著者
松本 俊吉
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2004, no.55, pp.90-112,23, 2004-04-01 (Released:2009-07-23)
参考文献数
14

The objective of this article is to clarify the nature of the methodological position called adaptationism in evolutionary biology (that is, a position holding natural selection to be ubiquitous and the most powerful as a mechanism of the evolution of life) and to discuss the problems that relate to it. To this end, I will first set forth the controversy having been waged on the legitimacy of adaptationism, originally initiated by Gould and Lewontin in 1978 and having been joined by mainstream neo-Darwinists ever since. Then I will put forward some framework for evaluating this controversy, namely, the idea of taking adaptationism to be a research program in Lakatos' sense. In the second section, I will review, somewhat critically, how adaptationistic thinking is exemplified in the sociobiological research program advocated by E. O. Wilson and his followers. In the third section, I will give some considerations on the possibility of the model of cultural evolution (memetics) as a complement to the one-sidedness of the genetically-biased sociobiological explanation of human culture.
著者
松本 俊吉
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1996, no.47, pp.286-295, 1996-05-01 (Released:2009-07-23)

かつてカントやフッサールが夢見たような超越論哲学の理想-すなわち、いかなる先入見をも排去した純粋な反省的思惟によって我々の認識の<普遍的構造>を取り出し、それを基礎に万人の認識行為が準拠すべき規範を提示し、さらにそれに則って我々が現実に所有している信念や知識を正当化しようという企図-は、遂行不可能な非現実的な理想であったというのが、知識を論ずる近年の哲学的言説の共通了解となりつつあるようである。そうした趨勢に棹さすものとしては、歴史主義、文化相対主義、知識社会学、プラグマティズム、進化論的認識論、自然主義など様々な思潮が見出され、上述のような理想を抱く哲学的立場-本稿で我々はこれを<哲学的認識論>と呼ぶことにする-は、あたかも四面楚歌の如き状況に置かれている。ところでこれらの諸思潮は概して、哲学的認識論の立場を<廃棄>し、哲学的認識論固有の問題構制などは初めから存在しなかった、ないしは問題とするに値しないものであった、という類の論法をとりがちであるのに対し、私見によれば、自然主義の主張はその最も原理的なレベルで、哲学的認識論の立場と相対峙するように思われる。本稿は、こうした見地からこの両者の対立点を明確化し、それについて検討を加えつつ、哲学的認識論の基本的発想の、現代においてもなお否定し去ることのできない有効性を示そうとするものである。
著者
松本 俊吉
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.1-13, 2007-07-30 (Released:2009-05-29)

In order to contextualize the subjects the contributors discussed in the workshop by giving them some backgrounds, first (§1) I will relate how the relationship between biology and physics has been dealt with in the philosophy of biology so far, intending to make a connection with Mr. Morimoto's argument. Then (§2) I will provide some historical background on how such concepts considerably, if not exclusively, distinctive of biology as 'function', 'purpose', or 'design' have been the targets for philosophical considerations so far, building a connection to Mr. Otsuka's argument. Finally (§3) I will present my little analysis of the problem of the scientific status of some 'historical sciences' Mr. Minaka is concerned with from a somewhat different angle from his.
著者
松本 俊吉
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
no.47, pp.286-295, 1996

かつてカントやフッサールが夢見たような超越論哲学の理想-すなわち、いかなる先入見をも排去した純粋な反省的思惟によって我々の認識の<普遍的構造>を取り出し、それを基礎に万人の認識行為が準拠すべき規範を提示し、さらにそれに則って我々が現実に所有している信念や知識を正当化しようという企図-は、遂行不可能な非現実的な理想であったというのが、知識を論ずる近年の哲学的言説の共通了解となりつつあるようである。そうした趨勢に棹さすものとしては、歴史主義、文化相対主義、知識社会学、プラグマティズム、進化論的認識論、自然主義など様々な思潮が見出され、上述のような理想を抱く哲学的立場-本稿で我々はこれを<哲学的認識論>と呼ぶことにする-は、あたかも四面楚歌の如き状況に置かれている。<BR>ところでこれらの諸思潮は概して、哲学的認識論の立場を<廃棄>し、哲学的認識論固有の問題構制などは初めから存在しなかった、ないしは問題とするに値しないものであった、という類の論法をとりがちであるのに対し、私見によれば、自然主義の主張はその最も原理的なレベルで、哲学的認識論の立場と相対峙するように思われる。本稿は、こうした見地からこの両者の対立点を明確化し、それについて検討を加えつつ、哲学的認識論の基本的発想の、現代においてもなお否定し去ることのできない有効性を示そうとするものである。