューヨーク・タイムズ』は、日本が二重の権力構造と、封建制を完全に捨て去り、文明国家の一員にまで成長したことを認めるのである。
著者
依岡 隆児
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.38, pp.265-279, 2008-09-30

ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
著者
魯 成煥
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.117-146, 2014-03-31

本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。
著者
成 恵卿
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.4, pp.p167-196, 1991-03

十九世紀末から始められた英訳の歴史において、注目すべき一冊は、フェノロサ=パウンドによる『能―日本古典演劇の研究』 'Noh' or Accomplishment, a Study of the Classical Stage of Japanである。これは、パウンドがフェノロサの能の遺稿を編集・完成した本であるが、この一冊を世に出すまで彼が注いだ情熱や努力は並々ならぬものであった。その周辺には、伊藤道郎、久米民十郎、郡虎彦などの若い日本人芸術家たちがおり、パウンドの能理解、とりわけ舞台面での理解を助けた。一九一六年に出版されたこの一冊は、西洋の読者に、能の劇世界の美と深さを広く伝えるとともに、同時代の芸術家たちにも新鮮な衝撃を与えたのである。この時期におけるパウンドの能への関心は甚だ高く、自らも能をモデルとした幾つかの劇作品を書いた。 能訳集の出版の仕事を終えた後も、パウンドの能への関心は消えることなく、特に一九三〇年代からは能への関心が再び高まり、以降能は、パウンドにとって、自分と日本とを結ぶ重要な媒介物となった。 後年のパウンドの生涯には、能にまつわる興味深いエピソードが多い。それらのエピソード、そして書き残された様々な文章からは、彼の能への愛着さらには執着が鮮やかに浮かび上がる。 パウンドの能理解には、確かに限界があり、断片的なものにすぎないところがあった。また時には、懐かしい過去の思い出として、かなり理想化された節も窺える。しかし、能の文芸的価値がまだ日本でも十分に認められていなかった時期に、能に前述のような強い関心を示したことは注目に価する。なお、彼のそうした能への情熱が、周辺の人々にまで少なからぬ影響を及ぼした点を考えるとき、西洋世界への能の伝達史において、彼が果たした役割は大きく、かつ意義深いものであったと言える。
著者
ヴォヴィン アレキサンダー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.39, pp.11-27, 2009-03-31

最近日本祖語、琉球祖語と日琉祖語の再構が非常に進んだとは言え、まだ不明な箇所が少なからず残っている。特に、日本語にない琉球語の特別な語彙と文法要素、また、琉球語にない日本語の特別な語彙と文法要素が目立つ。それ以外にも、同源の様でも、実際に説明に問題がある語彙と文法要素も少なくない。この論文では、そうしたいくつかの語彙を取り上げる。結論として次の二つの点を強調したい。先ず、琉球諸言語の資料を使わなければ、日琉祖語の再構は不可能である。第二に、上代日本語と現代日本語の本土方言には存在しない韓国語の要素が琉球諸言語に現れていることを示そうとした。私の説明が正しければ、ある上代韓国語の方言と琉球祖語の間に接点があったことを明示する事になるであろう。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.45, pp.185-236, 2012-03-30

明治維新によって日本の伝統的芸能が大きな打撃を受け、茶の湯も衰退を余儀なくされたことはしばしば指摘される。しかし、上層階級を中心とする「貴紳の茶の湯」の世界では、ひとあし早く茶の湯が復興し始めていた。この茶の湯の復興を先導したのは、旧大名、近世からの豪商にくわえて、新たに台頭した維新の功臣、財閥関係者らの、「近代数寄者」とよばれる人々である。