著者
遠藤 隆
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.125-135, 1995

日米関係を論ずる際に,それぞれの分野の現状を分析するものであるが,併せて,念頭に置かねばならないことに,「日本の対米観」,或いは,「米国の対日観」というものがある。これは時代によって変わるかにみえるものであるが,戦後50周年を迎えた1995年は,歴史認識という点で,両国はやや感情的になる傾向を見せたように思われる。この傾向は,前年の12月7日,日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を悼む半旗がホワイトハウスの屋上に掲げられた頃からはじまる。つまり,戦争の発端となった日本の戦争責任を問うようなムードが高まった観がある。そして,発行を中止したものの,「原爆切手」の日米間の論争があった。「原爆投下が太平洋戦争の終結を早めた」という説明のついた「原爆キノコ雲切手」ということで,被爆国としての日本政府は米国務省に発行の再検討を申し入れた。続いて,ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館は原爆投下50周年にあわせて特別展の開催を計画した。しかし,在郷軍人会などがその内容に反対し,当初予定していた史実の描写及び説明内容が大幅に縮小・削除・変更された。このように,日米関係の歴史を回顧する気運が高まりつつある時に,このB29「エノラ・ゲイ」展示がきっかけで民間戦史研究家らの論文や図書がひときわ米国市民の注目を集めることになった。そして,この展示内容は修正に修正を重ねられたもので,確かに,広島,長崎の被害状況を詳しく一般市民に見せるよい機会でありながら,それがなかったことは,物足りなさを感じざるを得なかった。しかし,そのことがむしろ歴史学者の研究を深め,米国の原爆投下の是非論にまで発展し,マスコミを賑わすことにもなったのである。そこで,本稿では,この「エノラ・ゲイ」展示の経緯と原爆投下の決定に係わる当時の議論について,現地調査(ワシントン在住の歴史学者とのインタビューを含め)から得た情報に基づいて,考察するものである。
著者
モーエン ジョン V.
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.203-214, 1991

反シオニズムと反セミティズムという用語は殊にアメリカにおいては必ずしも正しく区別していない。厳密に言えば, シオニズムには宗教的, 文化的, 政治的側面という三つの側面があるが, いずれにしても, この二つの用語の区別は長年にわたって曖昧である。私見によれば, むしろ意識的に曖昧にされているとさえ言えるが, これは特に自己の利益のためにも出来るだけイスラエルを敵にまわしたくないと考える人びとの意図するところである。この賢明ともいえる曖昧さのために前述の二つの言葉が文字通り同義語のように扱われるのである。本稿では, 宗教的, 文化的側面からみたシオニズムと比べて政治的シオニズムはかなり後発的なものであることを思い起こせば, 当然, これらの言葉は区別できるという立場をとっている。ある意味では, それはホロコストの恐怖に対する反応であり, 充分正当化できる。また別の意味では, 何世紀にもわたって他の民族が占領してきた土地をめぐる, 歴史的不幸の産物でもあった。本稿は, ユダヤの国家がかかえる最大のジレンマを, その発生, 否, それ以前にもさかのぼって検討する。そのジレンマとは, 限られた地でいかにアラブの兄弟たちと調和を保って生きるかということであり, これほどやっかいな問題は他に類をみない。
著者
山田 秀樹
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要 芸術工学部 (ISSN:02884992)
巻号頁・発行日
no.19, pp.9-15, 1999

本研究の目的は, スキーとスノーボードのイメージを測定することである。イメージを測定するために, 18項目から成るSD法尺度を用いた。調査対象は, 407名の大学生である。因子分析の結果から, 4因子が抽出され, それぞれにfashion因子, delight因子, freedom因子, difficulty因子と命名した。スノーボードのイメージは, 流行感の方向を示し, スキーのイメージは, 快感と解放感の方向を示した。男性, 女性のスキーとスノーボードに対するイメージは, ほぼ同様の傾向を示した。スキーレベル別の比較では, fashion因子, delight因子, freedom因子とdifficulty因子に有意な差が認められた。スノーボードレベル別の比較では, fashion因子とdelight因子に有意な差が認められた。
著者
國枝 マリ
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.131-147, 1988

