著者
市川 裕 佐藤 研 桑原 久男 細田 あや子 上村 静 高井 啓介 月本 昭男 土居 由美 勝又 悦子 長谷川 修一 葛西 康徳 江添 誠 牧野 久実 高久 恭子
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2017-04-01

今年度の主たる実績は、以下の三つに分けられる。第1に、2017年8月に、イスラエルのテル・レヘシュ遺跡で、シナゴーグの全容を解明する発掘調査を実施した。これによって、本シナゴーグは、モーセ五書の巻物を置く台座と思われた石は、天井を支える支柱の礎石であることが判明し、全体は簡素な矩形の部屋に過ぎないことが明らかとなった。ここから、シナゴーグの用途を、安息日のトーラー朗読にのみ限定して考える必要がないものと想定された。第2に、出土した西暦1世紀のシナゴーグの発見がもたらす意義に関して、同時代的、宗教史的、比較宗教学的視点から、研究成果を持ち寄って、公開シンポジウムを実施した。シンポジウムの全体テーマは、「イスラエル新出土シナゴーグから 一神教の宗教史を見直す」である。( 2018年3月2日(金) 13時-18時 東京大学本郷キャンパス 法文1号館 113教室。)第3に、シナゴーグがユダヤ社会において果たした役割の変遷を、古代から中世にかけて考察するシンポジウムを実施した。シンポジウムの全体テーマは「ユダヤ共同体とその指導者たち -古代から中世へ-」である。(2018年1月21日(日)13:00-18:00 東京大学本郷キャンパス法文1号館113教室。)カイロで発見されたゲニザ文書から推定される、中世旧カイロ市(フスタート)のシナゴーグと共同体の関係について、イスラエル人の専門家の知見を得られたことは、歴史的変遷を明らかにするうえで非常に有益であった。
著者
勝又 悦子 勝又 直也 Etsuko Katsumata
出版者
同志社大学一神教学際研究センター
雑誌
一神教学際研究 = Journal of the interdisciplinary study of monotheistic religions : JISMOR (ISSN:18801080)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.25-42, 2019-03-31

本稿では、herut(自由)、支配者像、デモクラシーの語源でもあるdimosディモス(民)の用法分析を通して、ラビ文献においてデモクラシーの源流が観察されるか否かを考察する。個人としての完全な自由や支配者と大衆の完全な平等主義が当然とされている様相を見出すことはできない。むしろ、自由とは、何かしら法規によって限定されるものであり、支配者は支配者然として行動することが要望されていることが窺われる。さらに、本論を通して窺えるのは、ユダヤ文学においては、ディモスという術語から民主主義に関する議論が誘発される気配はないということである。それゆえ、19世紀のドイツユダヤ学の学者がしばしばそうしてきたようにユダヤ教と理想的な民主的なユダヤ教を同一視する傾向には十分注意する必要がある。
著者
勝又 悦子 Etsuko Katsumata
出版者
Doshisha University Center for Interdisciplinary Study of Monotheistic Religions (CISMOR)
雑誌
Journal of the interdisciplinary study of monotheistic religions : JISMOR (ISSN:18801080)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.27-44, 2019

本稿では、herut(自由)、支配者像、デモクラシーの語源でもあるdimosディモス(民)の用法分析を通して、ラビ文献においてデモクラシーの源流が観察されるか否かを考察する。個人としての完全な自由や支配者と大衆の完全な平等主義が当然とされている様相を見出すことはできない。むしろ、自由とは、何かしら法規によって限定されるものであり、支配者は支配者然として行動することが要望されていることが窺われる。さらに、本論を通して窺えるのは、ユダヤ文学においては、ディモスという術語から民主主義に関する議論が誘発される気配はないということである。それゆえ、19世紀のドイツユダヤ学の学者がしばしばそうしてきたようにユダヤ教と理想的な民主的なユダヤ教を同一視する傾向には十分注意する必要がある。
著者
ヤハロム ヨセフ 勝又 悦子 ヤハロム ヨセフ カツマタ エツコ Yahalom Joseph Katsumata Etsuko
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-15, 2016-06

