著者
崔 銀姫
出版者
一般社団法人 社会情報学会
雑誌
社会情報学 (ISSN:21872775)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.93-108, 2012-12-31 (Released:2017-02-04)

本稿では,1950年代の日本における「観光アイヌ」の誕生をめぐって全国的な流行と社会的なブームに至るまでの歴史を,近代後半からおよそ60年間(1899年の「北海道旧土人保護法の制定」〜1959年の『コタンの人たち』)の時代における「観光アイヌとは何か」の問題を中心に,単なる「差別」と「同化」の問題に帰結させるのではなく,20世紀初期から半ばのメディアの空間の成立と変容をメディア文化論の視点から鳥瞰的に検討することで,「覧(み)せる/観(み)られる」といった身体を媒体にした経験のなかに隠れていた歴史社会的意味とその変容を考える。考察の結果,第1期の時代(1899年〜1926年)において,アイヌにとってはそうした博覧会の主催者たちの欲望への理解には至らず,「観られる」アイヌの身体の方向性は異なったものであった。その後,第2期の時代(1927年〜1945年)になるとアイヌの大きな変化としては,「民族意識の高揚」とアイヌ自らが各種の著作物を出版したことであった。その後の第3期(1946年〜1959年)の戦争が終わってから1959年までの特徴は,「観光の介入」による変化があった。「観光アイヌ」とは,さまざまなファクターが相まった60年間のなかで「観られる」アイヌとして風景化されていたといえる。
著者
崔 銀姫
出版者
一般社団法人 社会情報学会
雑誌
社会情報学 (ISSN:21872775)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.93-108, 2012

本稿では,1950年代の日本における「観光アイヌ」の誕生をめぐって全国的な流行と社会的なブームに至るまでの歴史を,近代後半からおよそ60年間(1899年の「北海道旧土人保護法の制定」〜1959年の『コタンの人たち』)の時代における「観光アイヌとは何か」の問題を中心に,単なる「差別」と「同化」の問題に帰結させるのではなく,20世紀初期から半ばのメディアの空間の成立と変容をメディア文化論の視点から鳥瞰的に検討することで,「覧(み)せる/観(み)られる」といった身体を媒体にした経験のなかに隠れていた歴史社会的意味とその変容を考える。考察の結果,第1期の時代(1899年〜1926年)において,アイヌにとってはそうした博覧会の主催者たちの欲望への理解には至らず,「観られる」アイヌの身体の方向性は異なったものであった。その後,第2期の時代(1927年〜1945年)になるとアイヌの大きな変化としては,「民族意識の高揚」とアイヌ自らが各種の著作物を出版したことであった。その後の第3期(1946年〜1959年)の戦争が終わってから1959年までの特徴は,「観光の介入」による変化があった。「観光アイヌ」とは,さまざまなファクターが相まった60年間のなかで「観られる」アイヌとして風景化されていたといえる。
著者
崔 銀姫 友永 雄吾
出版者
佛教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、1950年代から2000年代までの凡そ半世紀にわたって日本で放送されたテレビのドキュメンタリー番組における「アイヌ」というエスニシティの言説と表象の考察を通して、日本の現代社会における他者性の構築と変容を考察したものである。特に、本研究は、過去約60年間のドキュメンタリーにおけるアイヌの表象と他者性に関わる変容を,言説的実践や意味の生成,権力的作用といった表象のシステムに注目しつつ、学際的な(メディア研究や歴史学,人類学,民族学等)視座を踏まえたカルチュラルスタディーズの研究方法を用いて、番組を分析・考察するものである.
著者
崔 銀姫
出版者
佛教大学
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.19-33, 2009-03-01

