著者
大瀧 友織 Otaki Tomoori オオタキ トモオリ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.359-379, 2002

現在、離婚の増加や晩婚化・非婚化現象の進行、夫婦別姓を求める声の高まりなど、さまざまな変化が生じており、夫婦関係は分析対象としての重要性を増している。本稿の目的は、身の上相談を資料として、夫婦の日常生活上の問題を歴史的に検討し、夫婦関係の変容をより詳細に捉え直すことである。従来の身の上相談をもちいた研究では、相談内容のみを対象としたものが比較的多いが、本稿では相談・回答をあわせて利用する。相談者が自身の状況のみから悩みを訴えるのに対して、回答者は多数の読者の存在を考慮に入れている。この立場の違いから、悩みごとの捉え方もおのずから異なってくる。そのために、相談者が悩んでいるにもかかわらず、回答者がそれを悩みとして認めないという、「認識のズレ」が生ずる。この「認識のズレ」に着目することによって、相談内容のみを対象としていたのでは検討することができない、夫婦問題に関する認識の微妙な変化を捉えることができる。なぜなら「認識のズレ」の拡大は、それまで見られなかった事象が問題視され始めたことを示しており、逆に縮小は問題に対する新たな認識が浸透してきたことを示していると考えられるからである。本稿では、この「認識のズレ」の変動と、相談内容別のカテゴリーとを合わせて分析することによって、戦後の日本において夫婦関係がどのように捉えられてきたのかを明らかにする。Now various changes occur in man and wife relation, and marital relationship becomes important as an analysis target. A purpose of this report examines problems on daily life of man and wife historically. I use an advice column as a document. In the precedence study used an advice column, there are comparatively many studies that handled only consultation contents. But I utilize both consultation and an answer. A consultation person appeals for a trouble only from the position of oneself. On the other hand, a respondent takes existence of a lot of readers into account. From a difference of a position of a consultation person and a respondent, there is a difference on recognition of a trouble. Therefore "a gap of recognition" occurs. "A gap of recognition" is that a consultation person is troubled, but respondent does not recognize it as a trouble. By paying my attention to this "gap of recognition," I can examine a few changes about man and wife problem. I cannot examine it, if I utilize only consultation contents. I regard expansion of "a gap of recognition" as it became consider to be a problem that it was not a problem till then. On the other hand, I regard reduction of "a gap of recognition" as new recognition for a problem spread. I analyze both change of this "gap of recognition" and category according to consultation contents. And I make clear how man and wife relation has been caught in Japan of after the war.
著者
遠藤 竜馬 Endo Tatsuma エンドウ タツマ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.19, pp.53-70, 1998

本稿は、モータースポーツの「草の根」たる底辺層として、一般公道で「スピードレース型の暴走行為」に興じる若者サブカルチャー─彼らは「ストリート」とも呼ばれる─に注目する。彼らの行為は明らかに違法であり、それをモータースポーツに含めること自体が問題視されかねない。しかし、彼らの実態やモータースポーツ界全体をとりまく社会的環境について知ることで、その出現には必然的といいうる面もあることが理解されよう。クルマの改造=チューニングの法規による厳しい制限と、それを反映したモータースポーツ統轄組織の政策が、結果的に彼らを公道上の危険な遊びへと追いやっているのである。さらに視野を拡げるならば、こうした事態の背景に存する、意味論的な次元の問題もまた指摘できる。「スピード」と「安全」の二項対立へと構造化されたクルマ社会の言説空間のなかで、モータースポーツとは認識地平の外部へと「排除された第三項」にほかならない。この事実に対して我々は、ストリートの若者たちの自称である「走り屋」という言葉に、モータースポーツの自立=自律性カテゴリーを打ち立てようとする政治学を見いだせる。それはH ・サックスのいう「革命的カテゴリー」なのである。
著者
山本 文子 Yamamoto Ayako ヤマモト アヤコ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.30, pp.119-135, 2009

ビルマにはナッと呼ばれる精霊や神に対する信仰があるとされている。しかし、実際のビルマの人びとの多くは、ナッの実在に対しているかいないかわからないと考えたり(不確定性)、存在しないと考えたりしている(非実在性)。本論文では、ナッの実在に対して不確定、あるいは非実在の立場をとる語りをもとに、従来のナッ信仰の人類学的研究(スパイロの心理学的アプローチ、ナッシュの社会的機能によるアプローチ、田村の象徴論的アプローチ)が想定してきたナッ信仰と、実際のビルマにおけるナッの実在に対する多くの人びとの否定的認識には隔たりがあることを指摘する。この隔たりは、他者の信念の記述可能性を論じた浜本によるコミュニケーション空間という概念から説明できる。浜本によれば、人類学者が他者の慣行Sについて「彼らはSを信じている」と記述するとき、その話者のコミュニケーション空間において、Sが真とみなされないと想定していることを意味する。反対に他者の慣行Pが話者のコミュニケーション空間において真とみなされるとき「彼らはPを知っている」と記述される。精霊の実在の不確定性や非実在性は、「彼らは~を信じている」とは表わされてこなかった、つまり、精霊の実在を信じる人だけが問題化され、そうでない人(精霊の実在を不安定、非実在とする人)が問題化されなかったのは、「信じる」という語に込められていた人類学者の側の認識によると説明できる。
著者
相澤 哲
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.17, pp.85-100, 1996

