著者
平山 朝治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.125-145, 2002-02

古沢平作が、エディプス・コンプレックスという父性原理によって特色づけられる西洋諸国民と日本人を対照するために、阿闍世コンプレックスという母性原理を定式化して以来、河合隼雄らによって、日本は母性社会であるとしばしば主張されてきた。しかし仏典における本来の阿闍世物語は父性的でエディプス物語と極めて似たものである。古沢が阿闍世物語を母性的なものとして解釈した理由は、阿闍世コンプレックスに関する自分の論文を、エディプス・コンプレックスを定式化したフロイトに見せようと意図したさい、彼はフロイトを精神分析の偉大な父として尊敬していたため、阿闍世物語解釈において父と息子の間の葛藤を無意識のうちに抑圧してしまったからである。したがって、私たちは阿闍世コンプレックスを、父―息子間葛藤が日本の母の特徴的な役割によって抑圧されたような、エディプス・コンプレックスの一つのヴァージョンとみなすべきである。土居健郎によって精神分析に導入された「甘え」という概念は、母と息子との間の親密な関係に由来するものであり、父―息子間葛藤を宥め、日本の伝統的なイエを父から嫡子へと継承させるのに貢献している。阿闍世コンプレックス、「甘え」や母性社会といった心理学的概念は、エディプス・コンプレックスを適用できる父性社会と対比しながら日本社会を特徴づけるために用いられてきた。しかし、このような対比は誤解を呼びがちであり、イエの構造的特徴から伝統的日本社会に広まっている父性と母性をともに演繹しなければならないと、私たちは主張する。脱産業社会においては父母の権威はともに不可避かつ不可逆的に衰えてきた。したがって、そのような権威の再建を唱えるような処方は現実的ではないと私たちは考える。私たち日本人は今日、もっと個人主義的にならなければならないが、母―息子の絆を断ちきるような西洋型の父性的権威なしでそうしなければならない。近親相姦をめぐる願望と禁止との間の心理的葛藤は、エディプス・コンプレックスにおいては母―息子関係に関して強調されてきた。他の家族成員間の関係についても、似たような葛藤を私たちは見出すことができる。なかでも、兄―妹関係と父―娘関係は、現代日本社会における「甘え」の病的な過剰から私たちを解放するために役立ち得るだろう。
著者
山下 博司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.13, pp.221-185, 1996-03

国語学者大野晋氏の所謂「日本語=タミル語同系説」は、過去十五年来、日本の言語学会やインド研究者たちの間で、センセーショナルな話題を提供してきた。大野氏の所論は、次第に比較言語学的な領域を踏み越え、民俗学や先史考古学の分野をも動員した大がかりなものになりつつある。特に最近では、紀元前数世紀に船でタミル人が渡来したとする説にまで発展し、新たなる論議を呼んでいる。本稿では、一タミル研究者の視点に立ち、氏の方法論の不備と対応語彙表が抱える質的問題を指摘し、同系説を学問的に評価する上で障害となる難点のいくつかについて、具体的な事例に即しながら提示することにしたい。
著者
東 晴美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.305-332, 2011-10

近代の歌舞伎研究については、明治以降に新作された作品、得に局外者と呼ばれる文学者が手がけた新歌舞伎に注目されることが多い。しかし、前近代に初演された純歌舞伎狂言も、近代を経て現代に伝えられている。本稿では、江戸時代に初演され、現代においても中学生や高校生の歌舞伎鑑賞教室などでも上演される機会の多い「鳴神」をとりあげる。「鳴神」は明治期に二代目市川左団次によって復活上演された。左団次は小山内薫とともに自由劇場をたちあげ、近代劇にも深く関与した。本稿は、左団次が渡欧した一九〇七年から一九一〇年の「鳴神」の復活上演までの活動を検証し、前近代の作品が現代に継承される過程で、近代の知識がどのように関わったのかを明らかにする。これまでの二代目市川左団次の評価は、新歌舞伎や翻訳物を手がけ、小山内薫と自由劇場を立ち上げたことから、「近代的」とされることが多い。しかし、左団次の近代性がどのようなものなのか、明らかにされてこなかった。本稿では、松居松葉と二代目市川左団次の一九〇七年における渡欧体験を分析し、左団次の近代性は一九〇七年のヨーロッパの演劇の動向と深く関わっていることを指摘した。また、左団次が復活上演した「鳴神」は、劇評や左団次の芸談が「自然主義」に触れているため、近代の自然主義を取り入れたものと指摘されてきた。しかし、日本における自然主義は近年の研究で、十九世紀末二十世紀初頭においては極めて多義的で象徴主義や表現主義にも連なっていくことが明らかにされてきた。本稿は、このような研究成果を踏まえて、復活上演された「鳴神」にみられる自然主義が同時代の文芸思潮と密接に関係するものであったことを検証した。
著者
ジョージ プラット アブラハム
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.67-93, 2007-09-28

