著者
菊川 美代子
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.57-74, 2009-12

矢内原忠雄はこれまで絶対非戦論者と考えられてきたが、実際には義戦(正戦)論者であった。矢内原は、弱者の権利を強者の侵害、圧迫から防衛することを正義とし、そのような正義の不履行を最上位の罪悪と考えた。そのため、正義が蹂躙される場合には、地上における相対的な善として、悲しむべき必要悪としての戦争を認めた。そして、矢内原の言説には、戦争による犠牲の死を正当化する要素が含まれているという問題点があり、そこに彼の神学の限界が存在した。論文(Article)
著者
杉田 俊介
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.38-54, 2007-06

ヒックの宗教多元主義は、西洋キリスト教に対する問題提起となった。しかし、宗教多元主義は非西洋的な社会においても、批判的な役割をもちうるのか。本稿では、滝沢克己を宗教多元主義者として位置づけ、この疑問について考える。滝沢は、キリスト教だけでなく日本の諸宗教によっても救済が得られると論じ、キリスト教の排他性を批判した。しかし滝沢は、この多元主義的な思想にもとづいて、日本の国体にも真理が現れていると論じ、自己の相対性を認めないキリスト教を、国体に抵触するものとして批判している。日本においては、多元主義的な言説そのものが、異物を排除/同化する一種の「排他主義」としての意味をもちうる。論文(Article)
著者
木原 活信 Katsunobu Kihara
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 = Kirisutokyo Kenkyu (Studies in Christianity) (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.17-41, 2016-06-21

社会福祉とキリスト教の関係について、福祉国家以前の慈善時代と、福祉国家下の措置制度時代、そしてポスト福祉国家としての現代の市民的契約の時代の3つに分類しつつ、そこでの宗教の役割の変遷についてキリスト教を例にスピリチュアリティの概念をもとに分析した。そのなかで市民契約の時代の宗教と社会福祉の在り方に着目し、市民的公共圏における社会福祉とスピリチュアリティについてEdward Candaの理論を踏まえつつ、議論した。
著者
中野 泰治 Yasuharu Nakano
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.21-39, 2017-06

本稿では、王政復古期のクエーカー信仰を体系化したバークレーの神学を中心に、クエーカーの教会論の神学的妥当性について考察し、神学的・思想的・政治学的観点から分析する。当初急進的であったクエーカー運動は、穏健派のフォックスが中心となって、1660年代に運動を組織化されていった。その組織化の神学的基礎付けを行ったのがバークレーである。本稿で明らかにされることは、バークレーは、教会の一致と教化のために規律と統制の必要性(内部性の確立)を認めると同時に、キリストの身体の特性を反映させ、教会を「敵への愛」の実践(聖化)に基礎付けており、その点で、そこには異質な者へ開かれた態度を可能にさせるシステムが組み込まれていることである。ゆえに、教会は神の普遍的な愛と平和を証する場となっており、通常の社会組織とは異なる性質を持つのである。論文(Article)
著者
上原 潔
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.21-39, 2006-12

本稿の目的は、エバハルト・ユンゲルが『世界の秘密としての神』において、無神論をどのようなものとして分析し、それに対していかなる神学を構築しようと試みたのかを理解することにある。ユンゲルによれば、現代を特徴付けている無神論の萌芽は近代にある。そこでは、人間的自己が存在、非存在を決定する「基体」となることで、絶対性をその本質とする神の実在が思惟不可能になるというアポリアが生じた。現代の無神論を規定しているこのアポリアを解消すべく、ユンゲルは絶対性という神の本質を批判的に解体する。ユンゲルは、神の絶対性をキリスト教的な神理解ではなく、存在者の連関を遡ってその根拠である神を措定するような形而上学の神理解、つまり「存在神論(Ont-Theo-Logie)」に由来するものであると考える。それに対し、キリスト教はナザレのイエスにおいて神が自己を啓示したという認識から始まる。この神理解によれば、神は決して世界の彼方にのみ存在しているのではなく、むしろ、世界に「到来」する者であり、それ故に経験や思惟の対象となり得るのである。このようにユンゲルは啓示神学を構想することによって、無神論に対抗するのである。The aim of this paper is to clarify Eberhard Jüngel's analysis of atheism and his attempt to construct theology against it. According to Jüngel, atheism that characterizes today's world has begun in the modern period. At the dawn of the modern period, human Self became "Subject"(subjectum)that judged what did and did not exist. This resulted in an aporia that the existence of God whose essence is absoluteness could no longer be thinkable. In order to solve this aporia Jüngel destructs God's absoluteness critically. He thinks that this absoluteness stems from not Christian, but metaphysical comprehensions of God. Metaphysics traces back a chain of beings to God, their ultimate source (Onto-Theo-Logie). In contrast, Christianity starts from God's Self-Revelation in the man Jesus of Nazareth. According to this understanding, God not only transcends the world,but comes into the world. For this reason, God can be an object of thought and experience.In this way Jüngel confronts atheism by constructing a revelation theology.論文(Article)
著者
越後屋 朗
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.1-16, 2002-12