本稿は,「戦争をメディアはどうかかわっていくべきか」の問題を,『ETV 2001・戦争をどう裁くか』のNHK ドキュメンタリーを糸口に,ジャーナリズムや,公共性,ナショナリズムといった三つの概念の絡み合いを社会的な文脈から照らしつつ,考察したものである。特に本稿では,2001年1月30日に放送された『ETV 2001』シリーズの第二部「問われる戦時性暴力」の番組を中心的に取り上げ,その番組が権力的な圧力によって支配的な表象として「改変」された問題を,放送メディアの公共性における「記憶」や,「他者」,「アイデンティティ」,「戦争」,「ナショナリズム」とのかかわりから探りながら,「マス」メディアとしてのテレビ・ジャーナリズムの位相に関連付けて考えようとした。結論の部分では,「ジャーナリズム」観点から今日の放送界の状況的な問題と課題を検討し,今後のマルチチュードな「市民的公共性」への期待を述べた。
著者
玄 武岩 渡邉 浩平 金 成玟 鈴木 弘貴 崔 銀姫 北見 幸一
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究は、メディアコンテンツの流通における生産および受容の二つの側面から、東アジアにおける越境的な放送空間の構築について実践的に考察した。生産面においては、2001年に始まった「日韓中テレビ制作者フォーラム」に直接かかわりながら調査を行い、その意義と可能性を考察した。受容面においては、東アジアにおける大衆文化コンテンツの越境を、産業、文化、消費、歴史認識など包括的なアプローチをとおして考察し、その過程における排除と変容、現地化と再創造の文化的意味を明らかにした。
著者
崔 銀姫
出版者
佛教大学社会学部
雑誌
社会学部論集 (ISSN:09189424)
巻号頁・発行日
no.53, pp.1-18, 2011-09

本研究は,日本でテレビ放送が始まった1950年代から現在にいたるまでの約60年間の,アイヌを素材としたテレビドキュメンタリー放送の歴史を概観しつつ,アイヌ表象の文化的言説の特徴と変容を考察する目的で行われている「テレビドキュメンタリーにおけるアイヌ表象と他者性の問題にかかわる考察 : 戦後60年間の軌跡と変容」の一部である。本稿はそのうち,1899年(明治32年)に制定された「北海道旧土人保護法」をはじめ,明治時代に施行され始めた同化政策の政治的な成功の裏で,「消された他者」としてのアイヌのアイデンティティが現代の映像ではどのようにイメージされていたのかを考察したものである。戦後の1950年代,アイヌの同化は政策的には既に完了したと言われたが,果たして放送におけるアイヌをめぐる表象は完了されていたのか。テレビドキュメンタリーでアイヌ問題を初めて取り上げた「コタンの人たち:日本の少数民族」(1959年・NHK全国放送)におけるアイヌの表象を分析することで,1950年代日本の社会におけるアイヌと「他者性」について検討を行った。アイヌドキュメンタリー他者性エスニック表象
著者
崔 銀姫
出版者
北海道東海大学
雑誌
北海道東海大学紀要. 人文社会科学系 (ISSN:09162089)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.65-80, 2006-03-25

かつてM・フーコーは歴史の目的性と連続性の背景に潜めている同一性を批判した。フーコーはそういう糸を断とうと、相異なる閾の時間のなかへの新たな配分、それらの継起、ずれ、偶然的な一致、それらが互いに支配し、あるいは含みあう仕方、それらが次々にうち立てられる諸条件などの差異に注目し、歴史の横顔を描く重要性を力説した。ならば、放送史のなかで、ドキュメンタリーなるジャンルが構築される過程を、単線的な流れとしてではなくさまざまな「閾」、重なり合いやずれの連なりとして再編制することは有意味であるだろう。ドキュメンタリー映画(記録映画)がテレビ・ドキュメンタリーを生み出したという一般的な史実の裏には、ラジオというもう一つの重要なメディアの役割があった。本稿は、初のテレビ・ドキュメンタリー『日本の素顔』の誕生を起点に「ラジオ」における「ドキュメンタリー」の軌跡を辿って、そのラジオ・ドキュメンタリーが「社会番組」と成り立ち、日本における放送の新しい領域を生み出す結果に結びついていたという仮説の検証である。