著者
和田 一範
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.1-52, 2019-04-01 (Released:2020-06-05)
参考文献数
22

アミガサ事件(大正3年⟨1914年⟩9月16日)の三日後の9月19日,橘樹郡の関係11ケ町村のメンバーが川崎町の橘樹郡役所に集まり,9月29日,「多摩川築堤期成同盟會」が正式に結成された。この期成同盟会は,これまでの陳情が県知事宛であったのに対し,多摩川改修のキーパーソンが内務大臣であることを理解するや,早速内部大臣宛の多摩川新堤塘築造陳情書をまとめあげ,10月29日,神奈川県選出の小泉,井上代議士とともに内務省を訪問,下岡次官に陳情書を手渡し,事情を説明している。アミガサ事件と有吉堤,多摩川直轄改修への道の一連の事件の顚末初期にあたるこの時期,「多摩川築堤期成同盟會」の活動は,多摩川新堤塘築造陳情書をまとめて内務大臣に提出した以降は,川崎市史や多摩川誌をはじめ既往の文献には明確な記述が見られない。 この時期は,アミガサ事件に際して対応した石原健三知事の任期中であり,アミガサ事件から約一年後の大正4年(1915年)9月に有吉忠一知事が赴任をするまでの期間である。期成同盟会のこの時期の活動は,自助・共助の取り組みとして大変重要な意味を持つ。 このたび,神奈川県公文書館に所蔵する武蔵国橘樹郡北綱島村の飯田家文書のなかに,「多摩川築堤期成同盟會報告書」と,「大正4年5月5日付決議録」など,多摩川築堤期成同盟會の奮闘の記録を見いだしたので,ここに活字にして報告する。 防災の主役,自助・共助として,地域住民の様々な代表たちが,多摩川の改修に向けて奮闘する模様が明確に記され,現代の防災に与える大きな教訓が見いだされる。
著者
特定非営利活動法人 日本水フォーラム
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.1-17, 2009

第5回世界水フォーラムは、2009年3月16日から22日の日程でトルコ・イスタンブールのボスポラス海峡の入り江である金角湾を挟む「ストゥルジェ」と「フェスハネ」両会場において開催された。世界水フォーラムは、フランス・マルセイユに本部がある世界水会議とホスト国が主催し、3年に1度、国連の定める「世界水の日」である3月22日を含む約1週間の日程で開催される世界最大の水に関する国際会議である。第1回世界水フォーラムは1997年にモロッコ・マラケシュ、第2回世界水フォーラムは2000年にオランダ・ハーグ、第3回世界水フォーラムは2003年に京都・滋賀・大阪の琵琶湖・淀川流域、そして第4回世界水フォーラムは2006年にメキシコシティで開催された。第5回世界水フォーラムの全体テーマは、アジアとヨーロッパの架け橋に位置するイスタンブールで開催されることに掛け、「水問題解決のための架け橋」とされ、様々な水問題の解決を阻む問題(ギャップ)と、その解決策(架け橋)は何かという観点からの議論が行われた。
著者
河崎 則秋
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.123-135, 2016

