著者
稲葉 維摩
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1124-1129, 2013-03-25

動詞jay-/ji- (jaya-ti, Pa. jaya-ti, je-ti)「(戦いや賭博に)勝つ,〜を勝ち取る,〜を負かす」とjya-/ji- (jina-ti, Pa, jina-ti)「人(acc./gen.)から物(acc.)を奪う,〜を暴行する」,(jiya-te, Pa. jiya-ti, jiyya-ti)の「〜を奪われる,失う」は,その形態や意味から,明確に別々の言葉である.しかしパーリ語では,いくつかの点で語形や意味が重なり,本来の姿が不明瞭になる.本稿では,パーリ語三蔵(実際には経律蔵)と蔵外文献とにおいて,基本的な語形と意味を示す現在形と使役形の用例を整理した(なお,jiya-te, Pa. jiya-ti, jiyya-tiについては,本稿において取り上げなかった).ヴェーダ文献において,両者は明確に別々の言葉として用いられているが,しばしば語形や意味の点で混同される例が,先行研究によって指摘されている.パーリ語において,両者はヴェーダ文献と同様それぞれの基本的な意味において用いられる一方,jina-tiがjaya-ti「勝つ,勝ち取る,負かす」の意味で盛んに用いられている.パーリ語japaya-tiはjay-/ji-の使役形japaya-tiとjya-/ji-の使役形jyapaya-tiのどちらにも由来しうるが,意味の点から,jyapaya-tiがに由来すると考えられる.パーリ語において,明確に使役動詞として用いられている例の他,解釈の余地のある例があったが,これについては,さらなる検討を必要とする.
著者
吉水 清孝
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.867-860, 2012-03-20
著者
釋 果暉 洪 鴻榮
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1226-1231, 2006-03-25
被引用文献数
1

『仏説大安般守意経』の研究は,最初期の中国仏教あるいは格義仏教を解明する最も重要な手がかりになる.『仏大安般守意経』の研究の画期的な展開をもたらしたのは,大阪河内長野市にある金剛寺所蔵本『安般守意経』の発見である.しかも,同寺に発見された安世高訳の『仏説十二門経』『仏説解十二門経』が同時に『仏説大安般守意経』の解明にも大変役に立つ.高麗蔵の奥書に示されているように,『仏説大安般守意経』の全文には経文と註が大変混沌たる構文で溢れており,如何に「本文」と「註」を見分けるかは,大変困難な課題である.両経の関係を明らかにするには,一文字一文字の対応する関係のみを見るのではなく両経の内容から精査されなければならない.また,謝敷の『安般序』と道安の『安般注序』には『仏説大安般守意経』(あるいは『小安般経』)と深い関係のある『修行道地経』が言及されている.さらに,荒牧典俊(1993)の『出三蔵記集訳注』からも「大小安般経」は竺法護訳『修行道地経』の「数息品」に相当する禅観を説いたもの,という重要な示唆があった.したがって,『仏説大安般守意経』を研究するためには,『修行道地経』を重視しなければならない.そこで本発表では新発見『安般守意経』に類似する『仏説大安般守意経』の箇所を「本文」とし,「本文」に対する解釈を「註」と仮説設定し,『安般守意経』,『仏説大安般守意経』『修行道地経』という三つの経の内容を論究することによってこの仮説を検証する.『修行道地經』≪數息品≫(T.606, p.215c21-216a1)「(1)何謂修行數息守意求於寂然.(2)今當解説數息之法謂數息.(3)何謂為安.何謂為般.出息為安.入息為般.」『佛説大安般守意經』(T.602, p.165a3-6)「(1)道人行安般守意欲止意.當何因縁得止意.(2)聽説安般守意.(3)何等為安.何等為般.安名為入息.般名為出息.」『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』(p.188, line 61-62)「何等為安.何等為般.何等為安般守意.入息為安.出息為般」
著者
チュ(崔) ジンギョ(珍景)
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.1200-1203, 2012-03-25

