著者
李 珠姫
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.178-193, 2018

<p>村山知義の転向小説の第一作として知られている「白夜」は、転向したプロレタリア作家の英治と妻のり子の関係を描いた短編である。このテクストには、女性登場人物ののり子が、非転向を貫いている彼らの同志木村との恋愛を告白する一人称語りの物語が挿入されている。英治は、その話の聴き手となることによって、理想的同志との妻をめぐる想像的なライバル関係に入ることになる。このように「白夜」は、主人公が弾圧によって断ち切られてしまった同志との絆を、妻という他者の言葉を借りて仮構する物語となっている。この点において作者の村山は、このテクストを通して、転向した自分自身を承認していると言える。しかしながら、一方においてこの男性社会主義者同士の絆は、入れ子物語の担い手であるのり子の言葉そのものによって、運動の中でその絆を補助し媒介する存在として周縁化されてきた女性自身の主観を通して異化されている。本稿では、「白夜」の物語構造を、事物の左右が反転された像を映し出す〈鏡〉の特性に喩えて分析し、のり子の言葉がどのようにその異化を可能にしているかを論証する。</p>
著者
木村 洋
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.1-16, 2017

<p>坪内逍遥『小説神髄』の登場を経た一八八〇年代後半から一八九〇年代は、写実主義小説の時代だったと要約できる。しかし徳富蘇峰は逍遥の小説観に沿わない考え方を抱いていた。そしてこの人物を主な推進者とする形で一八九〇年前後に始まった、ユゴー流の認識の導入によって日本文学の刷新を図るという企ては、「社会の罪」という提言(森田思軒)を得ることで多くの賛同者を集め、のちの樋口一葉たちの小説に結実する。こうした「社会の罪」をめぐる資料群を掘り起こしていくと、従来互いに関連するものとして論じられてこなかった蘇峰と一葉の文業も同じ「社会の罪」という系譜の上にあったことが見えてくる。</p>
著者
菊間 晴子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.93-107, 2017-05-15 (Released:2018-05-15)

大江健三郎は、一九九九年以降、自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と呼称する小説群を執筆してきた。老作家・長江古義人を主人公とした大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」は、エドワード・W・サイードによる「レイト・スタイル」研究から深く影響を受けながらも、サイードの定義からは離れた独自の指針を有している。本稿は、サイードによる「レイト・スタイル」の定義を大江がいかに解釈し、再定義したのかを精査した上で、大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」が、彼の過去作品から連続する「二人組」構造の「書き直し」のプロセスであることを明らかにした。その上で、『取り替え子(チェンジリング)』、『さようなら、私の本よ!』、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に描かれる、生者と死者とのコミュニケーションのあり方の変遷を追い、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』において提示される「集まり(コンミユニオン)」、そして「私ら」という存在様式―生者と死者の区別なき共同性―こそ、大江が「後期の仕事(レイト・ワーク)」の実践の先に見出そうとした「希望」である可能性を指摘した。
著者
服部 徹也
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.1-16, 2016-05-15 (Released:2017-05-15)

漱石は『文学論』出版に際し、草稿『文学論ノート』、東京帝国大学講義に見られる描写論を増補している。本稿はこの描写論に作品世界への没入体験である「幻惑」が密接に関わることを示した。またこの描写論の理論的課題が視覚性の問題であることを論証し、漱石がこの課題に小説『草枕』でも取り組んでいたことを示した。漱石の描写論は視覚性の問題を探究してはいるが、『草枕』のような作品を読む際に生じる視覚性とイメージ連鎖を説明しきることはできない。読者の認知過程に多くを委ねる『文学論』は、「自己催眠的」な読者の一回的な読みによって暫定的に傍証を得るしかない理論的限界をもつ。本稿は『文学論』と『草枕』の緊張関係を読み解き、漱石が困難を冒して描写による「幻惑」とその理論化に挑んでいたことを示した。
著者
副田 賢二
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.219-234, 2019-11-15 (Released:2020-11-15)