宮沢賢治は、詩人・童話作家として世界中に知られるようになった。岩手県出身の賢治の作品に岩手県もなければ、日本もなく、「宇宙」だけがあるとよく言われる。まさにその通りである。彼のどの作品の中にも、彼独自の人生観、世界観及び宗教観が貫いていて、一種の普遍性が顕現していることは、一目瞭然である。彼の優れた想像力、超人的な能力、そして一般常識の領域を超えた彼の感受性は、日本文学史上、前例のない一連の文学作品を生み出した。賢治の文学作品に顕現されている「インド・仏教的思想」、つまり生き物への慈悲と同情、不殺生と非暴力主義、輪廻転生、自己犠牲の精神及び菜食主義などの観念はどんなものか、インド人の観点から調べ、解釈するとともの賢治思想の東洋的特性を強調することが、本稿のねらいである。
著者
松本 和也
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.91-122, 2019-10

本稿では、昭和10年代(1935~1944)の国民文学論を再検証した。先行研究の検証によれば、従来、昭和10年代の国民文学論は、不毛なものだとみなされてきた。昭和10年代の国民文学論は、すぐれた実作や厳密な定義を生みだすことがなかった、と捉えられてきたからだ。それに対して、同時代の視座から国民文学論を捉え直すことを目指し、広範な言説(主には新聞・雑誌上の記事)の調査と分析によって、その歴史的な意義を考察した。1章で示した問題関心につづき、2章で、1937年の国民文学論(昭和10年代における国民文学論第一のピーク)を検証した。そこでは、国民という概念をめぐって、さまざまな立場からの議論が交錯していた構図を整理しながら、国民文学論についての言説を分析した。3章では、数年間のブランクを経て後に、再び盛んになった1940~1941年の国民文学論(昭和10年代における国民文学論第2のピーク)を検証した。この時期の国民文学論に、政治の影響力が大きく関わっていることを重視した。その上で、政治と文学との関係に注目しながら、国民文学論の多様な論点について、整理と分析を行った。これらの作業を通じて、一つの結論へと至ることのなかった国民文学論の論点を、六つに整理した。その上で、国民文学論の多様な論点・立場が、文学の諸問題に関する議論としても重要な議論であったことを明らかにした。最後に、4章で、昭和10年代後半における、国民文学論の変化を分析した上で、国民文学論が国策文学と重なっていくことを確認した。以上の分析成果をまとめ、国民文学論がインターフェイスとなって昭和10年代の文学のさまざまな問題を浮かび上がらせたことこそが、その歴史的意義であると論じた。
著者
林 慶花
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.103-135, 2010-03

本稿は、植民地期朝鮮の言語政策における唱歌の位相を普通学校の唱歌教育を分析することによって明らかにし、それとは対自的に存在した朝鮮語教育と朝鮮語唱歌との関係を、民間主導でなされた文字普及運動や『朝鮮語読本』レコード製作に焦点を合わせて追求したものである。植民地朝鮮における音による「皇民化」は「上から」の「国語」の音の強制と「下から」の朝鮮語の音の抑圧・排除からなる政策であり、唱歌教育はそれを身体化しようとする試みだったといえる。少なくとも学校の場では朝鮮語唱歌を動員しようとする動きはほとんどみられなかったか極めて歪曲された形で成された。それは根本的に日本語は国民精神の精髄でなければならない「国語」であるにもかかわらず、植民地末期まで相変わらずその朝鮮社会への浸透には限界があったという事実と関連がある。普及率が依然として低調な「国語」としての日本語に代わって噴出する国民精神を効果的かつ派手に装うことができたのは、公共の場で斉唱される唱歌や軍歌などの歌だったからである。また「国語」の普及率の低さ故に朝鮮語も積極的に統治に活用しなければならなかった植民地勢力にとり朝鮮語は情報の効率的な伝達のための主段として管理されたのみで、朝鮮語唱歌による情報涵養や、まして朝鮮語唱歌の斉唱による音の共同性の実現は念頭にもなかったのである。しかし、教育の場で実現されなかった朝鮮語と朝鮮語唱歌との結びつきは主にメディアの場で多様に試みられ、時には体制に吸収されたり、時には「国語」という恩の共同性のもつ虚像を攪乱させたりした。何故なら、植民地朝鮮における「国語」政策が「国語」の内面化には失敗したまま音の共同性を性急かつ過激に推し進めるものだったからである。
著者
片桐 圭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.230-184, 1993-09-30