本論文ではニューヨーク在住の日本人ならびに韓国人子女をとりあげ, それぞれが示すアメリカ文化への同化の現象と日本・韓国文化の獲得と維持の状況を究明しようとする。まず注目すべきは, アメリカ文化浸透の度合いは, 両親の将来設計の違いによるところが大であるという点である。すなわち, 一方では, 日本人の両親は, いずれ日本に帰国することを前提として子供の将来を考える。従って, 理想は別として, 現実には日本人としての知識, 教養, 受験競争力を身につけてほしいと考える。他方, 韓国人の両親は自分たちがアメリカ永住を考えているため, 道具としてのアメリカ文化, 言語能力は歓迎するが, 心だけは韓国人としての誇りを忘れない人間に成長してほしいと願っている。これを反映して, 日本人の中でも, 特に全日制の日本人学校に学ぶ子供はその生活のほとんどが事実上日本のそれと大差なく, アメリカ文化の影響は非常に限られている。一方, 週日は現地の学校でアメリカ人と共に学び, 週末のみ日本の補習授業校に通う子供は, アメリカ滞在が長期化するにつれ, アメリカの文化を身につけ, 同時に日本文化の維持が困難となる。その境界は滞米4〜5年と見られる。ところが, 韓国人子女の場合は, ほとんどがアメリカ文化の影響を強く受けている。しかし, 親の強い希望もあり, 韓国人としての自覚は, 家庭と韓国人学校とで人為的に子供たちの心に植え付けられつつある。
著者
武田 昌之
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.109-123, 1991

The pacifists in the Weimar Era often disputed about the military execution of the League of Nations. Hans Wehberg, a scholar of international law and some other pacifists regarded it as the emergency measure, which could abolish the right of the self-defence. In other words, they criticized the inordinate expansion of the sovereignty in the modern nation states.
著者
馬場 雅美
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-20, 1990

The focus of this paper is not on the iconography, but on the backgrounds and frameworks of the frescoes in the church of Saint-Jaques-des-Guerets. These paintings are an example of uni-white backgrounds typical of the Romanesque mural paintings. The researchers have explained that the white backgrounds were used due to shortage of funds. However, analyses of details of their remaining frameworks and backgrounds discloses a symbolic system in architecture, frameworks and backgrounds. I reconstructed the ornamentaion system in this church as follows : 1)the mandorla of the Christ consists of the single but valuably colored three dimensional patterns ("light pattern" whrch I suggested in my preceeding papers in '89); 2)the same patterns which are repeated but doubled with simpler colors are not framing the two dogmatic scenes that of the "Crucifixion" and of the "Maestas Domini, " as F. Gaborit said, but framing the walls between windows (pl. 3); 3)this patterns are hierarchilized between the apse (double patterns) and the nave (simple patterns); 4)two contrasting colored bands pearled in the middle are framing and dividing the scenes; 5)the white curtain patterns are found all around under the scenes; 6)the architectonic frames in the paintings have two categories : the symbolic and abstract frame (sacred frame of Jacob) and the scenery decor (scenes of saint Nicolas and the Birth of Christ); 7)the white backgrounds unify all scenes except the underground or infernal scenes (grey and red backgrounds) at the "Descent to the Limbo." In this ornamental program, the central window situated between the two dogmatic panels functions as the "light-God, " because the Hand of God appears there and this window is surmounted by the "Agnus Dei." The "light patterns" of the Mandorla reflect some significant parts of architecture : the top of walls with the ceiling as heaven and the windows transforming natural light to transcendental light. The light from the 12 openings each signed by a cross expresses itself as divine light by the "light pattern" frames which are equivalent to the Mandorla's. And the mystic events are developed on the white backgrounds as plenitude of this transcendental light. The white curtains must cover these mystic scenes and reveal their identity to initiators under the hieratic or perpendicular perspective. The sources of these uni-white backgrounds will be some illuminations as the Alquin Bible or the Gauzlin Gospel Book, produced at the School of Tours, the scriptorium located not so far from this Saint-Jacques-des-Guerets. Behind the white backgrounds' use, I find Carolingian high intellectuals under the neo-platonic influences.
著者
原 俊彦
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.149-175, 2000

