著者
宮寺 晃夫
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.259-267, 365, 1-2, 1999-09-30

教育学研究は、それぞれの分野では領域固有性を深めているものの、初学者のための基礎過程を欠いたままできている。学校の中での教師-生徒間の実践に焦点を合わせたペダゴジーが、初学者を教育学的思考に導いていくための教養として、また、教育学研究の学問としての同一化をはかるための教養として、すでに力を失っていることは周知のことである。そこで本論文は、教育学における教養の拡充に対するリベラリズム哲学に関わりを検討する。そのさい、ペダゴギーとしての教育学の教養と、アンドラゴジーとしての教育学の教養とを対比しながら、「中立性の価値」に基礎を置くリベラリズム哲学が、価値多元的な社会における教育学的教養としては不充分であり、卓越主義的リベラリズムによって拡充される必要があることを示していく。 リベラリズム哲学は、教育に対して二つの異なる方針を要求している。すなわち、あらゆる利害に対して中立的であることと、どのような人をも自律的にすることである。中立性というリベラリズムの価値は、R.Dworkinによってリベラリズムの中心的価値の一つとして位置づけられており、教育学とそれの教師教育における実践に自律性を基礎づけてきた。しかし、中立性の価値が教育学にとっての価値になるのは、自分自身の善き生を自律的に選択することができる個人が存在する限りにおいてである。A.Maclyntreが論じているように、近代はそうした自律的な個人としての「教育された公衆」が存在する可能性を排除してきた。その結果、中立性の価値は、どのような善き生をも示すことができず、教育学的教養としては有効ではないものに止まっている。 個人の自律性もまた、それが「道徳的自律性」であることが明らかにされない限り、意味のある価値としては認められない。それゆえ、教育学的教養を拡充するために解明されなければならないのは、「道徳性の価値」である。リベラリズム哲学の中立性のスタンスと自立性のスタンスは、どちらも、道徳性をすべての価値の上位に置いているものの、教育における道徳性の価値を明確にすることができていない。それに大して、リベラリズムの諸価値に対するJ.Razの卓越主義の理論は、自律性と道徳性との親密な関係を、「幸福」(well-being)の名のもとで考察していっており、市民の自己形成活動に対する公的支援について重要な示唆を与えてくれる。Razは、自己決定と選択を擁護するが、それは、それらが公共善と切り離されていない限りにおいてである。本論文は、結論として、リベラリズムに依拠する哲学者の諸議論が、教育学の教養、とりわけてアンドラゴジーとしての教育学の教養を拡充していく上で、深い関わりがあることを述べた。アンドラゴジーにおける教養は、ペダゴジーのそれとは異なって、あらゆる教育的な支援に正当化を求めていくのである。本論文の目次は以下の通りである。 [1] 問題の所在 [2] リベラリズム哲学における二面性 (1) リベラリズムと教育学的教養 (2) リベラリズム哲学の教育理念 (3) 現代におけるリベラリズム哲学の二面性 [3] リベラリズム哲学から見た教育学的教養 (1) 現代教育の課題の二面性 (2) リベラリズムの価値としての中立性と自律性 (3)リベラリズム哲学のアポリアとしての道徳性 [4] 卓越主義的リベラリズムと支援としての教育 (1) リベラリズムと価値多元主義 (2) 卓越主義のリベラリズム (3) 卓越主義のリベラリズムと支援としての教育 [5] 結び
著者
馬上 美知
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.420-430, 2006-12-29