ペリー提督が、それまで200年間鎖国を続けていた我々の国、日本を訪れ、そのドアを叩いたとき、『ニューヨーク・タイムズ』はすでに日本を見つめるための窓を大きく開いていた。(同紙は、日本国内のあらゆることに関心を持っており、)今、我々はその記事から、史実を知るのみではなく、わが国にたいする同紙の考え方をも読み取ることができる。当時、近代国家・国際国家へと変わろうとしていた日本にたいする認識を、である。

1 0 0 0 IR 海界の彼方

著者
久野 昭
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.4, pp.p11-40, 1991-03

リップ・ヴァン・ウィンクルに当たる日本の伝説の主人公、浦嶋児は漁夫であった。或る日、釣果を得ぬままに、彼はどこまでも漕ぎつづけ、ついに美しい亀を釣りあげたが、その亀は海神の娘だった。海界(うなさか)の彼方で、おのが正体を彼に示した娘は、彼を自分の家に案内した。すなわち、漁夫は他界へと入った。現実のこの世界に帰還した時、浦嶋児はリップ・ヴァン・ウィンクルと全く同様に、この世と他界との間の時間経過の相違を体験しなければならなかった。しかし、浦嶋児伝説にはリップ・ヴァン・ウィンクル伝説とは異なるいくつかの要因があり、それらの要因は日本の文化的なアスペクトによって、とりわけ日本的な霊魂観と他界観によって条件付けられている。本稿の目的は、浦嶋児伝説の検討を通じて、その霊魂観・他界観を明らかにすることにある。
著者
小林 茂子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.235-257, 2014-09

本稿は、開戦前後すなわち、日米開戦をはさんだ一九三〇年代後半から一九四〇年代初頭におけるマニラ日本人学校の教育活動の内容を検討する。マニラ日本人学校は、戦前期フィリピンの日本人学校十八校のうち(在外指定を受けたのは十六校)、いちばん早い一九一七年に設立され、また、南洋における日本人学校の中で最も現地理解教育に力を入れた学校といわれていた。このマニラ日本人学校では開戦をはさんで、日本軍の占領後、軍政下に至る過程においてどのような変容が見られたか。現存する資料『フィリッピン読本』(一九三八年四月)、『比律賓小学歴史』(一九四〇年三月)、『比律賓小学地理』(一九四〇年五月)、『とくべつ児童文集』(一九四二年八月)を手がかりに同校の教育活動を明らかにすることが本稿の目的である。 この四点の出版物はみな、「発行所 在外指定マニラ日本人小学校」「代表者 河野辰二」となっており、これらの出版物はどんな内容で、またどのような意図で編纂されたのかを、時代背景を吟味しつつ辿ることで、同校の教育活動の変容を探ることができるのではないかと思われる。すなわち、『フィリッピン読本』からは、一九三〇年代後半にマニラ日本人学校が現地理解に基づく教育活動を行っていたことを具体的に知ることができる。その後外国人学校への統制が徐々に強まる中、一九四〇年に入っても現地尊重の姿勢を保とうとする努力をしつつ、『比律賓小学歴史』『比律賓小学地理』が発行されている。しかし開戦後、一九四二年一月三日から軍政が始まると、同校は軍政府に協力的な中心校としての役割を担わざるを得なかった。『とくべつ児童文集』には、「学校ごよみ」が掲載されており、同校の開戦後の教育活動が記録されている。また児童の作文からはその時の心情を窺うことができる。 戦前期の占領地における日本人学校は日米開戦後、軍政府の統制のもと教育活動の大幅な変容を余儀なくされ、最後は戦局悪化とともに閉鎖へとつながっていった。戦争へと進む歴史的動きを追いつつ、在外日本人学校の辿った経緯を、マニラ日本人学校の事例をもとに現存する資料の分析とその背景を通して具体的に考察を進める。
著者
Herrigel Eugen 秋沢 美枝子 山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.253-262, 2008-09