「修正主義者」あるいは「ミニマリスト」と呼ばれる研究者たちは、ヘブライ語聖書がペルシア、ギリシア時代に成立したと主張する。もうしそうであるなら、ヘブライ語聖書に基づいて、古代イスラエル、特にその初期の歴史を記述することは一体可能なのであろうか。これまでヘブライ語聖書は古代イスラエル史記述のための枠組みとして用いられ、それに考古学的データが適合されてきた。本論はヘブライ語聖書の史実性(歴史的信頼性)と古代イスラエル史記述における考古学の役割を検討する。後者については、テル・メギドでのこれまでの発掘調査との関連で具体的に論じられる。論文
著者
三宅 威仁 Takehito Miyake
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 = Kirisutokyo Kenkyu (Studies in Christianity) (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.59-78, 2003-09-30

改革派認識論はアメリカ合衆国に移入されたオランダ新カルヴァン主義運動を母体とし、古典的基礎付け主義やそれに由来する無神論的証拠主義を論駁する意図をもって登場した。改革派認識論によれば、有神論的信念はキリスト者にとって適正に基本的であり、いかなる証拠によって基礎付けられていなくとも合理的である。また、キリスト教が真であると仮定すれば、キリスト教の諸信念は知識として保証される。
著者
ヤハロム ヨセフ 勝又 悦子 ヤハロム ヨセフ カツマタ エツコ Yahalom Joseph Katsumata Etsuko
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-15, 2016-06

講演(Lecture)シャブオートのピユート(典礼詩)には、初期の父祖たちがリストアップされ、彼らにトーラーを与えることをトーラー自身がまた天使たちが拒むというモチーフがある。これは一つには、トーラーを受けたモーセや割礼を初めて行ったアブラハム以前の父祖たちも義であることを理由に割礼などの戒律は不要だと主張するキリスト教側への論駁であろう。他方、こうしたピユートは、ラビ・ユダヤ教が対立していたはずの神秘主義文学シウール・コマとの並行関係がみられる。これより、ピユートには、キリスト教と対峙する標準的なユダヤ教の側面と、標準的なユダヤ教が対峙していたシウール・コマなどの神秘主義的な側面という、相反する側面を有していたことを意味する。訳: 勝又悦子
著者
稲山 聖修
出版者
基督教研究会
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.36-51, 2005-11

論文(Article)カール・バルトは著書『知解を求める信仰』において二つの課題を設定する。第一には神の存在に関するアンセルムスの証明をアンセルムスの主要著作にある固有の神学的プログラムに即して評価すること、第二には厳密な本文批評に則り『プロスロギオン』二章から四章全体の注釈を行ったうえでその証明を評価することである。本研究では第一の課題に着目し、バルトが理解した神の存在証明の方法を考察する。次に第二の課題を視野に入れながら、キリスト教の啓示を否定する「人間的対向者」との対話の形式に注目する。さてアンセルムスによる神の存在証明は「知解(intelligere)」として理解される。バルトはこの問いを「神」という言辞の解釈問題として受けとめ、その課題に取り組む。ところでバルトによればアンセルムスは人間的対向者について、一般的な人間理性の地盤に赴くことなしに、なおかつこの対向者に回心のような条件をつけることなしに公平な議論が可能であるとし、自らの神学を展開する。つまりアンセルムスはその神学そのものに証明力があり対向者を確信させる力があると信頼するのである。本研究はこの信頼の根拠をアンセルムスが提示したrectitudo概念に求め、バルトの結論と照らし合わせることを目的とする。Karl Barth addressed two topics in his work, Fides quaerens intellectum. First he assessed Anselmʼs proof of the existence of God within the series of other Anselmic proofs, that is, in the general context of his own particular theological program. And second, he evaluated it with an exegesis of the whole passage (Pros.2-4) through exact textual criticism. This article investigates how Barth grasped the existence of God through the assessment of the Anselmic proof. The article then focuses on the form of dialogue between Anselm and a "human opposite number", who had rejected the Christian revelation. Anselm's proof is known as intelligere. Barth accepted it as an interpretation on the word of "God", and was challenged to solve it. In Barth's view, Anselm assumed that Christians and non-Christians could discuss this proof in a sprit of impartiality, without accepting universal human reason, or stipulating that the "unbeliever"has to be converted into a believer. In other words, Anselm trusted that his theology contained enough proof within itself that anyone who understood it would accept it. This article seeks therefore to find the reason why Anselm trusted that those who understand this dialogue would accept his theology. This is combined with Anselmʼs concept of rectitudo, and aims at checking this assumption by comparing it with Barth's.
著者
菊川 美代子
出版者
同志社大学
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.91-104, 2011-12

