著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。This paper explores the birth ceremony, the raising ceremony, and the coming-of-age ceremony of the children of The Satake Family in Akita Han in the first half of the early modern period, and it compares the ceremonies to those of the Tokugawa family. First, this study considers how a son of Daimyo family was socialized and became a political being through several kinds of initiation ceremonies. The family was integrated in the Baku-han system and was placed, as a family of kougi, with the delegated public authority to rule its fief from the Shogunate. The main characteristics of this process can be extracted by focusing on the differences between a legitimate son and an illegitimate son, including the problem of naming, and this is compared to the cases of the Tokugawa family. Second, this paper considers initiation ceremonies and naming of daughters to analyze gender differences in early modern Japan.In previous studies, life ceremonies were examined separately. This paper attempts to consider systemically those ceremonies as a whole, placing and focusing the meaning of each ceremony, including the problem of naming. This study shows, first, how ceremonies of sons of the Tokugawa and the Satake, both families of kogi, were scheduled by political intention, while daughters' ceremonies were not. Second, a son's attaining of manhood was divided into political, social and physical categories. A legitimate son was supposed to attain political and social manhood in haste, but he could only move from oku to omote and enter his fief after he had grown up physically and mentally at his Han's house in Edo. Third, the coming-of-age ceremony for a daughter was only limited physically, not politically, nor did she need a name changing ceremony. Finally, a son's name indicated his membership and genealogical relationship in the family and the clan, his life cycle, and his position (class) in the family, society and state, while a daughter's name did not.
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03-31

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。
著者
大藤 修
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

戦前には全国第2位の巨大地主であった宮城県桃生郡河南町前谷地(現宮城県石巻市河南町前谷地)の齋藤家には、江戸時代から現代に至るまでの文書・書籍・雑誌・新聞などが伝来し、その数は100万点を超えると予想される膨大なものであり、2003年に東北大学附属図書館に寄贈された。本研究では、アーカイブズ学的研究を踏まえてそれを整理し目録を作成して閲覧利用に供しうるようにした。目録は図書館のホームページでも公開する。
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.41, pp.p67-132, 1992-03

本稿は、近世農民層の葬送・法事および先祖祭祀のあり方と、その際の家、同族、親族、地域住民の関与の仕方と役割、それをめぐる諸観念、規範などについての考究を課題とする。同族結合が強い段階では死者の葬送・供養や先祖祭祀も同族の長を中心に同族団の儀礼として執行されていたようであるが、個々の家が自立性を強めるに伴い、家がその執行主体となり、独自に墓碑、位牌、過去帳などを作るようになる。生前の生活および死後の魂の安穏が家によって基本的に保障されるようになった段階では、家を保ち先祖の祭祀を絶やさないことが絶対的な規範として子孫に要請される。だが、家での生活が親類や地域共同体の相互扶助によって成り立っていたのと同様、死者の葬送、霊魂の供養も、親類や地域共同体がその保障を補完する機能を果たしていた。葬式・法事の営み方に当主の直系尊属、配偶者か直系卑属、傍系親かによって格差をつけていた例もみられる。休業・服忌の期間は、父母の死去の場合とりわけ長く設定している所が多い。他家に養子あるいは嫁として入った者も、葬儀はもちろん年忌法要にも参加し、弔い上げによって祖霊=神に昇華するまでは親の霊の面倒をみるのが子としての務めであった。弔い上げ後は家の継承者によってその家の先祖として代々祭祀されていく。直系家族制のもとにおいては歴代の家長夫婦がその家の正規の先祖であり、単身のまま生家で死去すれば無縁仏として扱われる。生前は家長・主婦として家を支え、死後はその家の先祖として子孫に祭られるというのが現世と来世を通じた正規の人生コースとされており、再婚の多さは正規の人生コースに復させる意味ももっていたと思われる。家の成員の霊魂の間には家の構造に規定された差別の体系が形づくられていたが、と同時に、家を基盤に広く成立、成熟した先祖観は社会的にも差別を生み出す契機をはらみ、その一方で天皇へ結びつく性格も有した。
著者
富田 正弘 湯山 賢一 池田 寿 吉川 聡 大藤 修 本多 俊彦 大川 昭典
巻号頁・発行日
2010-04