田上山は,滋賀県南部に位置する田上山系と金勝山系の山々の総称であり,一丈野国有林(大津市)と金勝山国有林(栗東市)は,この田上山に属し,水系は淀川流域の上流部になる。(図1,2)田上山は,「うっそうたる大森林」であったと奈良朝時代の古文書により推定されている。しかし,690年代に藤原宮の造営に要する木材の伐出や,740年代には石山院(現在の石山寺)造営に際し木材が伐出したとされ,そういった長期乱伐の結果,桃山時代(1600年頃)には既に荒廃の一歩手前にあり,江戸期(1640年頃)に入ると燃料としての盗掘や戦禍による焼失を重ねた結果,荒廃が進行したうえに,地質が風化の進んだ花崗岩であったことから,降雨のたびに土砂流出が発生して下流の人々を苦しめてきた。荒涼とした山は,その姿から「田上のはげ」として全国に知られることとなった。慶長13年(1608年),17年(1612年),19年(1614年)に淀川流域一帯に大水害が発生し,承応2年(1653年)には,野洲川が決壊し約50町歩の田畑が荒地となった。幕府は万治3年(1660年)に,大和,伊賀,山城の国に対し「木根掘取禁止,禿山に苗木植付,土砂留の施工」を命じている。寛文の時代に入り,2年(1662年)と5年(1665年)には栗太郡も災害を受け,翌6年(1666年)には幕府が「諸国山川の掟」を発令し,草木の根を掘り取ることを停止し,川上の樹木なき所に苗木を植付,焼畑および河辺の開こんを禁止している。9年(1669年)に幕府は主要な役人に畿内の被災状況を実地検分させ,淀川の浚渫費を各大名に課している。翌10年(1670年)には瀬田川の浚渫が施工されている。このように江戸時代は治山治水対策が組織的な事業として行われたが,安永・天明年間(1772年~1788年)の飢饉等で農村が不況に陥って以降,幕府の監督体制もゆるみ,設計・施工技術の低下をはじめ,山腹工事の施工自体が衰退した。当時の主な工種は,山腹工では,鎧留(別添図1),築留(図2),石垣留(図3),石篭留(蛇篭留)(図4),井堰留(図5),掻上堤工(図6),杭柵留(図7),逆松留(図8),蒔わら工(葺わら留)(図9),筋粗朶工(図10),雑木苗植込,筋芝植込(図11),飛芝植込(図12),飛松留(図13),実蒔留など,渓間工では,鎧留,築留,石垣留(図14),砂留(図15,16),流路工などである。江戸時代最後(慶応4年)の淀川大水害に見舞われた明治政府は,淀川の船運確保対策を考え,木津川の付替工事を始めるとともに,土砂留調査に着手し,治水(船運)のためには,山林の整理に併せて砂防(治山)事業の緊急性を痛感した。なお,森林の所有については,明治2年(1869年)に官林制度が定まり,翌3年(1870年)には社寺有林の上地命令がなされており,大津国有林の母体(所有形態)が形成されたと思われる。ただし,管理は県に委託されている。明治4年(1871年)になり,政府は5畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)および伊賀国に対し「砂防5カ条」を布達し,木津川水源土砂留工事費を当分官費をもって支払う旨を通告している。翌5年(1872年)には,施行対象地として,大戸川,草津川及び野洲川の水源禿赭地(はげ山)と記録され,工事費は全額国費で賄われた。明治29年(1896年),河川法が制定され,翌30年(1897年)には,森林法及び砂防法が制定され,国有林野事業として治山事業が開始された。
著者
内嶋 善兵衛
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.15, no.4, pp.62-85, 1971-10-01 (Released:2020-07-24)
参考文献数
26
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.59, no.5, pp.37-69, 2015

埼玉県は,今さら言う必要もないが海無し県である。河川を通じて行なわれるその排水は,他都県を流下したのち海に放出される。河川は,利根川(流域面積16,840km2),その派川の江戸川,荒川(2,940km2),そして中川(811km2,うち埼玉県752km2),綾瀬川(176km2,うち埼玉県136km2)である。なかでも古利根川(182km2)・元荒川(209km2)などの埼玉平野東部低地部の洪水は,中川に落ちる。中川を通じて東京都内を流下したのち東京湾に流出(放出)される。中川が埼玉平野の洪水処理にとって実に重要な役割を持っており,ここの整備は埼玉県にとって死活問題といってよい。埼玉県にとってその整備は,長年の課題であった。本論では,中川およびその支川である古利根川・元荒川の整備を中心に,近代の埼玉平野の治水整備について述べていく。
著者
及川 武久
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.38, no.4, pp.8-33, 1994-10-01 (Released:2019-04-30)
参考文献数
24
著者
和達 清夫
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.7, no.4, 1963-10
著者
池末 啓一
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.63, no.6, pp.93-102, 2020-02-01 (Released:2021-05-05)
参考文献数
40