1990年代の中頃,パキスタンのギルギットから〔根本〕説一切有部教団が伝承した梵文『長阿含経』の樺皮写本が発見された.写本は完全な形で残っていたなら454葉よりなる巨大写本であったが,前半部は痛みが激しく,回収されたのは後半部約250葉と多数の断片であった.写本の予備的な分析の結果,〔根本〕説一切有部教団の『長阿含経』が,第1編「六経品」全6経,第2編「双品」9組のペアー経典よりなる全18経,第3編「戒蘊品」全23経の,3編47経から構成されることが判明した.この中,私は,第3篇「戒蘊品」に含まれる第25経,さらに第27経と第28経の計三経典について,ミュンヘン大学のイェンス=ウヴェ・ハルトマンと佛教大学の松田和信の指導を受けながら,ミュンヘン大学に提出予定の学位請求論文の一部として,それら三経典の解読研究を行っている.その中,第27経と第28経は写本に現れるウッダーナ(項目,目次)から判断して,両方ともLohitya-sutraの同一タイトルで呼ばれていたことが知られる.パーリ長部の第12経(Lohicca-sutta)は,これら二経典の第28経の方に対応し,第27経はパーリ三蔵にも漢訳『長阿含経』にも対応経典の存しない〔根本〕説一切有部独自の経典である.今回の発表では,二つのLohitya-sutraの内容と解読研究の現状を報告し,なぜ同名の二つの経典が同じ『長阿含経』中に存在するのかを考察した.
著者
那須 良彦
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.360-356, 2008-12-20
著者
松森 秀幸
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.486-481, 2013-12-20
著者
友成 有紀
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.1179-1183, 2012-03-25

パーニニ文法学者は文典Astadhyayi (A)に何らかの技術的問題点が見つかった場合,常に詳細な説明(vyakhyana)を行いその排除に努めてきた.それらの問題は基本的にパーニニ文法学者の扱うべき課題であったが,Brhati (B)およびNyayamanjari (NM)という非文法学者による著作にそれらが批判されている箇所が存在する.前主張としてのヴェーダ批判の文脈に現れるこの批判は,内容としては大略パーニニ文法学者の著作,特にMahabhasyaの部分的な焼き直しに過ぎない.しかし,それらの議論がBおよびNMといった著作に取り上げられているという事実はなお一考の価値を有するものである.なぜなら,これらの議論の存在は,プラクリヤー文献と呼ばれるのAの注釈書群-これらはそれ以前の注釈書とは方法論的/性格的に一線を画する-が登場する舞台背景を我々に示し出す可能性を有しているからである.
著者
桂 紹隆
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.902-894, 2013-03-20
著者
鈴木 隆泰
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1154-1162, 2006-03-25

「吉祥天女品」は『金光明経』の中で,呪句の使用や世間的利益を求める儀礼の執行が最初に表明された章である.そこに見られる儀礼は,「仏教儀礼を応用したもの」と「ヒンドゥー儀礼を導入・受容したもの」の二種に大別され,どちらの場合も,『金光明経』の編纂者や護持者たちが従来実践していた諸儀礼を,攘災招福を目的として応用,あるいは導入・受容したものとなっている.防護呪パリッタを発達させた南伝仏教との比較や「吉祥天女品」に見られる在家者への意識,そして「この『金光明経』には世・出世間,仏教・非仏教を問わず,様々な教義や儀礼があり,しかもこの『金光明経』が一番勝れている」という『金光明経』「四天王品」の記述等も考慮に入れた結果,これまで便宜的に「〔大乗〕仏教の自立の模索の表れ」と仮定しておいた『金光明経』の持つ諸特徴を,「〔大乗〕仏教の生き残り策」と想定することが本研究を通して可能となった.『金光明経』の編纂者たちは,仏教に比べてヒンドゥーの勢力がますます強くなるグプタ期以降のインドの社会状況の中で,インド宗教界に生き残ってブッダに由来する法を伝えながら自らの修行を続けていくために,仏教,特に大乗仏教の価値や有用性や完備性を,在家者を含む支持者たちに強調しようとしたのである.覚りの伝承を旨とする出家者であっても,支持者たちの支援,特に在家者の経済的支援がなければ,修行を継続したり,伝法の使命を果たすことはできない.このように,『金光明経』をはじめとする種々の儀礼を説く経典は,律文献と同様,インド仏教の実像に迫るための有用な資料ともなりうるのである.