講演(Lecture)シャブオートのピユート(典礼詩)には、初期の父祖たちがリストアップされ、彼らにトーラーを与えることをトーラー自身がまた天使たちが拒むというモチーフがある。これは一つには、トーラーを受けたモーセや割礼を初めて行ったアブラハム以前の父祖たちも義であることを理由に割礼などの戒律は不要だと主張するキリスト教側への論駁であろう。他方、こうしたピユートは、ラビ・ユダヤ教が対立していたはずの神秘主義文学シウール・コマとの並行関係がみられる。これより、ピユートには、キリスト教と対峙する標準的なユダヤ教の側面と、標準的なユダヤ教が対峙していたシウール・コマなどの神秘主義的な側面という、相反する側面を有していたことを意味する。訳: 勝又悦子
著者
勝又 悦子
出版者
同志社大学
雑誌
一神教学際研究 (ISSN:18801072)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.38-62, 2012

三大一神教の祖とされるアブラハムが唯一神の認識に至る道程は、ヘブライ語聖書では描かれていない。しかし、第二神殿時代文学、ラビ・ユダヤ教文献、タルグム(アラム語訳聖書)、クルアーン他には、いかにアブラハムが、唯一の神を認識し、父の代までの偶像崇拝と対決し、画策の上 、打破したかを描く共通の構成要素からなる伝承が広く存在する。本稿では、おそらく高い人気を博したと思われるこの「偶像を打破するアブラハム」伝承を、『ヨベル書』『アブラハムの黙示録』『創世記ラッバ』『タルグム・偽ヨナタン』そして、イスラームの『クルアーン』から訳出し、共通する構成要素を抽出し、強調点の相違、また父テラへの関係の相違から比較する。その結果、『ヨベル書』では唯一神の認識の重要性 、『アブラハムの黙示録』では偶像崇拝との対決が、『創世記ラッバ』『タルグム・偽ヨナタン』では様々な構成要素が万遍無く現れ、聖書解釈としての整合性の維持への関心が強いこと、また、『クルアーン』でのアブラハムは、地元住民への唯一神観念の導入を果たす役割に重点が置かれていることが窺える。
著者
勝又 悦子
出版者
東京大学文学部宗教学研究室
雑誌
東京大学宗教学年報 (ISSN:02896400)
巻号頁・発行日
no.28, pp.37-53, 2010

論文/ArticlesJerusalem Talmud Sanhrdrin. 9.2 and Genesis Rabba 80.1 convey a type of romp through the trenchant criticism of the Patriarch (Rabbi Jehuda II) by Jose Maon at the synagogue in Maon (Tiberias) in JT. Focusing on only certain portions of this story, scholars have regarded it as a testimony of the Patriarch's heavy tax or the conflict between the sages and the Patriarchal office, the sages and the clergy, or Jewish and non-Jewish cultures. However, the meaning of the entire romp has not yet been examined. In this paper, we investigate the entire process of this romp and elucidate the character and intentions of Jose Maon. Then, we clarify the relationship among the above characters, namely, between the Rabbis and Jose Maon, the Patriarch and Jose Maon, and the Rabbis and the Patriarch. Furthermore, we reveal the acceptance of Hellenistic popular leisure culture, circuses, theaters, and stadia by referring to other texts. Through our discussion, we reveal that Jose Maon's attack was not aimed exclusively at the Patriarch or the clergy; instead, it was aimed at the contemporary society en masse. Jose Maon and the rabbis were indifferent to each other. The sages and the Patriarch were in ambivalent relationship. Then, the flexible power of balance in the era of rabbinic Judaism will be clarified. Although rabbis opposed the Roman notion of leisure in the theater, the synagogue played as the role of a theater for the Jews, even with a crown, Jose Maon. Furthermore, interestingly, Midrashic described the story of Jose Maon with much dramatization, although Midrash itself opposed the Roman theater. This power of balance in rabbinic Judaism clarifies our understanding of various aspects of Judaism. Moreover, the influence of Roman or Greek drama on Midrash should be further considered.