特定の諸関係の中で、個人がある属性を持つところの主体として構成される過程、即ち「主体化」が、M ・フーコーの仕事における一貫した主題であったことは、今日ではよく知られている。さて、しかし、なぜ「主体」でなく「主体化」なのか? 「主体」になる前の「個人」とは、いかなるものか?本稿前半部では、まず、主体を何らかの操作の結果として、フーコーが扱い続けた理由を、彼の特異な思考の前提を明示することにより、確認する。その前提とは、次のものである。①主体の属性は、特定の実践上の技法の効果として生じる。②個人の〈内に〉複数の諸力が存在する。即ち、個人自体が、既に統治されねばならない複合的・政治的現象である。以上の議論を踏まえ、後半部では、「道徳的主体化の様式」に関する、フーコーの晩年の仕事が持つ意味について、考察する。重要なポイントは、フーコーが、①普遍的規範こそ道徳的主体性の基盤である、とする、西欧哲学において支配的な信念を問い直していること、②普遍的規範への要請・信頼を、特定の道徳的主体化の様式の採用に随伴するものとして、捉えていること、である。結論。もしも我々に共通に与えられているものがあるとすれば、それは、複数の諸力の中で、自らを何らかの実践によって統御せねばならない、という課題であり、規範は、そのための方法でしかない。規範の力でなく、規範を自らにあてがおうとする力の方が本源的なのだ。
著者
渡邊 太 Watanabe Futoshi ワタナベ フトシ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.21, pp.225-241, 2000

一九七〇年代から発展したカルト宗教は、外部社会とのあいだに高い緊張を生じた。とりわけ、信者の家族がカルトと激しく対立する。何人かの心理学者や精神科医は、洗脳やマインド・コントロールによって若者を騙して入信させているとしてカルトを批判する。子どもをカルトに奪われた家族は、騙されている子どもを助け出してやらなければならないと考える。カルト信者の救出には、ディプログラミングや救出カウンセリングといった方法がもちいられる。元信者たちは、脱会後に様ざまな心理的苦悩やコミュニケーションの困難に直面する。脱会者の苦悩は、自己の存在の根本的な安定性が失われることによる。本稿は、統一教会信者の救出活動を事例として、このポスト・カルト問題と救出カウンセリングのコミュニケーション・パターンとの関連をあきらかにする。救出カウンセリングでは、R ・D ・レインが指摘するような、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーション・パターンが繰り返される。その結果、脱会者は自己のアイデンティティについての確かな感覚を得ることができなくなるのである。カルト信者を救出する方法は、初期の強制的なやり方から、家族の愛による救出を強調する、より穏やかな方法へと移行してきた。だが、家族の密接な結びつきは、人を「安住しえない境地」に置くコミュニケーションを生み出しやすい。そのことが、ポスト・カルト問題の解決を困難にしている。
著者
樋口 耕一 Higuchi Koichi ヒグチ コウイチ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.24, pp.193-214, 2003

社会調査によって得られる質的データには新聞・雑誌記事、質問紙調査における自由記述、インタビュー・データなど様々なものがある。コンピュータ・コーディングとは、それらの質的データを計量的に、また多くの場合は探索的に分析するための手法である。本稿の目的は、独自に開発されたソフトウェア「KH CODER」を用いてコンピュータ・コーディングを実践するための手順を詳細に記述し、これを通じて方法論とプログラムを紹介・提案することにある。本稿の記述は、各自のパソコン上で手順を追うことができるチュートリアルとなっており、題材として用いるデータは夏目漱石「こころ」である。チュートリアルの中では、作品全体を通して頻繁に出現している言葉や、上・中・下それぞれの部で特徴的な言葉から、作品の構成・特徴を探る。また、人の死やその原因となりうる事柄を表す言葉が、作品全体のどの部分で頻出しているのかという集計を行うことで、人の死が作品中でいかに描かれているかを探索する。この結果として、「先生」という登場人物の自殺が突然・不自然になされているという指摘は、必ずしも当てはまらないことが再確認された。
著者
梶原 景昭
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.16, pp.21-37, 1995