論文(Article)矢内原忠雄(1893-1961)は、無教会主義の創始者である内村鑑三の弟子である。これまでの神学における先行研究では、内村や矢内原の「日本的基督教」構想を分析することで、国家に対して無批判に迎合せず、批判的な距離を保つことのできるキリスト教土着化の望ましいあり方が探られてきた。しかし、本稿では矢内原のそのような「日本的基督教」を分析し、一見超国家的なものとして意識されている、キリスト教という「世界宗教」が、実はいかに国家に根ざしたものであったのかということを明らかにする。Tadao Yanaihara was a disciple of Kanzō Uchimura who founded the Non-Church Movement. In subsequent studies of theology, Uchimura and Yanaihara's "Japanese Christianity" was studied as one of the best hints on how to indigenize Christianity in Japan without justifying a state without any check on its power and on how to keep an appropriate distance from state. Therefore, I analyze the term "Japanese Christianity" and consider how Yanaihara was able to take "Japan" as an object of theology. However I want to prove that Christianity, regarded as one of the world's great religions and super-national, actually arises thorough studying of his idea of "Japanese Christianity."
著者
村山 盛葦
出版者
同志社大学
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.13-25, 2011-06

論文(Article)1コリント11章で問題となっている「主の食卓」について、従来の研究ではサクラメントとしての聖餐や聖体(パンとぶどう酒)、あるいはキリストの臨在についてなどおもに宗教的、神学的考察対象として扱ってきた。他方、パウロが明言している「主の食卓」と信徒の病気・死亡の関係はほとんど積極的には考察されてこなかった。本小論ではその因果関係をギリシア・ローマ世界に根付いていた「饗宴(συμπόσιον、convivium)の文化」から解明を試みる。最近の研究により「主の食卓」の問題はキリスト教会特有のものではなく、ギリシア・ローマの食事会という伝統的社会制度に起因していることが分かってきている。本小論は暴飲暴食がひとつの重要な要因であったこと、そして不純物が食卓に混入された可能性があることを論述する。この仮説は、ギリシア・ローマ世界に「饗宴の文化」が普及していたこと、そして都市コリントに住むキリスト教信者がその文化を享受していたことを考慮するならば、全くの見当外れとは言えないことが分かるだろう。In previous studies, the problem of the Lord's Table in First Corinthians, Chapter 11 has interested scholars in investigating the Eucharist and the Elements, or Christ's existence in the Eucharist from the religious and theological point of view. On the other hand, scholars have not paid full attention to the relation between the Lord's Table and sickness and death, to which Paul is clearly referring. This article tries to shed light on this relation in view of the culture of the symposium and feasting that was an integral part of the Greco-Roman world. From recent studies, it has turned out that the problem of the Lord's Table was not something unique to the church, but arose from a traditional, cultural institution, namely, the Greco-Roman dinner party. This article argues that gluttony was an important factor in the problem and that poison was possibly put secretly into food or wine at the Lord's Table. This hypothesis is reasonable when we take into account the culture of the symposium and the enjoyment of this culture by Corinthian Christians.
著者
関谷 直人
出版者
同志社大学
雑誌
基督教研究 (ISSN:03873080)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.1-18, 2010-07

講演(Lecture)「黒人霊歌」は主に18世紀から19世紀にかけて奴隷としてアフリカからアメリカ大 陸に連れてこられた人々の経験から生み出されたキリスト教音楽である。作者不詳のある種の「Folk song」である黒人霊歌は、単に彼らアフリカン・アメリカンの苦難と喜びを表現した素朴な「生活の歌」であるだけでなく、アフリカ南部から自由の地である北部への脱出に対する希望を表した非常に「政治的」な要素も持っている。本講演では、そうした「黒人霊歌」の重層的な性質を考慮にいれながら、その特徴と機能について言及する。また、米国におけるアフリカン・アメリカンがおかれていた状況や、当時の白人教会における教会音楽の状況に触れながら、「黒人霊歌」がその時代のアメリカのキリスト教会全体に与えたインパクトについて考察し、それが現代の日本のクリスチャンにとって持っている意味を述べて結論とする。"African American Spirituals" are Christian music that emerged among the African Americans who were brought from Africa to the United States as slaves in the eighteenth and nineteenth centuries. This anonymous music, which resembles "folksongs," is not only the music of daily life in which African Americans expressed their sorrows and joys but also the political songs through which they dreamed of escaping to the north, the land of freedom. I explore the character and the function of "African American Spirituals" by referring to the multilayered nature of the music in this lecture. I observe how such music impacted contemporary white Christian churches by examining the situation of African Americans and the music of white churches in the sixteenth to nineteenth centuries in the United States. I close my lecture by mentioning what "African American Spirituals" mean to contemporary Japanese Christians.P.1の要旨の文中に誤りあり (誤)アフリカン・アフリカン → (正)アフリカン・アメリカン