「航空」のイメージはWWⅠ以降頻繁に消費され、『サンデー毎日』や文学テクストにも多様に描かれるが、一九二〇年代後半以降そこに「防空」というフレームが浮上する。国民の意識と身体を軍事に関与させる「国民防空」は、地上から隔絶した「航空」を地上との関係空間として新たにイメージ化させる場であった。そこでは「国土」が虚空/地上をめぐる感覚のネットワークにおいて再編制され、「国民」の共同性が立ち上がる。その想像力は、海野十三のテクストや細野雲外『不滅の墳墓』に発動している。更に「防空」空間では、可視/不可視をめぐる想像力が文学と融合する。空襲下を描いたテクストには、「防空」空間の破綻の中を生きる地上的身体の様相が描き出されていた。
著者
村上 克尚
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.65-80, 2012-11-15 (Released:2017-06-01)

This paper attempts to interpret Takeda Taijun's Shinpan (The Judgment, 1947) as a novelistic demonstration of Taijun's effort to overcome issues arising from his prewar work, Shiba Sen, (Sima Qian, 1943). The first section of the paper points out the commonalities between two works published around the same time, Shiba Sen and Koyama Iwao's Sekaishi no tetsugaku (The Philosophy of World History, 1942), and shows the limitations of discussing pluralism on a metaphysical level alone. The second section argues that the cosmopolitan nature of the city of Shanghai and the narrative polyphony in Shinpan function as tools to help overcome the shortcomings of Shiba Sen. The thirdand the fourth sections argue that the polyphony of the narrative in Shinpan casts strong doubt on the uniqueness of individual self-awareness, and propose to find in the story the hidden theme of violent animalistic nature seen in human history. Thus the paper opens up the possibility of finding animalistic themes in postwar literature.
著者
跡上 史郎
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.16-31, 2021-05-15 (Released:2022-05-15)

澁澤龍彥は、没後三〇年以上が経過した現在も新たな読者を獲得し続けている。彼は近現代文学の主流から外れつつも、細く長く支持され続ける独自の流れを形成した。その出発点とも言える小説「撲滅の賦」は、埴谷雄高「意識」を典拠としているというのが従来の定説であったが、枢要部である「撲滅」は、Alphonse Allais, Plaisir de Étéに由来するものであり、「撲滅の賦」は複数の典拠を組み合わせたコラージュである。Plaisir de Étéは、André Breton, Anthologie de L'humour Noir (1950)に収録されたもので、澁澤は自作を構成する要素だけでなく、コラージュによって従来の価値観を転倒する方法論をもBretonから学び、以後、異端作家としての揺るぎない地位を確立していった。
著者
中谷 いずみ
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.132-145, 2018-05-15 (Released:2019-05-15)

本論は、「文学史」を構成する解釈のフレームを問題化するために、階級闘争に関わった女性たちの動向や書きものについて、『女人芸術』という雑誌を軸に検討を行った。一九三〇年前後に政治的理想のために闘う主体として「ハウス・キーパー」を担った女性たちは、労働者階級の優位と前衛における性役割の自明化というフレームの重なりから生じた〈運動主体〉をめぐる解釈の空所に陥り、結果、同時代批評からも歴史記述からもその存在を見落とされることとなった。本論では、彼女たちの作品を読むことがそれらの女性たちの声に耳を澄ますことであると同時に、「文学史」を構成する諸解釈のフレームを問い直すことでもあると論じた。
著者
若松 伸哉
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.1-15, 2021-05-15 (Released:2022-05-15)

「伝記小説」と銘打たれた太宰治『惜別』(一九四五・九、朝日新聞社)は、仙台での留学生・魯迅を描くが、作中には〈地方〉にかかわる表現がちりばめられている。本稿はこうした点に注目し、戦時下に推進された〈地方文化運動〉を踏まえながら『惜別』を考察する。この運動に関連する同時代言説には、日本の地方文化からアジア全体へと文化を拡大していく発想が認められるが、本作品における語り手「私」がこうした図式を攪乱する存在である点を指摘する。また政治的な次元から離れ、あくまで個の立場から個人を語る本作品の特徴について、時局への貢献を求められる戦時下の「伝記小説」という観点からも考察し、同時代に応答する太宰治作品の姿を具体的に明らかにする。
著者
鈴木 暁世
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.1-16, 2015 (Released:2016-08-02)

