著者
岡田 俊裕
出版者
THE JAPANESE SOCIETY FOR GEOGRAPHICAL SCIENCES
雑誌
地理科学 (ISSN:02864886)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.233-249, 1995 (Released:2017-04-20)
参考文献数
89
被引用文献数
1

小田内通敏(1875-1954)は, 学生時代には史学研究を志向し, 社会学にも強い関心をもっていた。そのため彼の地理学研究は, それらの考察法を重視する傾向をもった。また, 新渡戸稲造(1862-1933)や「郷土会」を介して農政学・農業経済学・植物学などを吸収し, 地域地理学を住民の生業と生活に即して研究する素地が形成された。その最大の成果が社会経済地理学のモノグラフ『帝都と近郊』(1918)であり, 以後, 行政諸機関や企業の委嘱を受け, 朝鮮・満州・樺太・日本各地の集落・人口を社会経済地理学的に調査した。また彼は, このような地理学研究を普及させるための組織づくりにも尽力し, 1926年には地球学団や日本地理学会に対抗して人文地理学会を設立した。歴史学的・社会科学的考察を重視する小田内の学風は, 山崎直方(1870-1929)などの自然科学的な学風に対比される存在であった。しかし, 学界主流を占めた山崎の学風とは異なり, 当時の地理学界・地理教育界に充分波及したとは考え難い。大学の専任教員として地理学研究者の養成にたずさわることのなかった小田内は, その点で小川琢治(1870-1941)や石橋五郎(1876-1946)とも対照的であった。
著者
岡田 俊裕
出版者
THE JAPANESE SOCIETY FOR GEOGRAPHICAL SCIENCES
雑誌
地理科学 (ISSN:02864886)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.197-212, 1994 (Released:2017-04-27)
参考文献数
70
被引用文献数
1

牧口常三郎『人生地理学』(1903年初版,1908年訂正増補8版)は,当時の非アカデミズム地理学徒に歓迎され高い評価を受けたが,アカデミズム地理学の形成者たちには1970年代前半ごろまで無視ないし軽視されてきた。しかし本書は,環境論的な立場からの地人関係の考察が優れているだけでなく,分布論・立地論による経済地理学的・社会地理学的・政治地理学的な分析に先駆的かつ現代的な意義が認められる。なかでも,チューネン圏を最も早く地理学研究に導入した点が注目される。ただし牧口は,それを原典に忠実に導入することはせず,現実社会への適用および有効性を考慮しつつ吸収しようとした。この応用や実践への志向,および実学的な傾向が彼の学風の特徴であった。アカデミズム地理学者のなかで牧口に最も近い存在は,在野的な人文地理学者で,しかも「郷土会」の活動を共に行った小田内通敏であったと考えられる。しかし小田内でさえ,なぜか牧口とその著書について論及することがなかった。それは,前アカデミズム地理学の成果がアカデミズム地理学にあまり継承されなかったということを示唆していると考えられる。
著者
岡田 俊裕
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.39, no.5, pp.445-460, 1987-10-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
64
被引用文献数
4 2

