著者
福井 拓也
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.32-45, 2020-11-15 (Released:2021-11-15)

昭和三年一二月二五日の小山内薫の急逝、それに続く築地小劇場の分裂後、新劇界は左翼演劇とその他──〝前衛派〟と〝芸術派〟とに二分されることになった。しかし唯美主義的と理解されてきた〝芸術派〟が、実際に何を目指してきたのかについては、これまで問われてこなかった。本稿はその課題に応じるものである。具体的には築地座と久保田万太郎との関わりに注目し、第二十七回公演でとりあげられた戯曲「釣堀にて」の表現世界を細かに分析した。そして「釣堀にて」の特異なありように、役者や戯曲といった演劇を構成する諸要素の相互的な検討を通じて、個々に新たな表現を、そして演劇の可能性を探究した点にこそ、当時の〝芸術派〟の実相が理解されるのだと結論づけた。
著者
木村 政樹
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.80-95, 2022-05-15 (Released:2023-05-15)

本稿では本多秋五「文芸史研究の方法に就いて」について、文芸の「評価」をめぐる議論を中心に考察した。文芸の「評価」とはなにかという問いは、現在においても解決していない問題であり、こうした視座からみれば、本多の文芸史論は人文社会科学という知について考えるうえで今もって重要である。本多は文芸史に「評価」が必要であると唱えたが、それは「歴史」のなかに複数の「可能性」を探ろうとするものであった。本多はプロレタリア文化運動における「実践」の問題として「評価」を捉えながら、このような文芸史研究のあり方について思考していたのである。
著者
永井 聖剛
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.34-49, 2022-05-15 (Released:2023-05-15)

文学テクストの作中人物は〈穴〉を潜ってあちら側に赴き、そうすることによって主人公となる。また同時にこのとき、三人称で語られていた物語言説は、おのずから一人称的──自由間接話法的な文体への変成を遂げる。どうしてこんなことが起こるのだろうか。本稿は、『浮雲』『蒲団』『羅生門』『屋根裏の散歩者』『雪国』などにあらわれた〈穴〉と、それに伴って現象した「話法の転換」とに着目しながら、日本近代文学における自由間接話法的な文体生成の歴史的意義もしくはその蓋然性について考察するものである。この試論を通じて、「作家」や「聖典」に拠らない文学史、すなわち間テクスト的な表現史・文体史記述の可能性についても問題提起をおこなってみたい。
著者
多田 蔵人
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.1-15, 2021-11-15 (Released:2022-11-23)

本稿は森鷗外『舞姫』(明治二三年)の分析を通じて、本作を明治二〇年代の文体史に位置づけるものである。一章では「雅文体」と定義される本作に複数の修辞が用いられ、修辞の変動に託されたメッセージがあることを示した。二章では主人公・太田豊太郎の都市描写を同時代の表現と比較し、太田が複数の言語を往還する名文家であることを指摘し、エリスとの関係もまた言葉をめぐる物語であることを示した。三章ではエリスの手紙を同時代書簡文と比較し、手紙が太田に教えられた言葉づかいであることによって太田の言葉を覆い隠す装置になっていることを示した。四章では太田がエリスと育んだ愛の言葉にとらわれながら別れの物語を綴る膠着状態にあることを指摘し、同時代小説論と比較しつつ、文章啓蒙の不可能性を示した作品として『舞姫』を評価している。
著者
伊藤 かおり
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.33-48, 2013-11-15

本論は、これまで統一的な構造が見出し難いと評されてきた夏目漱石『彼岸過迄』(一九一二年)の分析を通して、世間から期待される男たちの暗闘を個人-世間-社会を繋ぐメカニズムとして浮かび上がらせる試みである。具体的には、明治期末の新青年たちに向ける年長者たちの期待に着目しながら、『彼岸過迄』に描かれる男たちの<嫉妬>の連鎖を分析する。彼らが抱く<嫉妬>の質を問い直すことで明らかになるのは、男たちの競争意識に根ざした期待が相手の失敗を望むような期待であること、またそれが彼らの不安を生じさせていることである。この分析を通して、これまで議論の中心となっていたこの小説の内容面と構成面を有機的に結びつける糸を新たに浮かび上がらせる。
著者
野田 直恵
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.33-48, 2016

<p>明治時代、西洋の象徴主義は仏教を介して日本人に受容された。岡本かの子はこうした時代に、「生命は体験を通して、象徴的手法で、具体化出来る」という創作指針を見出した。だから、この作品に示された「椽先」は世界の縮図となっている。椽先には花などが置かれ、それらを強い光が照らし出す。そして、この「シーン」が幻想詩派たちを喜ばせると主人公は語る。このシーンが「法華経」に拠ったものだからである。豊かな比喩によって生命の実態を説くのが「法華経」である。この作品を読む幻想詩派たちはこのシーンに象徴される普遍的な生のあり方をやがて見出す。かの子は幻想詩派の視点で仏教的比喩を用い、生命の姿を示したのである。</p>
著者
瀬崎 圭二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.122-136, 2015-11-15 (Released:2016-11-15)

安部公房の脚本による「目撃者」は、一九六四年一一月二七日に放送されたテレビドラマである。このドラマは姫島に起こった実際の集団暴行致死事件を素材としており、この事件は当時のメディアで「西部劇」や「映画」になぞらえられていた。ドラマは、事件を再現表象するドキュメンタリー・ドラマの制作そのものを描いており、そのような方法を採ることで、関係者による事件の隠蔽を批評する立場に立つと共に、事件の再現表象の困難を伝え、さらには映像による再現表象そのものを問いかけようとするのである。このような方法を採用した「目撃者」は当時も高く評価されていたが、ドキュメンタリー番組が定着していった当時の状況を相対化する表現としても評価できよう。
著者
木戸浦 豊和
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.33-48, 2017-05-15 (Released:2018-05-15)

本稿は、夏目漱石・島村抱月・大西祝の文学論や批評論を取り上げ、それらを「同情」概念の観点から考察した。三者の文学論・批評論は鍵語として「同情」の語を共有し、その概念は、他者と同一化する原理(「同情的想像力」)と、自己や他者の言動を公平に判断し、評価する原理(「同情的公平性」)の二つの面を合わせ持っている。本稿は、このような共感性と公平性とを兼ね備える「同情」概念は、アダム・スミスに代表される一八世紀西洋道徳哲学における《sympathy》の原理と接触する中から、新たに再編・形成された可能性があるという仮説を提示した。一方で本稿は、三者の「同情」概念を明治二〇年代と四〇年前後の文学場や社会状況との関連で捉え返した上で、それぞれの「同情」概念の固有の特徴についても論及した。