著者
阿部 昭 笠谷 和比古 浅井 潤子 大藤 修 森 安彦 廣瀬 睦
出版者
国文学研究資料館史料館
雑誌
史料館報 (ISSN:03859517)
巻号頁・発行日
no.46, pp.1-16, 1987-03-31

県史編さんと県立文書館農民史料の名称付与について史料所在調査報告『大塩平八郎一件書留』の刊行昭和六一年度新収史料紹介全史料協第一二回大会参加記受贈図書彙報
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p89-104, 1992-09

慶長八年二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いた。関ヶ原合戦の勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものとした家康が、この将軍任官によって徳川幕府という新たな政権を樹立し、豊臣家にかわる徳川家の天下支配を制度的な形で確定したとするのが、これまでの通説的な理解である。 しかし私の関ヶ原合戦に関する研究によるならば、同合戦において家康の下で戦った東軍(家康方)の軍事的構成が、専ら豊臣系諸大名を主力としており、本来の徳川軍の比重がきわめて低かったという事実が明らかとなった。すなわち家康の軍事的勝利は、専ら豊臣系諸大名の多大の貢献によってもたらされていたのであり、それ故に関ヶ原戦後の政治体制においては、豊臣系諸大名の勢力は強大なものとなっており、また大坂城の豊臣秀頼を頂点とする豊臣政権も解体されたのではなくて、潜在的な政治能力を充分に保っていた。 本稿は家康の将軍任官のより立ち入った意義を、このような政治状況との相関の中で検討し、さらにはそれを踏まえて、関ヶ原合戦より大坂の陣に至る近世初頭の政治史的展開、およびこの時期の国制の構造を考察する。
著者
千田 稔 笠谷 和比古 頼富 本宏 池田 温 大庭 脩 上垣外 憲一 葛 剣勇 石井 紫郎 河合 隼雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1998

本調査研究によって解明された主要な点を上げるならば、次のとおりである。1.明治維新後の日本において、中国人蒐書家によって系統的な典籍の蒐集がなされ、中国本土に移送されていた。ことに清国総領事黎庶昌や清国領事館駐在員であった楊守敬らによって系統的に蒐集されて、中国大陸に移送され、その後、各地を転々とするとともに、日中戦争から国共内線の時期における散逸、焼亡の危機をくぐりぬけて今日に伝来するにいたった各種図書・文献について、その所在を跡づけることができた。2.京都高山寺の寺院文書が、中国武漢の湖北省博物館において所蔵されていることをつきとめた。今回の発見成果の重要なものの一つが、この湖北省博物館所蔵の高山寺文書であった。これも楊守敬蒐集図書の一部をなしている。明治初年の日本社会では廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、寺院の什器や経巻の類が流出して古物市場にあふれていた。高山寺文書の流出も多岐にわたっているが、その一部が楊守敬の購入するところとなり、中国に伝存することとなったのである。3.今回の調査で、日本の仏典が中国各地の所蔵機関に少なからず伝存することを確認し得た。そして同時に次の点が問題であることが判明した。すなわちこれら日本から請来された仏書、写経の類は、中国人の目からは敦煌伝来の仏典と見なされる傾向があるという点である。明白に日本で書写された経巻であるにもかかわらず、それらがしばしば敦煌伝来の写経と混同して所蔵され、また目録上にもそのような配列記載がなされているという問題である。これは日本人研究者の考えの及ばなかった問題でもあり、日中双方の研究者・関係者の協議に基づいて、問題が早急に改善されることが望まれる。
著者
安田 喜憲 笠谷 和比古 平尾 良光 宇野 隆夫 竹村 恵二 福澤 仁之 林田 明 斉藤 めぐみ 山田 和芳 外山 秀一 松下 孝幸 藤木 利之 那須 浩郎 森 勇一 篠塚 良司 五反田 克也 赤山 容造 野嶋 洋子 宮塚 翔 LI Xun VOEUM Vuthy PHOEURN Chuch
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2006

年縞の解析による高精度の気候変動の復元によって、モンスーンアジアの稲作漁撈文明の興亡が、気候変動からいかなる影響を受けたかを解明した。とりわけメコン文明の一つであるカンボジアのクメール文明の興亡については、プンスナイ遺跡の発掘調査を実施し、水の祭壇をはじめ、数々の新事実の発見を行った。稲作漁撈文明は水の文明でありアンコールワットの文明崩壊にも、気候変動が大きな役割を果たしていたことを明らかにした。