親鸞は「それがし閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」という言葉を残している。浄土真宗では喪葬一大事を否定するような意味をもつ言葉とされてきた。親鸞は,自らを必ず水葬にするようにと言い残したのであろう。葬制には水葬・林葬・土葬・火葬などがあるが,親鸞のこの言葉を通して,日本人の河川観・葬制観などを考察した。わが国では古代・中世には水葬・林葬が,一般庶民の間では行われてきた。これらの葬制を親鸞のみならず一遍らも望んでいた。この二つの葬制は大乗仏教的には,布施の最高形態の「利他行」の実践に当たる。「利他行」が,古代(仏教伝来以後)・中世の日本人の河川観・葬制観を形成していたと考えられる。水葬・林葬は今日的な表現をすれば,生態学的循環と考えられる。さらに,わが国には別の河川観もある。それは「禊」,「祓い」と言われて罪や穢れを除き去るというものである。これは,「水に流す」という言葉に象徴されるもので,日本人の人間関係や精神構造にも深くかかわっているかもしれない。
著者
多田 泰之
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.11-28, 2009
被引用文献数
1

2004年は、多くの台風が日本列島を襲い各地に甚大な災害をもたらした。これは2004年6月から10月にかけて、日本列島に台風が接近しやすい太平洋高気圧の配置が続いたことが原因である。図1は、1951〜2008年の台風の発生件数と上陸件数を示したものである。2004年の台風の発生件数は例年と同じ程度の件数であるが、太平洋高気圧の縁に沿って台風が次々と日本列島に上陸し、上陸件数は観測史上最多の10件を記録している。その結果、2004年は近年で最も多い64名の死亡者が生じている。2004年の主要な土砂災害による被害を表1にまとめたが、台風の進路に位置した太平洋岸の地域で多数の被害が生じている。特に台風21号では、三重県・愛媛県を中心に大きな被害が生じた。中でも三重県多気郡宮川村(現大台町)では1時間に100mmを超える豪雨によって多くの崩壊や土石流が発生し、死者・行方不明者7名、全壊家屋14棟と甚大な被害が生じた。砂防学会をはじめ、地すべり学会・土木学会などでは災害調査団を組織し、災害の発生原因について調査・報告がなされている。これらの調査報告では、(1)災害発生位置とその被害状況、(2)降水量などの気象条件、(3)崩壊斜面の地形・地質の特徴についての見解が示され、災害の発生原因を考察している。また、近藤らは住民の避難行動について分析し、山間地域では避難経路となる本川沿いの道路が、土砂・流木等によって通行不能になることを念頭に置いた防災対策の重要性を指摘している。このように宮川村で発生した土砂災害については、災害が発生した(1)誘因、(2)素因、(3)対策についての問題点・留意点が明らかにされている。ところで、このような災害調査の多くは災害発生後に実施されるため、災害発生前や災害発生直後の状況の情報が不足する傾向にある。崩壊発生前あるいは直後の状況には、災害発生場所の特定や警戒・避難に関する有益な情報があると考えられるが、災害の発生する場所を知る術がないため、その情報は極めて少ないのが現状であるといえる。筆者らは土砂災害の実態を知るために様々な調査を実施しているが、偶然にも、宮川村で災害が発生する前に湧水などの調査を実施しており、わずかではあるが災害発生前の宮川流域の状況を知る機会を得た。本稿では、従来不足している災害発生前あるいは直後の状況には資料的な価値があるとの考えから、三重県宮川村の周辺で見られた災害前後の状況について報告する。
著者
大野 泰宏
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.140-154, 2016

2013年(平成25年)10月3日に,林野庁は「後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~」として,全国60箇所の治山事業地を選定し発表した。東北森林管理局管内では,海岸防災林の造成地として青森県つがる市の屏風山,秋田県能代市の風の松原,山形県酒田市ほかの庄内海岸の3箇所,煙害被害の復旧地として秋田県小坂市ほかの小坂地区,台風被害の復旧地として岩手県宮古市のアイオン沢,大規模地すべりの復旧地として岩手県一関市の磐井川民有林直轄治山事業施行地,木製堰堤による復旧地として青森県五所川原市の坪毛沢の7箇所が選定されている。今回は,上記7箇所のうち,秋田県能代市の「能代の街を飛砂から守る海岸防災林造成事業(風の松原)」について,特に国有林に的を絞って紹介する。