- 著者
-
石川 達夫
- 出版者
- 神戸大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1996
まず、プラハの成立の事情を探ってゆくと、プラハはヨーロッパでもかなり特殊な地位にある町であることが明らかになった。「プラハ」の名の語源に関しては様々な説があるが、極めて信憑性の高い説によれば、「プラハ」は「プラヒ」(浅瀬)という言葉に由来する。ヨーロッパの中央に位置する町プラハは、エルベ川支流のヴルタヴァ川の浅瀬(プラヒ)でヨーロッパの東西南北を結ぶ道が交差する地点にできた町であり、古来ヨーロッパの十字路だったのである。しかし、人口に膾炙した伝説によれば、「プラハ」は「敷居」に由来するという。これは、プラハを創設したチェコ最初の王妃リブシェにまつわる伝説であり、この有名な伝説は時代と共に変容しながら、チェコのみならずドイツの様々な芸術作品を生んでいった。このように、プラハの様々な固有名詞に関する一連の研究によって、プラハの極めて興味深い文化史を掘り起こすことができた。プラハは、町の成立当初から、単にチェコ人だけの町ではなく、ユダヤ人とドイツ人の町でもあった。プラハの文化史を辿ることによって、その特徴を成す複数文化的な性格を明らかにすることができた。特に、ヨーロッパの様々な民族の人々がプラハにやって来て、チェコ人以外の芸術家たちが壮麗な宮殿や見事な彫刻を造ったバロックの時代、やはりヨーロッパの様々な民族の人々がプラハにやって来て、国際色豊かな文化を形成した両大戦間の時代など、プラハはヨーロッパの文化の十字路と呼ぶにふさわしい性格を有してきたことが分かった。一九三〇年代にプラハに移住した、チェコ語の姓を持つオーストリアの画家・劇作家オスカル・ココシュカが言ったように、プラハは「ヨーロッパが最後に辿り着いた、コスモポリタン的な中心地」になっていたのである。