- 著者
-
伊藤 公雄
- 出版者
- 日本スポーツ社会学会
- 雑誌
- スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
- 巻号頁・発行日
- vol.27, no.2, pp.5-15, 2019-09-30 (Released:2020-10-15)
- 参考文献数
- 22
近代スポーツは男性主導で発展した。しかし、ジェンダー平等への大きな歴史的社会的展開は、現在、近代スポーツそのものの変容を生み出している。
本論文では、まずイヴァン・イリイチらによる全近代社会における地域的・文化的多様性を帯びたヴァナキュラーなジェンダー構造が、産業社会の登場によって、ある均質的な方向(イヴァン・イリイチのいう「経済セックス」)へと水路づけられた経過を概観する。その上で、イングランドにおいて誕生した近代スポーツが、ヨーロッパに特有なヴァナキュラーなジェンダー構図の上に、産業社会の生み出したジェンダー構造が結合するなかで成立した可能性についてふれる。また、このことは逆に、ヨーロッパ以外の伝統スポーツにおけるジェンダー構図の多様性を示唆していることを指摘する。
ノルベルト・エリアスの指摘が明らかにしているように、近代スポーツは、暴力の規制を伴って発展した。他方で、近代国民軍は、近代スポーツを基礎とした身体の規律・訓練の徹底をともなって発展した。そこには、戦争とスポーツとの密接な関わりとともに、男性同盟という特異な同性間の結合形態を見出すことができる。ここから、男性たちのスポーツシーンに今なお見出しうる、ホモセクシュアリティとは異なるが、(イヴ・セジウイックのいう)ホモソーシャリティといったレベルを超えた強い(ともに生死をともにすることで生まれるような)結合といった課題が浮上してくるだろう(これを、ホモエロティシズムと呼びたい)。
1970年代以後、急速に拡大したジェンダー平等の動きは、従来の男性主導の社会の根本的変化を生み出しつつある。産業構造の変容や価値観の変化は、従来の男性のヘゲモニーを食い破りつつある。その結果、剥奪感の男性化現象さえ可視化されつつある。こうした社会変容は、近代男性主導社会の象徴であったスポーツの世界においても、さまざまな病理現象をうみだしつつある。いわゆる中毒性を帯びた悪しき男性性という課題が、スポーツの世界においても大きな課題になっているのは、そのためだろう。
現代スポーツの変容を男性性という視座から再検討することは、近代スポーツの総括をするための必須の作業であるとともに、スポーツの今後を展望するためにも重要な視点といえるだろう。