著者
高田 里惠子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.15-28, 2018

<p>本稿では、漱石門下生のうちで、例えば安倍能成や和辻哲郎など、帝国大学文科大学に進み、「教授」となった者たちに注目する。彼らは、戸坂潤によって批判を込めて「漱石文化人」と名付けられたが、そのさい重要なのは、戸坂が「(「門下的漱石文化」は)もはや漱石自身の文化的伝統とは必ずしも関係のない現象」であると述べていることだ。「漱石文化人」たちは学歴エリートでありながら、あえて世間的栄達を捨てた「高等遊民」あるいは反骨の若者として出発するが、やがて帝大に職を得、現状肯定的な文化の守護者、体制側の「教授」と見なされるようになった。また、堅実な「学者」にも独創的な「作家」にもなれなかったどっちつかずのディレッタントと批判されもする。本稿は、こうした「漱石文化人」をめぐるさまざまな言説が近代日本における大学観や作家観などを図らずもあぶりだしてしまう様子を示す。</p>
著者
井川 理
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.17-32, 2016

<p>本稿では、一九三〇年前後の犯罪報道に用いられた「陰獣」という語が変態的な犯罪者を指す語として転用されていく過程に、『陰獣』を含めた同時期の探偵小説と、乱歩を中心とする探偵小説家の位相の変遷が関わっていたことを明らかにした。さらに、『陰獣』において探偵小説家・大江春泥を「犯罪者」として実体化していく「私」の在り様が、探偵小説家を現実の犯罪の「犯人」と同一視する探偵小説の読者と相同的なものであったことを指摘した。以上のことから、『陰獣』にはテクスト発表以降に顕在化するジャーナリズムと探偵小説ジャンルの連関が先駆的に描出されるとともに、そのテクストの流通プロセスが探偵小説のジャンル・イメージの生成動因としても作用していたことが明らかとなった。</p>
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.136-151, 2016

<p>映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。</p>
著者
片野 智子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.64-79, 2018-11-15 (Released:2019-11-15)

本稿では、『聖少女』における「ぼく」とその姉、未紀とその父による二つの近親相姦を比較することで、少女が実の父への近親相姦的欲望を諦めることで父に似た別の男性と結婚するという、女性のエディプス・コンプレックスの克服を無批判に描いているかに見えるこの作品が、実はマゾヒストたる未紀が自らの求める苦痛=快楽のために父への近親愛や近親相姦の禁止という〈法〉さえも利用するラディカルな物語であることを明らかにした。更に、未紀は苦痛=快楽を得るために「ぼく」との結婚をマゾヒズム的な契約関係へすり替えもする。そうした未紀のマゾヒズムは、近親相姦の禁止という〈法〉が実は父権的な家族を維持するためのシステムにすぎないことを暴くと共に、男性中心的な快楽のありようや結婚という制度を内側から解体していく契機を孕んでいることを示した。
著者
秋吉 大輔
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.55-70, 2020-05-15 (Released:2021-05-15)

六〇年代後半から寺山修司は月刊受験雑誌『高3コース』『高1コース』の文芸欄の選者を務める。文芸欄での活動は、寺山の創作源の一つでもあった。実際、文芸欄での経験をもとに詩論『戦後詩』(一九六五)が書かれ、文芸欄の投稿者たちによって天井桟敷公演『書を捨てよ町へ出よう』(一九六八)が生まれていく。本稿では、寺山の詩論=制作論を参考に、投稿者の作品空間において何が起こっているのかを内在的に分析する。投稿者たちが文芸欄で「書くこと」によって、自らの環境を相対化し実際に移動しながら、固有の領域を制作していたことを明らかにする。そして、そのような文芸欄の制作空間が、同時代の「町」とも地続きであることを示した。
著者
西野 厚志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.65-80, 2013-05-15 (Released:2017-06-01)

Tanizaki Jun'ichiro is known to have owned a six-volume set of The Works of Plato (Bohn's Classical Library; London : George Bell and Son, 1848-54). There is some evidence that he was particularly familiar with the content of the second volume, which contained The Republic. It is in The Republic that the famous "Allegory of the Cave" appears. There are previous studies that point out the similarities between what the allegory describes and the mechanism of film projection. This paper argues that Tanizaki made use of the concept of the limitations of human perception described in the "Allegory of the Cave," as well as the concept of Idea, in those of his works that feature blindness, such as Shunkin sho (A Portrait of Shunkin,1933). The ultimate goal for Plato was for humans to see the light itself. Tanizaki seems to have wanted to warn against the danger of too much light, by transferring this allegory into the projection of films in modern times. In his time, films were made with nitrate, and they often caught fire while being projected, causing the destruction of the images on the screen. A Portrait of Shunkin and other stories with the theme of blindness can be understood as Tanizaki's expression of what may be called "the degree zero of representation" caused by excessive light.
著者
佐藤 未央子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.136-151, 2016-05-15 (Released:2017-05-15)

映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。
著者
木村 政樹
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.93-108, 2014-05-15 (Released:2017-06-01)

本稿は、純文学論争における平野謙の批評を、「アクチュアリティ」という語が文芸雑誌で流通していた歴史的文脈に置き直して考察したものである。純文学論争をきっかけとして、「アクチュアリティ」という語は文芸雑誌において急速に流布してゆく。この言葉は、論争以前から、新日本文学会や記録芸術の会といった文学・芸術運動のなかで、キーワードとして用いられていた。平野はそのことを意識しながら、小説アクチュアリティ説を展開した。こうした平野の一連の批評は、文学・芸術運動の動向に応じた言説戦略として捉えることができる。
著者
服部 徹也
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.100-115, 2018-05-15 (Released:2019-05-15)