フィリピン社会に、今日でもきわめて強い浸透力をもつフォークロアが存在する。それは太平洋戦争中、旧日本軍が戦争遂行のための財貨をフィリピン国内に隠匿し、現在でもまだ埋まっているというものである。戦争末期に山下奉文大将がフィリピン方面軍司令官として着任し、その後降伏したこともあって、この隠された財貨は「山下財宝」と総称されている。この覚書は、今日でも人びとがうわさし、実際に財宝を求めて探索を続けている「山下財宝」伝説を、フィリピン社会・文化の文脈のなかで位置づけ、戦後五〇年にわたる変化の軌跡についてもあわせて検討するものである。この伝説のありようは、フィリピン人の世界観、歴史的背景、対外関係、富の概念、経済の状況、国家のあり方、政治権力の性格などを、多層的に映し出している。なお本稿を書くにあたり、平成六年度文部省海外学術調査「異文化共存の可能性」(代表 青木保) に関わる実地調査に負うている。ここに感謝を示したい。
著者
鈴木 彩加
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.30, pp.61-66, 2009

書評 : Anita Superson & Ann Cudd(eds.), "Theorizing Backlash : Philosophical Reflections on the Resistance to Feminism", Roman & Littlefield Publishers, Inc., 2002
著者
時安 邦治 Tokiyasu Kuniharu トキヤス クニハル
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.20, pp.79-95, 1999

本稿はギデンズのセクシュアリティ論を「社会理論の再ジェンダー化」という視点から読む試みである。本稿では、まずギデンズの「反省能力(再帰性)」という鍵概念について検討する。それから、ギデンズのフーコー批判の論点を整理し、ギデンズの理論の特徴を明らかにしたい。ギデンズの『親密性の変容』によれば、反省能力の高まりは、一方で性の知識の社会への浸透を促し、生殖から自律した「柔軟なセクシュアリティ」の可能性を切り開いていく。それは他方で、人間関係に「親密性の変容」を生じさせる。カップルの関係は、従来のロマンティック・ラブを理想とする異性愛関係から、「溶け合う愛」による「純粋な付き合い」へと変わっていく。純粋な付き合いはパートナー同士の対等な関係であり、その意味で民主的な関係である。このような民主的な関係の可能性をフーコーは見落しているとギデンズは言う。ギデンズのセクシュアリティ論には、反省能力を通じてジェンダー関係を民主化する戦略が読み取れる。反省能力がどう作用して、どう社会が変容していくかは常に不確定性をもつという意味では、ギデンズの戦略がうまくゆく保証はないが、私は彼の意図をイデオロギー批判として評価したいと思う。
著者
木島 由晶 Kijima Yoshimasa キジマ ヨシマサ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.23, pp.381-396, 2002

This article attempts to review and analyze the social discourses on so-called 'multi-level marketing plan (MLM)' in past and present, focusing mainly on the case of Amway, the largest corporation of those based on such a system. The MLM has been attracting social attention because of its two remarkable aspects. One is its new style of marketing plan, which has attracted both jurists' and economists' interests since 1970s. While the jurists considered the system as 'wicked business' bringing the serious social problems, some economists positively emphasized its revolutionary aspect as 'network business'. The other is the new type of social relationship among the distributors in this system, which has become a focus of the public since 1990s when MLM gained popularity and has sometimes been interpreted in terms of 'pseudoreligion'. On the one hand social psychologists took the situation of the distributors negatively as 'mind-controlled' . Some sociologists of religion on the other regarded them more positively as 'seeking for their real selves'. The analysis of such contradicting social discourses on MLM reveals some factors that this system has to evoke discussions in terms of 'good' or 'evil'. The key to understand the phenomena is the confusion of 'public' or 'formal' with 'private' or 'informal' domains. To assert such factors existing in the system we need more detailed sociological research on this system.
著者
森田 数実 Morita Kazumi モリタ カズミ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.257-272, 1999