オイゲン・ヘリゲルが戦時中に出版したもののうち、その存在がほとんど知られていない未翻訳エッセイを研究資料として訳出する。ヘリゲルのエッセイは、日本文化の伝統性、精神性、花見の美学、輪廻、天皇崇拝、犠牲死の賛美について論じたものである。その最大の特徴は、彼の信念であったはずの日本文化=禅仏教論には触れずに、そのかわりに国家神道を日本文化の精神的な支柱に位置づけた点にある。
著者
白木 利幸
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.187-212, 2000-03

海洋信仰の一種である辺路信仰を起源とする四国遍路は、中世以降に弘法大師信仰が成立して、巡礼の一形態として今日に伝えられた。しかし、江戸時代以前はプロの修行者によってのみおこなわれるものであって、在家信者の姿はほとんど見ることができなかった。そのような四国遍路の一般開放に貢献したのが宥辨真念であり、その業績について本論において詳細に考察する。 真念は二十回以上の四国遍路をおこなったとされており、高野聖の性格を有した僧と思われる。しかし、その生涯については、自ら『四国徧禮功徳記』に「大阪寺嶋頭陀真念」と記している以外は、不明な点が多い。ただ、没年に関しては、墓石と供養石仏が近年になって発見され、元禄四年(一六九一)六月二十三日ということがあきらかになった。 四国遍路における真念の業績には、次の三点をあげることができる。第一に、遍路専用の簡易無料宿泊所である辺路屋を、最大の長丁場の中間点にあたる土佐国市野瀬に建立して、真念庵と名づけられたこと。第二に、遍路のための標石を四国の各地に造立したこと。第三に、高野山の学僧寂本の協力を得て、四国遍路の案内書として、『四國邊路道指南』一巻、『四國徧禮霊場記』七巻、『四國徧禮功徳記』二巻を出版。これらの案内書は四国内だけではなく、大坂や高野山にも販売所を指定して、関西からの遍路の誘致を図っている。なかでも道中記にあたる『四國邊路道指南』は、増補大成本として明治期まで再編しながら出版され続けた。 それまでの修行の場だった四国遍路が、江戸時代初期に行われた真念の活動によって庶民化されたのであり、現在の遍路が決定づけられたといっても過言ではない。
著者
戦 暁梅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.105-134, 2002-04

日本文人画の「最後の巨匠」と称賛される富岡鐡斎は近代日本画壇において非常に象徴的、且つ矛盾に満ちた存在である。彼は全く東洋的な教養から出発しながらも、画面一杯に漲る力強いタッチ、原色に近い鮮やかな色彩表現、ユーモラスな筆触などの要素を混合させながら独自の画風を作り上げた。この画風は原始主義、稚拙、醜さの賛美を求める西洋の近代絵画に通じるところがある。伝統の文人画から出発し、文人画家の道を貫いた富岡鐡斎は、何を求めてこのような画境に至ったのか。今までの鐡斎の藝術観に関する研究は殆ど彼が文人画の一般論を語った幾つかの資料をまとめたものであるが、あの近代的な画風を連想させる鐡斎自身の独自な芸術観はなかった。この小論は、今までほとんど見落とされてきた鐡斎画の賛文を主な手がかりとして、改めて画家富岡鐡斎の藝術観を検討する試みをしようとするものである。賛文の分析を通じて、伝統からの逸脱、画風における「痴・奇・拙・醜」の追求、自我と「心」の重視、遊び心などが鐡斎藝術観の大きな特徴として浮上し、これらの特徴が個性溢れる鐡斎の画風の根底にあることが明らかになった。伝統文化の中から新しい表現の方法を求めて形になった富岡鐡斎の藝術は、西洋様式の取り入れに焦る日本の美術界に日本画、文人画を発展させるもう一つのあり方を提示した。また、印象派や後期印象派が西洋の近代美術の発端となったのと同じように、鐡斎は文人画の分野を超えて、日本の近代美術において大きな役割を果たした。文人画の伝統を受け継ぎながら、その中に潜む正統に反する部分を大切にし、これをベースに築き上げや豊かな近代感覚に、鐡斎藝術の最も大きな意義がある。

1 0 0 0 OA 陽夏の謝氏

著者
井波 律子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.135-145, 2007-05-21
著者
趙 維平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.11-41, 2011-03