本稿は夏目漱石の講義とその書籍化『文学論』との間の変容を明らかにするため、学生の受講ノートと日記、『文学論』原稿を用いて作家出発期(一九〇四年末から一九〇五年初頭)の刊本未収録の講義内容を論じた。講義の段階では騙されることと虚構を楽しむことを類似した表現で論じ、『ドン・キホーテ』やシェイクスピア戯曲を用いて悲劇と喜劇は同型であり異なるのは観客の心理的態度であると論じる箇所があった。この未収録箇所は、情緒によって読者・観客が催眠的に物語世界にのめり込むという漱石の虚構論の根幹に関わる。漱石は講義と『文学論』では虚偽と虚構をうまく区別して定義できなかったが、『倫敦塔』では虚偽をしかけに用いつつ、虚構ならではの真偽の宙づりが効果的に用いられている。
著者
木村 政樹
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.93-108, 2014-05

本稿は、純文学論争における平野謙の批評を、「アクチュアリティ」という語が文芸雑誌で流通していた歴史的文脈に置き直して考察したものである。純文学論争をきっかけとして、「アクチュアリティ」という語は文芸雑誌において急速に流布してゆく。この言葉は、論争以前から、新日本文学会や記録芸術の会といった文学・芸術運動のなかで、キーワードとして用いられていた。平野はそのことを意識しながら、小説アクチュアリティ説を展開した。こうした平野の一連の批評は、文学・芸術運動の動向に応じた言説戦略として捉えることができる。
著者
小泉 京美
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.17-32, 2015

<p>記号活字やリノカットを駆使して視覚性を強調した萩原恭次郎の『死刑宣告』(長隆舎、一九二五年)は、これまで詩的言語の言語(symbol)から図像(icon)への移行を示す記念碑的詩集として捉えられてきた。だが、表現規範の革新を目指す前衛的な芸術運動を後押しした関東大震災という出来事に密着して考えるならば、『死刑宣告』は表象の秩序を根柢から揺るがす、より本質的な言語の変容を記録していたことが見えてくる。震災による活字不足と新聞紙面の混乱、震災を契機に普及した素材リノリウムとリノカットという表現手法、これらを取り巻く文化史的な背景を検証することで、その表現の独自性と詩の新たな読解可能性を開示する。</p>
著者
西井 弥生子
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.64-78, 2013-11-15

菊池寛「東京行進曲」(『キング』一九二八・六〜一九二九・一〇)は、連載中に日活によって映画化(溝口健二監督)され、初の映画主題歌(西條八十作詞、中山晋平作曲)が制作された。先行論においては、文芸映画としての興業価値が考察され、脚色者が小説に忠実なあまりに映画・小説共に失敗作となったと結論づけられている。しかし、小説は未完であり、映画の後半部分は小説に準拠し得なかった。本稿では当時流行した小唄映画という形式に着目し、三者(映画・小説・主題歌)の関係性を改めて検証する。小説がむしろ主題歌(映画小唄)に牽引される形で生成されていった様相を、戯曲と照合することも含めて明らかにし、「無声映画」の音や語りとの有機的な結びつきから生まれたテクストとして、菊池寛の代表作「東京行進曲」成立の多層性について論究する。
著者
藤井 貴志
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.49-64, 2016

<p>花田清輝は昭和二十四年に発表した「ドン・ファン論」において、「近代の超克」を果たす為には〈人間中心主義〉から〈鉱物中心主義〉へのパラダイムシフトが不可欠であると記している。疎外された〈人間〉の主体性の回復に躍起になる同時代の〈主体性論争〉を挑発するかのように、花田はむしろ「おのれ自身を、客体として、オブジエとして、物体として」(「わが物体主義」)捉える必要性を強調し、自動人形や動く石像、あるいは〈物〉に化していくプロレタリアートといったモティーフを〈鉱物中心主義〉のもとに変奏していく。本論は、〈物〉になる〈人間〉という一見疎外論的なイメージを逆手に取り、謂わば〈人形〉のような非-主体を立ち上げることによって画策された花田の〈革命〉のヴィジョンを横断的に追跡し、その可能性を再検討する試みである。</p>
著者
小堀 洋平
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.17-32, 2012-11-15

Tayama Katai's Nikko (Nikko, 1899) has some textual characteristics that shed light on the advent of the Realist Novel around the turn of the century. This work straddles two genres-travel literature and fiction-and a third-person narrative is occasionally interjected into the first-person narrative. This type of blending of narrative styles in one work was in fact common across a wide range of contemporary works, including what were conceived of in Japan as disparate genres such as the descriptive essay and belles-lettres. In Nikko, however, Katai is quite original in the way he took advantage of the changes in location in the progress of the journey in order to introduce a third-person narrative that goes astray from the norms of a travelogue. He was also creative in the way he used quotations from Western literary works to prompt a switch into third-person narrative. These innovative techniques set Nikko apart from and above numerous other works of travel literature of the same era.
著者
武田 悠希
出版者
日本近代文学会
雑誌
日本近代文学 (ISSN:05493749)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.1-16, 2014-11-15

本稿は、押川春浪の代表作とされる「海底軍艦」シリーズの論点となってきた「武侠」の定義が語られる『武侠の日本』を取り上げ、春浪が本作をどのように作り上げたのかを明らかにしようとするものである。特に、これまでの研究に欠けていた、春浪の創作態度を見るという視点を媒介させることによって、これまでの観念的に措定されたナショナリズムを指摘するにとどまる段階からの脱却をはかりたい。その際に手がかりとして、素材、構造、執筆動機を取り上げ、同時代言説との比較検証に留意することで、春浪が『武侠の日本』の創作にあたって、同時代の中での批判的意識を「面白さ」として加工し、それを小説という媒体に託すことを試みていたことを論証する。