30年代のホルクハイマーは、彼本来の人間学的関心を社会理論に組み入れる形で発展させていった。本稿は、そうした人間学的研究のもとに行われた彼の市民的道徳批判を検討し、その批判の人間学的基礎を明らかにすることを目標とする。本研究ではまず最初に、この時期のホルクハイマーがとったイデオロギー批判という思考様式について考察し、それを主体把握の社会科学的、心理学的脱中心化の傾向のなかに位置づけ、彼に対するマルクスとフロイトの影響という問題に、ひとつの統一的な解釈を提出する。それを受けて、ホルクハイマーにおける市民的道徳のイデオロギー批判が、市民社会の生活過程、とりわけ道徳の支配に関わる機能から考察されていることを明らかにする。エゴイスティックな経済・社会原理とは裏腹に、道徳においてはエゴイズムの弾劾が熱弁をもつて語られており、そしてそれは、一方で競争原理の制限に、他方で大衆の欲求の内面化に寄与する。次に、矛盾に満ちた市民社会の交換関係を媒介する一契機として市民的道徳を捉えるこうした視座が、さらに市民的指導者の社会的機能についての優れた構造分析によって重層化されていることも指摘する。これまでのホルクハイマー研究においては、ド・サドやニーチェといった思想家に対する彼の終始変わらぬ関心と彼の社会理論との関連は、ひとつの空所をなしており、本稿は、それを埋めるひとつの試みである。In dend reif3igeJra hrenh at Horkheimevre rsuchts, einu rsprunglicheasn thropologischIenst eresse aufgrunde iner Gesellschaftstheowriee iterz u verfolgenI.m vorliegendeAn ufsatzw irdd araufg eziel,t seine Kritik an der burgerlichen Moral unter der Voraussetzung seiner anthropologischen Untersuchungen zu interpretieren, and die anthropologische Basis seiner Moralkritik herauszuarbeiten. Zunachstw ird versucht, seine Denkweisea ls Ideologie-Kritikz u charakterisieren. Diese Denkweisei st eine Konsequenzje ner Geistesstromung,d ie die gesellschaftstheoretischea nd psychologischDe ezentrierungd es sich zu Unrechta utonomd unkendenS ubjektst reibt and deren wichtigeV ertreterv or allemM arxa nd Freuds ind.A usd ieserP erspektivwe irdd annf estgestell,t da13 Horkheimerd ie asketischeb urgelicheM oral in den Zusammenhangm it dem Lebensprozef3d er burgerlichen Gesellschaft bringt. Seiner Auffassung nach hat die burgerliche Moral eine Doppelfunktioinn der Gesellschafet,i nerseitsd ieK onkurrenzin dieserG esellschazftu beschranken and andererseits die Bediirfnisse der Massen zu verinnerlichen. Durch diese gesellschaftliche Doppelfunktiodner Moralw irdd as widerspruchsvollTeasu schverhaltndise rb urgerlicheGn esellschaft vermittelt. Weiter wird klargemacht, daf3 die Strukturanalyse der gesellschaftlichen and herrschaftlicheFnu nktiond er burgerlichenF uhrerH orkheimerAs nalysed er gesellschaftlichean d personlicheFnu nktiond er burgerlichenM oralv ertieft.I n der bisherigenH orkheimer-Forschuinstg derZ usammenhanzgw ischend emI nteresseH orkheimerasn den dunkleno ders chwarzenD enkernd es Burgertumsw ie Nietzscheo der de Sadea nd seinerG esellschaftstheornieic ht grundlichb ehandelt worden.H ierh andelte s sich um einenV ersuchd, ieseL iicked er Forschungso weit wie moglichz u fallen.
著者
樋口 昌彦 Higuchi Masahiko ヒグチ マサヒコ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.509-523, 1999

感情社会学の主張の根幹とは、感情は個人的事象・自然現象である、と考えがちである社会通念に対して、「感情は、社会的なものである」という事態を説明していくことであった。これをふまえ、70年代後半以降展開されている感情社会学の初期の論考の多くは実質上、このテーゼを「感情は、社会に影響を受けて成り立つ」という主張としてとらえ、一定の成果を上げた。しかしながら、その主張、─「感情の社会に影響を受けて成り立つ」という主張─ は、感情の社会性の一面のみを見ているにすぎず、それだけに注目すると、重要な要点を把握しそこねる。あるいは、むしろこの説明のみをくりかえすことは、「個人が感情を持つ」という通俗理解をなぞることになり、感情社会学が主張しうる「感情の社会性」の重大な要点を取り逃がす恐れがある。したがって感情社会学のさらなる展開の可能性を求めるならば、この通俗理解の内実を明らかにし、本来の注目すべき含意=「感情とは個人を越える事象でもあり、その意味において社会的である」という点を明確化する必要があり、それが本稿の目的である。The sociology of emotion is a relatively new field within the discipline of sociology, and the main thesis in this field is "emotion is a social thing." However, there is often serious limitation in the meaning of this thesis. In this paper, at first I try to indicate the limitation. It is based on our conviction that "we have our own emotions." Secondly, I discuss some theories of the emotions over the limitation that is focusing on an internal/external communication. Finally, I attempt to propose a significant way of thinking in the sociology of emotion. It is the position regarding expressions and vocabularies of emotions.