郡虎彦は、一九一一年に「鉄輪」を『スバル』に発表した後、一九一三年に改作して『白樺』に掲載し、さらに一九一七年のロンドン上演のために自己翻訳した。本稿は、郡が「鉄輪」をどのように改作・自己翻訳したのかという問題を、ロンドンにおける「鉄輪」上演に関わる資料を用いて考察することを目的としている。「鉄輪」を上演したパイオニア・プレイアーズと演出家イーディス・クレイグは女性参政権運動と関わっており、同作は「精神的な柔術」として評価された。「鉄輪」上演と評価の背景には、英国における日本へのイメージと女性参政権運動と柔術の結びつきがあったことを指摘し、郡が「鉄輪」を改作・自己翻訳していく過程が、当時のイギリスの社会運動や思潮と響きあっていたことを明らかにしたい。
著者
藤本 恵
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.49-63, 2013-11-15 (Released:2017-06-01)

日本の児童文学において、「少女詩」研究は長くなおざりにされてきた。本稿では、雑誌『少女の友』大正期の詩欄を中心に、調査と考察を行った。なぜなら、『少女の友』の編集方針が変化した重要な時期であるにもかかわらず、詩欄の研究が他誌と比べて特に手薄だったからである。結果、『少女の友』の詩は常に「感傷」という内容の拘束を受けながらも、長大で叙事的な「口語詩」から、簡潔で自己主張的な「少女小曲」(=「少女詩」)へ変化したことが明らかになった。その変化は、少女読者が詩の読み手から書き手になる過程と重なっている。また、この時期詩は、児童や民衆、女性といった階層に広がっていく。少女詩が他ジャンル同様その流れの一つを形成していることを示した。
著者
田部 知季
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.1-16, 2020-11-15 (Released:2021-11-15)

本稿では、従来看過されてきた俳誌上の言説を渉猟しながら、虚子の俳壇復帰の同時代的な位置づけについて考察した。明治四五年、当時小説に注力していた虚子は『ホトトギス』に雑詠欄を復活させ、「平明にして余韻ある」句を旗印に俳句に復帰する。既存の近代俳句史の多くは、明治四〇年代の俳壇を新傾向俳句の動静に即して語っており、虚子の俳壇復帰はそうした時勢への抵抗と位置づけられてきた。だが実のところ、虚子不在の俳壇においても「季題趣味」や五七五の定型を遵守する論者たちが新傾向派に対して批判の声を上げていた。虚子の俳壇復帰とは、そうした有季定型派の保守層を自身が編集する『ホトトギス』へと回収する言説だったと考えられる。
著者
武田 悠希
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.1-16, 2014-11-15 (Released:2017-06-01)

本稿は、押川春浪の代表作とされる「海底軍艦」シリーズの論点となってきた「武侠」の定義が語られる『武侠の日本』を取り上げ、春浪が本作をどのように作り上げたのかを明らかにしようとするものである。特に、これまでの研究に欠けていた、春浪の創作態度を見るという視点を媒介させることによって、これまでの観念的に措定されたナショナリズムを指摘するにとどまる段階からの脱却をはかりたい。その際に手がかりとして、素材、構造、執筆動機を取り上げ、同時代言説との比較検証に留意することで、春浪が『武侠の日本』の創作にあたって、同時代の中での批判的意識を「面白さ」として加工し、それを小説という媒体に託すことを試みていたことを論証する。
著者
藤井 貴志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.95-110, 2014-11-15

安部公房「他人の顔」、川端康成「片腕」、澁澤龍彦「人形塚」は昭和三十七年末から約一年の間に執筆されたテクストであるが、その背景にM・カルージュの指摘する<独身者の機械>という近代の神話を見出すことができるだろう。<独身者の機械>とは「人間的感覚の喪失」および「女性との関与や交感の不可能性」を<独身者>および<機械>のメタファーで捉えた概念だが、三篇のテクストはいずれも<異形の身体>を通してしか外界(他者)と関係を持つことができない主体の自己回復の虚しい試みとその挫折を描いている。澁澤自身のカルージュ受容、また土方巽の暗黒舞踊を通じた<物>としての<異形の身体>への関心、それと並行したベルメールの球体関節人形に纏わる言説を探り、<独身者の機械>の時代ともいうべき昭和四十年前後の言説状況を浮上させる試みである。