This paper focuses on the fertility development and family policy in the Federal Republic of Germany, from 1910 to 1998. This is a part of the research project, a comparative study of low Fertility and Family Policy in Developed Countries (the research grant for Policy Sciences Promotion Project by the Japanese Ministry for Health and Welfare No.10100101). The purpose of this three-year research project is to clarify the trends and determinants of fertility, and the policy responses to low fertility and their effects in developed societies, and to explore the policy implications for Japan. The study will focus on a couple of developed countries each year and compare these countries' studies at the end of the third year to synthesize the results to provide scientific basis for policy proposals. Reviewing the research reports of BIB (Bundesinstitut fur Bevolkerungsforschung) and using the statistical data of Council of Europe(CD-ROM : 1999), we analyzed 1) Trends and determinants of attitudes and behaviors regarding fertility and the family, 2) Family policy measures to cope with changes in fertility and the family and their effects, 3) Policy implications derived from Germany for Japan The important findings are : 1. In Germany, the social norm for making small families established before Word War II shaped the basic trend of the fertility decline after the postwar baby boom and caused the continuous postponement of marriage and the first child bearing. The relatively low extra-marital births ratio and the only slowly increasing cohabitation in former West Germany show the unchanged conservative attitudes for marriage and child bearing. 2. The historical review of the population policies in Nazi regime and in former East Germany under the socialist government shows that even the strong pro-natalistic policies can have only temporal and limited effect on fertility development. And they could cause a rather strong reaction if they are terminated. The economic support for child bearing in former West Germany and in present Germany show no visible effects on fertility trends either.
著者
坂東 浩司
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.107-119, 1988

日本固有の事物や日本の文化的特徴を有する事柄の英訳法は, 文章の種類やその用途によって訳出法は異なるが, 大体次の六つの方法が考えられる。(イ)類似事物の英語相当語を代用する。(口)英語相当語に'Japanese'を冠する。(ハ)説明的表現にする。(二)日本語をそのまま英語化する。(ホ)日本語と, 英語相当語または説明的表現を併置させる。(へ)和英合成の複合語にする。本稿では, これらの英訳法の特徴を概説したうえで, LafcadioHearnの物語文学作品に焦点を絞り, それらの作品中に散見される日本文化に関する語彙が上述のどの方法によって英訳されているかを考察した。考察にあたっては, Edward G.Seidensticker訳による川端康成の小説『伊豆の踊子』, 『雪国』, 『千羽鶴』の三作品を中心とした他の翻訳者たちによる英訳法との比較考察をおこなうことによって, Hearnの特異点を浮き彫りにさせた。その結果, 彼の物語文学における英訳法は他の翻訳者たちのそれとは異なり, 随筆や論考における英訳法と同様の手法を用いているという結論を導くことができた。これは, Hearnが作家であると同時に研究者であるため, 彼にとっては物語文学が随筆や論考などの一連のジャンルの著作と同様に, 広義の日本研究の一環であり, 日本人の精神的特性を究明し, それを英米人に紹介するという彼の主要テーマの延長線上にあるためである。実際の創作過程において, 彼が日本の風俗・習慣や日本的色彩の濃い語彙を積極的に作品中に採り入れて英訳を試みているのも, こうした彼の執筆姿勢の反映であると見ることができると論及した。
著者
松木 民雄
出版者
北海道東海大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1990

春秋時代の城郭国家では、社会分業は士・農・工・商の摩四民によって構成されるのが一般であった。その中の商業について『春秋左氏伝』を中心として考察を進めた。商に関する用例を分析するにあたっては、商と同様に商業関係の概念を有する賈についても並行して対照的に検討を加え、その用法を明らかにした。『左伝』において商と賈の用例を分析すると、国名・地名・氏・名の用例のほか、商業関係を示す事例が多見され、これを比較した場合、幾つかの特徴が見られる。即ち、商業人や商業身分を示すには商が多用され、僅かではあるが、春秋後期には賈も同意義で互用されることがある。他方、売買行為や価格を示するには専ら賈が使われ、殊に商には売買に関する動詞的用法は見られない。このことは、商と賈は本来的には異なる意味を有していたものであるが、『左伝』では商業人と商業者身分を示す点に於ては次第に融合しあい、互用されるようになる状況を示している。従って春秋中期にあたる宣公十二年に「商農工賈」とあるのは、商と賈が異なる性格を有していた段階の相違点が意識されて記載されてものであり、商は有力な商業者層を含む商業身分を示し、賈は販売を扱う広義の一般商人であって、前者の商は賈と比べて相対的に大商人を含んでいたと察せられる。のち次第に商と賈は接近し、『左伝』に散見する互用事例しとなり、戦国秦漢以降は、商賈が一体化して熟語となって、商人一般の総称としての用法が現われるようになる。『左伝』では、商と賈の別義から、やがて互用され、後には一語(商賈)になるまでの過渡的状況が示されていることが判明された。当該年度の作成にかかる小論「左伝における商と賈」の概要は上記の如きであります。
著者
佐保 吉一
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.119-134, 2000