本研究は、作成年代の明記のない紙を素材とする文化財(文書・典籍・聖教・絵図)の年代推定について、非破壊調査である光学的観察によって行う方法論を確立することである。そのため、これらの文化財特に文書の原本の料紙を所蔵機関に出向いて調査を行った。その主なものは、東寺百合文書(京都府立総合資料館)・上杉家文書(米沢市上杉博物館)・東大寺文書(東大寺図書館)・醍醐寺文書(醍醐寺)・東福寺文書(東福寺)・津軽家文書(国立国文学研究資料館)で、合計1万点ほどの調書を採った。また、前近代の文書等の料紙について、本研究グループが推定した製法で実際にその紙ができるのか確かめるために、高知県紙産業技術センターの協力を得て、大高檀紙の吊り干し製作等、前近代文書料紙の復元製作実験を行った。さらに、中国唐代以前の紙と日本の奈良時代のそれとの繋がり、宋代以降の紙と日本のそれとの関わりを考えるため、中国・韓国を訪問し、文書・聖教の料紙を調査した。その結果、まず成果として確認できたことは、前漢時代の紙は文字を書く素材としては未熟であるが、繊維を水中に拡散させ簀で漉き上げるという製法は製紙と同じ技法であること、蔡倫以後の紙は筆記用の素材として優れたものであること、宋代以降の宣紙・竹紙の白さと滑らかさは江戸期の製紙に与えた影響が大きいと思われること、等を確認できた。日本の文書等料紙の変遷としては、奈良時代の麻紙・楮紙、平安時代から南北朝時代の檀紙・引合、室町時代の杉原紙・強杉原、桃山時代から江戸時代の大高檀紙・奉書紙・美濃紙、南北朝時代と戦国時代の斐紙、戦国時代以降の椏紙等のそれぞれの時代の特徴的な料紙を捉えることができた。また、戦国時代の関東武士の発給文書の料紙は前時代に対し特異であり、それが江戸時代の製紙に与えた影響については、改めて考える必要があることが分かってきた。これらの成果は、料紙の時代判定の基準として充分に使えるものである。
著者
阿部 昭 笠谷 和比古 浅井 潤子 大藤 修 森 安彦 廣瀬 睦
出版者
国文学研究資料館史料館
雑誌
史料館報 (ISSN:03859517)
巻号頁・発行日
no.46, pp.1-16, 1987-03-31

県史編さんと県立文書館農民史料の名称付与について史料所在調査報告『大塩平八郎一件書留』の刊行昭和六一年度新収史料紹介全史料協第一二回大会参加記受贈図書彙報
著者
富田 正弘 湯山 賢一 永村 眞 綾村 宏 藤井 譲治 大藤 修
出版者
富山大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2006

本研究は、作成年代の明記のない紙を素材とする文化財(文書・典籍・聖教・絵図)の年代推定について、非破壊調査である光学的観察によって行う方法論を確立することである。そのため、これらの文化財特に文書の原本の料紙を所蔵機関に出向いて調査を行った。その主なものは、東寺百合文書(京都府立総合資料館)・上杉家文書(米沢市上杉博物館)・東大寺文書(東大寺図書館)・醍醐寺文書(醍醐寺)・東福寺文書(東福寺)・津軽家文書(国立国文学研究資料館)で、合計1万点ほどの調書を採った。また、前近代の文書等の料紙について、本研究グループが推定した製法で実際にその紙ができるのか確かめるために、高知県紙産業技術センターの協力を得て、大高檀紙の吊り干し製作等、前近代文書料紙の復元製作実験を行った。さらに、中国唐代以前の紙と日本の奈良時代のそれとの繋がり、宋代以降の紙と日本のそれとの関わりを考えるため、中国・韓国を訪問し、文書・聖教の料紙を調査した。その結果、まず成果として確認できたことは、前漢時代の紙は文字を書く素材としては未熟であるが、繊維を水中に拡散させ簀で漉き上げるという製法は製紙と同じ技法であること、蔡倫以後の紙は筆記用の素材として優れたものであること、宋代以降の宣紙・竹紙の白さと滑らかさは江戸期の製紙に与えた影響が大きいと思われること、等を確認できた。日本の文書等料紙の変遷としては、奈良時代の麻紙・楮紙、平安時代から南北朝時代の檀紙・引合、室町時代の杉原紙・強杉原、桃山時代から江戸時代の大高檀紙・奉書紙・美濃紙、南北朝時代と戦国時代の斐紙、戦国時代以降の椏紙等のそれぞれの時代の特徴的な料紙を捉えることができた。また、戦国時代の関東武士の発給文書の料紙は前時代に対し特異であり、それが江戸時代の製紙に与えた影響については、改めて考える必要があることが分かってきた。これらの成果は、料紙の時代判定の基準として充分に使えるものである。