著者
大木 志門
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.77-92, 2015

<p>本論は、「文学館」をめぐる歴史研究の試みである。一般に「文学館」の歴史は戦後の「日本近代文学館」設立(一九六二年)に始まるとされるが、実は戦前にも文壇をあげた「文学館運動」の萌芽が存在した。昭和九(一九三四)年に組織された「文芸懇話会」最初の事業「物故文芸家遺品展覧会」と併せて提起された「文芸記念館」構想がそれであり、主唱者である島崎藤村は文芸統制を利用して近代文学資料の保管施設を作ろうとしたのである。藤村が着想を得たのは昭和七(一九三二)年に新装された靖国神社「遊就館」からであり、この事業を菊池寛と「文芸家協会」が継承し昭和一四(一九三九)年に「文芸会館」を建てたが、それは当初の計画とは外れたものであった。しかし藤村の執念は昭和二二(一九四七)年開館の「藤村記念館」を生み、これが戦後の文学館運動を準備したと考えられる。</p>
著者
山本 芳明
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
no.29, pp.p1-16, 1982-10
著者
和泉 司
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.77-92, 2014-05-15

邱永漢は台湾の日本語文学研究において、<台湾人>として最初の直木賞受賞者として注目されているが、その研究は十分進んでいるとは言えなかった。今回、邱永漢の代表作の一つ「濁水渓」に、これまで気付かれていなかった「第三部」が存在することがわかった。この「濁水渓」第三部は、第二部で香港亡命を決意した主人公「私」が香港に渡って台湾独立運動に関わる姿を描いていたが、第三十二回直木賞候補に「濁水渓」が選ばれた時には、単行本から削除されており、読まれなかった。本稿では削除の理由として、当時の国際状況を考慮した出版社・作家の自主規制の可能性を指摘した。そして、邱永漢はこの第三部をより<大衆文学>的に置き換え、政治性を希薄化させたものとして「香港」を執筆することで、直木賞受賞を果たしたと推測した。直木賞に象徴される日本の文壇と読者が邱永漢という作家を見出したことは評価できるが、彼が描いた東アジアの問題点からは目をそらしていた。この文学賞の意義と限界を指摘し、邱永漢のテクストの再検討に取り組むことの重要性を訴えた。
著者
生住 昌大
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.1-16, 2014-05-15

本稿は、従来は想像で語るしかなかった、「西南戦争錦絵」と、新聞報道や文学作品との関わりを実証的に示し、西南戦争時の報道言説の展開を考察するものである。そして、そこからさらに、未だ不明な明治一〇年代の出版界の粗描を試みた。明治一〇年代には、「異種百人一首」の盛り上がりがあり、「賊徒」を忠・孝・義・貞の徳目を備えた人物たちとして描いた「西南戦争錦絵」がその素材源となった。この「異種百人一首」の流行は、明治一〇年代の出版界が、そうした主題を新たに獲得したことを示すのである。「西南戦争」という視座は、文学・浮世絵研究の空白域である明治一〇年の出版界を考究していく際に欠かせぬことを述べた。
著者
甘露 純規
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.16-31, 2019-11-15 (Released:2020-11-15)

江戸期、抄録は読書の際に、気に入った文章を抜き書きし記憶する行為だった。こうした抄録は読者にとって単に文章表現を記憶するだけでなく、気の概念を媒介として、自らの作文のための想像を掻き立てた。本稿では、明治二一年の吉田香雨『小説文範』を手掛かりに、抄録物を生み出した文化的背景、具体的には明治期以前の記憶と想像の関係を明らかにした。また、こうした明治以前の記憶・想像についての言説が、明治期の心理学の移入の中でどのように解体されていくかを示した。
著者
原 善
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
no.56, pp.175-187, 1997-05
著者
吉田 恵理
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.226-241, 2018

<p>本稿は、辺見庸「眼の海――わたしの死者たちに」の詩群がもつ東日本大震災後の詩表現の批評性を解き明かそうとするものである。災厄のスペクタクルから隠蔽され、生(者)と死(者)の観念的な弁別を攪乱する〈屍体〉の哲理が、「単独者」の「犯意」をもって問題化されていることをまずは同時期の作品外の言説から確かめる。その上で取り上げた二篇の詩の叙法の分析によって明らかにしたのは、「モノ化」する〈屍体〉と「モノ化への抵抗」である言葉との抗争状態が積極的に惹き起こされ、〈屍体〉の存在の様式が「わたし」の現実認識の反証の可能性となることである。それはまた、〈屍体〉を想像することなくして「わたし」の責任を思考することが可能かという問いを生起せしめるのだと結論づけた。</p>
著者
金 ヨンロン
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.63-76, 2014-05-15 (Released:2017-06-01)

太宰治の『パンドラの匣』は、一九四五年一〇月二二日から翌年一月七日にかけて「河北新報」に連載された。連載の期間は、初期占領改革が行われる一方で、天皇制の維持、即ち象徴天皇制の成立への道を露呈する時期であった。まさに戦中から戦後へ、軍国主義の<断絶>と天皇制の<連続>の運動が同時進行しているこの時期、『パンドラの匣』は、「健康道場」というフィクショナルな空間を創造し、「玉音放送」が流れた一九四五年八月一五日を<断絶>として受け入れる青年に対して、戦後日本の思想を「天皇陛下万歳!」という叫びに求める<連続>の主張を突きつける様相を描いている。本稿では『パンドラの匣』における<断絶>と<連続>のせめぎ合いを同時代において捉え直すことで、その批評性を問う。その際、手紙の形式に注目し、共通の記憶を呼び起こす「あの」という空白の記号に日付という装置が加えられ、様々な同時代の文脈が喚起される過程を明らかにする。