The purpose of this article is to verify the development of the Jutland Proprietors' Quarrel in 18th century Denmark and to consider the meaning of it. In Denmark in 1784,the reform-intentioned government was born and so-called "agricultural reform" had set its course. Soon major laws came out; the adjustment of the relations between landlord and farmer, to the advantage of the latter (1787), abolition of the Stavnsband (adscription) (1788), and so on. The consolidation of the farming land had gone further and already changed the scenery of the rural landscape. And two further measures that favored the peasant were the rights to trade in corn and to stallfeed oxen, which had hitherto been the exclusive privileges of the landowner. As the reform proceeded, 103 Jutland landowners in 1791 presented a petition to the Crown Prince for the abolition of the new measures as injurious to the country. "What is passed by Royal Order" retorted the Crown Prince, "cannot be changed." Later this petition was sent to the Danish Chanceller and the attorney general at that time, Christian Colbjornsen, published a critical pamphlet on the petition by the Jutland landowners. Finally, a survey committee had been set up and Colbjornsen brought a lawsuit against Luttichau, who was the one that handed the petition to the Crown Prince and criticized Colbjornsen harshly. The committee found out that there were some false signatures and Colbjornsen won the lawsuit. The Jutland landowners were defeated, which meant that the reformists won and the government acquired a confidence to go on further with the reform. In the meantime, the landowner-hating bourgoisie of Copenhagen favored the development. And there came a voice of erecting a monument in order to commemorate the introduction of these peasant reforms in the gratitude to King Christian VII. This brought the erection of the Liberty Memorial (completed in 1797). As far as the agricultural reform is concerned, the final goal was the abolition of the boonwork (hoveri) and this was the most critical issue that deprived the landowners of their social and economic power. The government was watching the development of the peasants' uprising and the landowners' response. At length government officials decided to slow down the reform by issuing some Royal Decrees that favored the landowner class. Standing in between, the position of the government became difficult and they took the course in between. And this compromising course was caused by the incident of this Jutland Proprietors' Quarrel.
著者
立原 祥弘
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 芸術工学部 (ISSN:02884992)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-15, 1992-07-30