中国は古代から文化制度、宮廷行事などの広い領域にわたって日本に影響を及ぼした。当然音楽もその中に含まれている。しかし当時両国の間における文化的土壌や民族性が異なり、社会の発展程度にも相違があるため、文化接触した際に、受け入れる程度やその内容に差異があり、中国文化のすべてをそのまま輸入したわけではない。「踏歌」という述語は七世紀の末に日本の史籍に初出し、つまり唐人、漢人が直接日本の宮廷で演奏したものである。その最初の演奏実態は中国人によるものであったが、日本に伝わってから、平安前期において宮廷儀式の音楽として重要な役割を果たしてきたことが六国史からうかがえる。小論は「踏歌」というジャンルはいったいどういうものであったのか、そもそも中国における踏歌、とくに中国の唐およびそれ以前の文献に見られる踏歌の実体はどうであったのか、また当時日本の文化受容層がどのように中国文化を受け入れ、消化し、自文化の中に組み込み、また変容させたのかを明らかにしようとしたものである。
著者
バスキンド ジェームス
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.125-161, 2008-03-31

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。
著者
池内 恵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.109-120, 2007-09-28

日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。
著者
速水 融
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.135-164, 1993-09-30

日本における第一回の国勢調査は、大正九年のことで、主要工業国のなかでは最も遅く始まった。しかし、全国的人口統計は早くから行われ、徳川時代においてさえ、幕府は、享保六年から弘化三年の間、六年に一回、国ごと、男女別の人口調査を行っている。
著者
尾本 恵市
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.14, pp.197-213, 1996-07

本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。(一)古典的人種分類への疑問、(二)日本人起源論、(三)アイヌの遺伝的起源。まず、第一章で筆者は、人種という概念を現代生物学の見地より検討し、それがもはや科学的に有効ではなく、人種分類は無意味であることを示す。第二章では、明治時代以降の様々な日本人起源論を概観し、埴原一雄の「二重構造説」が現在の出発点としてもっとも適当であることを確認する。筆者は、便宜上この仮説を次の二部分に分けて検証しようとしている。第一の部分は、後期旧石器時代および縄紋時代の集団(仮に原日本人と呼ばれる)と、弥生時代以後の渡来系の集団との二重構造が存在するという点、また、第二の部分は、原日本人が東南アジア起源であるという点についてのものである。筆者の行った分子人類学的研究の結果では、第一の仮説は支持されるが、第二の仮説は支持できない。また、アイヌと琉球人との類縁性が遺伝学的に示唆された。第三章で筆者は、混血の問題を考慮しても、アイヌと東南アジアの集団との間の類縁性が低いという事実に基づき、アイヌの起源に関する一つの作業仮説を提起している。それは、アイヌ集団が上洞人を含む東北アジアの後期旧石器時代人の集団に由来するというものである。また、分子人類学の手法は起源や系統の研究には有効であるが、個人や集団の形態や生活を復元するために、人骨資料がないときには先史考古学の資料を用いる学際的な研究が必要であると述べられている。
著者
杜 勤
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.20, pp.69-80, 2000-02

日本神話は中国の経典・史書の構造的受容と同時に、思想体系の上でも中国思想の潤色を受けたと考えられる。小論ではイザナキ・イザナミ神話、アマテラス・スサノオ神話、天の石屋戸神話を取り上げて、老荘思想を中心に、「記・紀」神話における弁証法的思考の解読を試みてみたいと思う。天地の分離後、イザナキはイザナミを追って黄泉を訪問して、ヨミガヘリした。イザナキの懇願によってイザナミはいったん生の世界に帰ろうと決意した。なお最終的には、イザナキは父なる天になることによって「永遠の生」を得、一方ではイザナミは母なる大地の存在になりきれ、永遠な「死」を得たが、創成神になったことには変わりない。明らかにこの永遠の「生」・「死」両カテゴリーは是・非、善・悪という価値判断に左右されない性格を持っており、弁証法的な不可分性を語っている。スサノオは天上では悪や禍事の元凶であり、アマテラスの対立面として現れたが、地上での彼の姿はそれとは打って変わってすこぶる平和的な英雄神である。対立するものはそれぞれ正と反の間をさまよいながら、双方間の対立を繰り返していく。そして相互転化しながら、結局相補相成の関係を作っていく。天の石屋戸では宇宙の中に神と人間が共々にあるという宇宙観が語られている。それは寛容と融通性を特色とし、超越的至上神に支配され、不寛容と非妥協性を特色とする宇宙観と著しい対比を為している。彼・此、是・非の対立を超越し、それらを一体に包容しながら、それらを根源的な統合性から達観する。神話に投影されるこの弁証法的思考は日本人の思想、宗教、社会を支える重要な礎と言える。