The concepts of landscape (Landschaft, paysage) spread through the geographic world in Japan since the latter half of 1920's. The discipline of geography in Japan before the war's end was characterized by studies based on these concepts, the theory of man-land relationships, and geopolitics. This paper is the first historical review of studies of geographical landscape in Japan.Japanese geographers had tried to translate landscape (Landschaft, paysage) into Japanese since 1925, using such terms as“fukei (風景)”,“fudo (風土)”,“keiso (景相)”, “chiriteki keikan (地理的景観)”,“fukei keitai (風景形態)”,“keiiki (景域)”,“chisokei (地相景)”,“kansho (環象)”,“keikan (景観)”and others. Keikan was by far the most popularly used term. It is thought that Tsujimura Taro had a great influence on this state of affairs.The concepts of landscape can be classified into three major interpretations: (1) the synthetic contents of a (unit) region, (2) common regions as a type, (3) the visible and morphologic objects in a region. On the basis of this classification, the writer puts interpretations of these concepts before the war's end in the order stated above, number (1) being the most frequent interpretation. Other Japanese equivalents besides“keikan” were used frequently in interpretation number (1). However, it is said that interpretation number (3) came into wider use than number (1) in field studies.“Keikan”was used frequently in this case. Therefore, many theoretical studies were conducted on the basis of interpretation number (1), while most field studies were conducted on the basis of interpretation number (3). Interpretation number (2) appeared in a few cases, but it is not thought to have been used frequently.In the 1910's in Germany, the concept of landscape (Landschaft) was introduced to the system of geography, and the form or shape of landscape was treated as the object of landscape study. Studies which had some resemblance to those in Germany were seen before and after the 1930's in Japan. The studies of relations between landscape and social, economic and cultural conditions were deepened and developed later in Germany. However, research on form of landscape were, in Japan, still being carried out, and the function and phylogeny of landscape were not developed enough in Japan. But theoretical studies did develop some what. The development of landscapes was studied, and some researchers began to point out that it was necessary in landscape study to clarify the development mechanisms of human societies. Moreover the landscape was grasped from a view-point of social science, in that the landscape is thought to be determined by the mode of production.A problem that was little discussed throughout the pre-war and post-war days is the role of subjectivity in human societies in the formation of the cultural landscape. This is the main reason for the criticism that early studies of geographical landscape were not really connected to the contemporary world. In the first half of 1930's in Germany, O. Maull and H. Hassinger proposed that the nation state was the builder of landscape. Their propositions were soon introduced to Japan, but have not yet been really discussed. How are human societies including nation states related to the formation of the cultural landscape? The writer concludes that this discussion remains as an unsolved problem.
著者
岡田 俊裕
出版者
地理科学学会
雑誌
地理科学 (ISSN:02864886)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.197-212, 1994
参考文献数
70

牧口常三郎『人生地理学』(1903年初版,1908年訂正増補8版)は,当時の非アカデミズム地理学徒に歓迎され高い評価を受けたが,アカデミズム地理学の形成者たちには1970年代前半ごろまで無視ないし軽視されてきた。しかし本書は,環境論的な立場からの地人関係の考察が優れているだけでなく,分布論・立地論による経済地理学的・社会地理学的・政治地理学的な分析に先駆的かつ現代的な意義が認められる。なかでも,チューネン圏を最も早く地理学研究に導入した点が注目される。ただし牧口は,それを原典に忠実に導入することはせず,現実社会への適用および有効性を考慮しつつ吸収しようとした。この応用や実践への志向,および実学的な傾向が彼の学風の特徴であった。アカデミズム地理学者のなかで牧口に最も近い存在は,在野的な人文地理学者で,しかも「郷土会」の活動を共に行った小田内通敏であったと考えられる。しかし小田内でさえ,なぜか牧口とその著書について論及することがなかった。それは,前アカデミズム地理学の成果がアカデミズム地理学にあまり継承されなかったということを示唆していると考えられる。
著者
岡田 俊裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.193-215, 1997-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
129
被引用文献数
2

小川琢治は中国への並々ならぬ関心を終生持ち続けた.その契機は『台湾諸島誌』 (1896) の執筆にあり,その際重用した中国の古地誌・史料への興味が歴史地理研究へと向かわせた.彼は,儒家によって異端邪教視された史料を重用し,中国の地理的知識の拡大過程および古代の東アジア世界と地中海世界との地域交流などを考究した.以後,歴史地理学ないし地理学史研究が京都(帝国)大学における地理学研究の伝統となった.また彼は,情況に対応した中国経営論を展開した.その視点は植民地経営者のものであったが,研究者としての見識も示した.しかし,反日・抗日運動が活発化した蘆溝橋事件以後は一変し,中国との連携志向を失った.このような論策の背景には,自らが先鞭をつけた戦争地理学研究があった.それは当初政治学の分科ゲオポリティクとは区別されたが, 1930年代にはゲオポリティクを政治地理学の分科と規定し,同じ政治地理学の分科である戦争地理学がゲオポリティク的要素を含むことを理論づけた.それを踏まえて中国経営論も変容したと考えられる.
著者
岡田俊裕著
出版者
原書房
巻号頁・発行日
2011
著者
岡田 俊裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.66, no.1, pp.1-17, 1993-06-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
44
被引用文献数
2 2