1.測定した純金属及び黄銅などの合金の熱膨張率は,温度上昇に比例して直線的に増加しており,熱膨張係数は温度によらず一定の値となっている。これは定義からも明らかな様に,熱膨張係数とは熱膨張率のグラフの傾き即ち微分係数に相当するものであるから,熱膨張率の変化が直線的であればグラフの傾きはどの点でも同じ値となり熱膨張係数は一定の値となる。加熱・冷却においても熱膨張率はほぼ一致した値を示し,可逆的変化であった。また,これら各金属の熱膨張率及び熱膨張係数の値はいずれも融点に逆比例している。以上の点から今回測定を行なった純金属および通常合金の熱膨張は,冒頭で述べているような原子間ポテンシャルの釣合いのもとでの原子の熱振動による膨張であることが分かる。2.インバー型合金の成分である鉄,ニッケル,コバルトはいずれも磁石に吸い付く強い磁性を示す強磁性体で,外部から磁界をかけるとある一定の値に磁化してしまう。これは強磁性体の内部で自発的に発生している自発磁化が,外部磁界の影響で一定方向に揃えられるためであり,このときに微少な体積増加をする。ところがこのような強磁性体を加熱すると自発磁化の強さが減少し始め,ある温度になると消滅してしまう。この温度をキュリー点とよんでおり,このキュリー点と熱膨張の間には密接な関係がある。その関係を図13^6)に示す。ニッケルのキュリー点358℃で熱膨張係数は極大値となり体積が急激に膨張しているが,これは温度上昇にともなう自発磁化の消失(=強磁性の消失)による体積変化を意味し一般に自発体積磁歪と呼ばれている。また,外部から強い磁界をかけることによって強磁性体の磁化の強さはさらに増加し,このときにも体積が変化することが知られておりこの効果を強制体積磁歪という。この値は温度により変化し,キュリー点付近で極大を示す。この効果をニッケル及び白金の濃度変化と対応させると,いずれもインバー特性を示す30%Niおよび26%Pt濃度付近でピークとなり,他の合金に比べて2桁ほど大きな値となっている。我々が測定したFe-Pt合金は56%Ptであるが26%Ptと同様熱収縮を示しており56%Ptにおいても強制体積磁歪の効果が影響していると考えられる。インバー型合金の温度対熱膨張率の関係を見ると,一般的にキュリー点以上の温度では熱膨張率はほぼ直線的に増加し,キュリー点以下では複雑な温度変化をたどるが熱膨張係数は0に近い値となっている。このことからもインバー合金の低熱膨張性は, 強磁性の消失に伴う体積変化,即ち異常熱収縮が生じた結果によるもので,キュリー点以上での熱膨張は原子の熱振動のみが関与しキュリー点以下では熱振動による熱膨張を磁歪による磁気体積効果が打ち消しているものと考えられ,インバー合金はこの自発体積磁歪が他の合金に比べて非上に大きな値を持つのである。この様子をモデル化すると図14^7)の様になるが, この二つの磁歪による磁気体積効果のみで説明がつく訳ではない。次に, インバー特性と合金組成の依存性を調べると,Fe-Ni合金の場合冷却によって生じるγ相(面心立方格子)→α相(体心立方格子)への変態の限界組成はおよそ32%Niでこれ以上の濃度領域ではγ相となっており,インバー特性はγ相の40〜50%Ni付近から現われ限界組成付近で最も強くなり,α相になるとインバー特性も消失する事も知られている。他のインバー合金の場合もインバー特性は結晶構造がγ相(面心立方格子)からα相(体心立方格子)へ変態する相境界付近に現れており,結晶構造との間に何らかの関係が存在するものと思われる。例えばFe-Ni合金の格子定数(原子間距離)の濃度依存性をみると,100%Niから濃度の減少とともに格子定数は直線的に増加するがインバー組成において急減する。この点はちょうど磁気モーメントが減少し強磁性が減少し始める点とも一致している。この一つの原因として,Weiss^8)は面心立方格子中の鉄原子が磁気モーメントの小さい(これを低スピン状態という)反強磁性と磁気モーメントの大きい(高スピン状態)強磁性の対称的性質を持つ2つの電子状態を考え,高ニッケル濃度側では高スピン状態が安定でこれに対して鉄側では低スピン状態が安定であり,温度上昇と共により小さな格子定数を持つ低スピン状態が励起されるため収縮をもたらすと考えた。上記の様にインバー合金などでは数百度程度の温度まで熱膨張率が一定で,かつ熱膨張係数の数値が通常合金に比べ1桁ないし2桁小さくなっており,明らかに異なる傾向を示す。このような低膨張性は一般にインバー特性とも呼ばれており,原子間ポテンシャルに基づく熱膨張の考えのみでは説明できない。また,Fe-Ni合金に代表されるインバー合金はいわゆる強磁性体であり,この磁気的性質にも多くの異常性が見られる事からも独自の研究がなされており,異常熱膨張との関係も調べられている。これらの異常性については
著者
高島 義信 高田 壮則 工藤 敬太 松村 英樹 蓑輪 直幸
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 理工学系 (ISSN:09162097)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.51-60, 1996-03-21

The variation in the weight of individuals with same age and the age-specific maturation ratio of white-spotted charr Salvelinus leucomaenis are examined in Furuu River in Hokkaido. The variance in the age-specific weight is extremely high and the strong intraspecific competition is expected to occur in the population. The maturation ratio of females in the stream is zero at any age and that of males in the river ranges from about 21 % to 58 % depending on age. It is shown that (1) it is a rare event for females to mature in the river, (2) the proportion of maturing in the river is about 21 % in males with 2+ age and (3) there is a possibility that both males and females with 5+ age in the river migrate to the sea. (4) about 25 % of sea-run individuals are immature.
著者
阿波加 純
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要 理工学系 (ISSN:09162097)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-8, 1999

When a down looking radar observes rain from space, the cross sectional shape of each raindrop becomes very close to that of a disk, which fact implies that the hack scatter properties of raindrops may he approximated by those of spherical raindrops. To assess the accuracy of the assumption of spherical raindrops, this paper compares the hack scatter properties of deformed raindrops with those of spherical raindrops : the computation is made at 13.8 GHz, which frequency is used by the TRMM space-borne rain radar. This paper also derives expressions which approximate the backscatter cross section of deformed raindrops. The approximate expressions may be useful for examining the dependence of back scatter cross section on canting angles of raindrops.
著者
馬場 雅美
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 芸術工学部 (ISSN:02884992)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.65-74, 1998-03-20

En ce qui conserne de l'art de la Fin de Siecle a prague, sa recherche vient de se mettre en route apres la liberation du pouvoir communiste qui devalorisait l'Art Nouveau. Ici, nous allons decrire des circonstances artistiques des 1880 aux 1890,1'epoque de transposition de 1'historicisme a la "Secession" tcheque ou l'Art Nouveau a prague, que nous connaissons encore peu au Japon.
著者
佐保 吉一
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.29-48, 2006-03-25

The aim of this study is to conduct a fundamental study on the Danish Reformation, from the political point of view. Specifically there are three different phases for the process; (1) the spread of Luther's teaching (1517-33), (2) the Count's War (1534-36), (3) the promulgation of the Coronation Charter and Church Ordinance etc. (1536-50). During the first phase, Lutherism introduced into Denmark already in 1519. And gradually the doctrine of Luther spread in Denmark, especially in the towns. Frederik I passed away in April 1533. The official church policy of his was not something definite, swinging between Catholicism and Protestantism. But personally he seemed favored the Lutherism. During the second phase after the death of Frederik I, the political crisis broke out. In 1533 summer, they could not decide the next Danish king and the Rigsraad. consisting of the higher nobility and clergymen took over to govern the country. This led to the the Count' War. The town of Lubeck took the revenge. After two years, the oldest son of ex-king, Duke Christian (later Christian III) gained power and he ended the war. During the third phase, Christian III marched into Copenhagen in August 1536 and soon ordered imprisonment of 7 Catholic bishops. Christian III's victory was a prelude to the Reformation in Denmark. The Diet mettings of October 1536 agreed to the policy of the king and in 1537 the fundamental law of the new church, Church Ordinance came out. Finally the Danish translation of the Bible published in 1550. The characteristics of the Danish Reformation are; it is known as "bloodless" and conducted in a very short time, and it was a political reform from above, conducted by the initiative of the king. After the Reformation the tradition of the Apostolic Succession ceased. Looking at the process of the realization of the Danish Reformation, it is the course of the centralization of political power to the king, which led to the introduction of the absolute monarchy in 1661.
著者
林 茂保
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 芸術工学部 (ISSN:02884992)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.9a-13a, 1987-03-30

Finland is the only country of the European Democratic Countries which has concluded The Treaty of Mutual Aid with Soviet Union. Finland has been acknowleding her own foreign bolicy as 'pro-Soviet and Neutralistic', but her peculiar circumstances to the Soviet Union has been called 'Finlandization' in the branch of Political Science. Since Prime Minister Nakasone addressed the audience in his way side speech on the day of the announcement of the election of the House of Councilors as if it (Japan) did nothing to prepare for defending our own country, it (Japan) would become such a country as Finland, which seems like a pseudo-satellite state of the Soviet Union, and aroused criticism, 'Finlandzation' has been an object of discussion in our country. There are now different definitions of 'Finlandization', i.e. N. Elviek says 'It is the condition that a certain country is gradually being controlled by the affairs of the state from her diplomacy to her domestic administration due to having repeated its concessions to tee Soviet Union diplomatically by tha country and Osamu Eya says, 'It is the way how a lesser power, neighboring a superpowers (like U.S.A. and the Soviet Union) maintains her neutrality, keeps her independence by its clever diplomacy, without losing her sovereignty and so on. I'd like to demonstrate which definition is the nearest one to the truth of 'Finlandization.
著者
FUNATSU Michelle
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.83-96, 1994

1994年8月に,札幌国際交流プラザ主催による第三回日米露学生集中講座が,「相互依存,平和維持」に関するグローバルな視野を育成し,講義,演習,討論,見学を通して学生に学習する場を与えることを目的として開催された。本論は,その集中講座の中で筆者が担当した2回の講義に基づき,若者の中で無意識の内に形成される精神構造を指摘し,それがもたらす様々な弊害を考察する。その精神構造とは,達成するのが不可能な課題を出すという誤謬(Failure Programming)によって生み出されるものであり,変革を成し遂げる冒険を犯そうとしなくなる無意識の精神構造を形成する。それは,社会の隅々にまで浸透し,潜在的に普遍化されている。この精神構造は,筆者が「文化的撤退」(Cultural Fallback)と呼ぶものに顕著に現れ,それは,戦時下において,想定された作戦行動が現実に起こっている戦況に適していないため,撤退という作戦行動を望んで選択するという状況(Fallback)に類似している。本論では,文化的撤退の典型的な例として,「人類は皆兄弟である」であるという認識のみを与えられ,現実にそぐわなくともそれ以上の詮索は無用という精神構造を指摘し,さらに,学生のレポートにみられる様々な文化的撤退の例を示す。その好例としては,曖昧さを使ったごまかし,定型に合わないといった言い訳,楽観論のみの批評,専門用語の無意味な羅列,その場しのぎの時間つぶしと責任転嫁などが挙げられる。