日本において,地理学研究が組織的・本格的に行われ始めたのは1920年代の半ばごろであろう.その後の日本では,十五年戦争によって中国などアジアへの侵略行為を続けた.このことは,日本の地理学研究に直接・間接に影響を与えた.敗戦後,日本はGHQの占領下におかれ,その間,地理学は社会科学的な研究への志向を強め,発展していった. このような社会情況のなかで,飯塚浩二 (1906-1970) は積極的にそれに関与しつっ日本の地理学を啓蒙した.一方,辻村太郎 (1890-1983) は,直接的には社会情況に関与せず,アカデミー地理学の制度的・理論的樹立のために奮闘した.また三沢勝衛 (1885-1937) は,独学で地理学・教育学・自然諸科学などを修め,農村・地方の更生という実践的関心と結びっいた地理学研究と地理教育を展開した. 仮に,日本の地理学研究の流れを,「中央」の主流と非主流および「地方」の分流に三区分できるとするならば,辻村・飯塚・三沢をそれぞれの代表的存在の一人とみなすことができよう.辻村はおもにドイツ地理学の,飯塚はフランス地理学の影響が強く,三沢には欧米地理学の直接的な影響を認めることができない点でも対照的である.これら三者の研究活動の軌跡をたどるならば,近現代日本の地理学思想史を立体的に展望する端緒になると考えられる. その際,次のような点を重視した.第一に個人史的な考察.それは,各学説を動的かっ多面的に把握するためであり,また,各研究者の業績の全体を視野に入れたうえで各部分の内容を理解するためでもある.第二に,学説と時代思潮や学問的環境との関連性の考察.独自の理念の下に一定の社会的責任を果たそうとするほどの研究者ならば,自己をとりまく時代思潮ないし学問的環境を鋭敏に受けとあ,その動向に何らかの形で関与しようとするからである.なお,学問の発達史において戦中と戦後の間に断絶はないと考えた.学問研究は,いっの時代でも特定の環境のなかでなされるのであり,程度の差こそあれ常に時代的制約を受けざるをえない.したがって,戦中の学問研究を特別視することはできないと考えた.
著者
岡田 俊裕
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.37, no.5, pp.389-406, 1985-10-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
103
被引用文献数
1 2

Koji Iizuka (1906∼1970) was a Japanese geographer and a critic of civilization. In this paper the writer reviews the transition of Iizuka's views of Asia from the time of World War II through the post war period. The writer states that this transition was accompanied by changes in Iizuka's views of Japan and West Europe. The beginning of this transition parallels the Great East Asia War, the surrender of Japan, the rise of nationalism in Asia and changes in the world situation. The transitions in Iizuka's views are summarized in the figure below: Iizuka's view of West Europe Iizuka's view of Asia Iizuka's view of Japan Transition of Koji Iizuka's views of West Europe, Asia and Japan
著者
岡田 俊裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.20-38, 1996-01-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
128
被引用文献数
1

地質学専攻の小川琢治 (1870-1941) が地理学研究に着手したのは,『台湾諸島誌』 (1896) を執筆し,『地学雑誌』を編集した (1897~1907年)ことに要因があった. 1908年京都帝大地理学講座の主宰者となった小川は,孤立荘宅と条里集落に関する研究を例示して居住地理学研究を唱導した.当初彼は,農業経営や農村生活へも考察を及ぼす姿勢を示したが,以後,もっぱら村落居住の起源・成立と変遷の研究を重視するにいたった.また小川は,刀剣の銘文を判読して刀工の地理的分布を明らかにした.それは当時の有力な集落の分布を示し,古代・中世日本の地域像の描出に役立った.小川が翻訳または考案した地理学用語は,あまり普及したとはいえない.しかし,彼の創見に富んだ研究業績は,高い研究レベルにおいて強い指導性をもった.ことに居住地理学の分野にはそれが明瞭に認められ,歴史地理的考察を軸とする研究方法は今日の人文地理学にも直結している.

1 0 0 0 志賀重昴

著者
岡田俊裕編・解説
出版者
クレス出版
巻号頁・発行日
2007