本稿ではロールズ的な分配論とは異なる視点から格差問題にアプローチしているM.C.ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチに着目する。そして「ケイパビリティ」概念を明らかにすることを通してこのアプローチを検討した結果、その可能性と課題が見出された。人間らしい機能への条件が整っている状態としての「ケイパビリティ」は、どのような「財」がどの程度必要とされているのかを明らかにすることができる。その際教育は機能を充足させることで「内的ケイパビリティ」を発達させ、かつ自己教育をすることによって当人をエンパワーメントし、「善き生」を保障する上で重要なものであった。ケイパビリティ・アプローチはロールズ的な分配論以上に実質的な「機会の平等」を保障しえる。しかしどの程度「ケイパビリティ」を保障するのか、その決定方法や子どもの時分に満たされるべき「機能」についてさらなる検討が必要とされる。
著者
大場 淳
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.2, pp.185-196, 2009-06-30

高等教育の市場化は世界的傾向である。我が国では1990年代以降、大学設置基準の大綱化をきっかけとして市場化が本格化した。21世紀に入って、市場化は構造改革を進める小泉内閣の下で一層進められたが、同時に整備されたのは強い統制力を持つ事後監視・監督制度であった。世界化・大衆化する高等教育の市場化は不可避であるが、現行制度では大学が創造性を発揮しつつ市場化に適切に対応することは困難である。業績評価の軽減を始めとして、真の自律性拡大に向けた高等教育制度の全般的な見直しが求められる。
著者
牧野 篤
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.371-384, 2010-12-27

従来、「教育」概念を社会的な知の分配システムとして規定してきた個人の存在と社会の構成のあり方が大きく変容し、教育はすでにシステムとしては定義できなくなってきている。教育は、むしろ、知を生成するさまざまなOSが自生的に成長していく、ある種の生態学的なプラットフォームの様相を呈している。それはまた、知を生成、循環させ、その過程で<わたし>を<わたしたち>へと多元的に結び直していくプラットフォームであることを自ら要請している。
著者
野平 慎二
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.281-290, 2000-09

この論文は、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論を手がかりとして、教育の公共性の問題について論じるものである。従来、教育の公共性の問題は、学校と国家との関係の問題として論じられ、国家による公共性の独占と、国家権力による学校教育への干渉を国民の側でいかに防ぐかが大きな論点であった。しかしながら今日では、むしろ国民として一括されてきた人々の多様性が前面に現れ、そのことによって教育の公共性が揺るがされるとい事態が生じている。例えば、さまざまな共同体のアイデンティティーの承認の要求と公教育の中立性をいかに調整するのか、自由主義的な教育における選択拡大の要求と、教育の共同性をいかに調整するのか、といった事態である。ひるがえって、ハーバーマスは、市民的公共圏の理念を現代社会の条件のもとで実現させるべく、コミュニケーション的行為の理論とディスクルス原理を提示している。市民の公論による権力のコントロールという公共圏の理念が教育の分野においていかなる形で実現可能なのかを探ることは、なお問うに値する問題であろう。以下ではまず、ハーバーマスの説く政治的公共圏の可能性について、自由主義および共同体主義との対比を通して考察したい(I)。続いてその政治的公共圏を担うコミュニケーション的主体とその形成について論じる(II)。この作業を通して、教育の公共性とは、共通善や普遍的人権といった、教授可能な実体が備える性格として考えられるべきではなく、私的であると同時に公的であるという主体の両義性をつねに保持してゆくために遂行される議論と実践の過程を停滞させないための一種の仕掛けとして捉えられるべきであることを示したい。
著者
中垣 啓
出版者
日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.p41-50, 1975-03
著者
吉岡 直子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.505-517, 2007-12

学校における日の丸掲揚・君が代斉唱は、学習指導要領の改訂の度ごとに強制の度を増してきた。この傾向は1989年改訂以降、特に顕著であり、日の丸・君が代を事由とする教職員の処分事例は増加している。本稿では、今日、教育裁判の一つの領域を形成するに至った一連のいわゆる日の丸・君が代裁判の態様と展開課程を概観し、それらの事案や争点が多岐にわたり、90年代後半以降急増していることを確認する。そして、多様な争点のうち、教育内容への国家関与に焦点を絞って判例を検討し、それらが学習指導要領と日の丸・君が代の強制の可否をどの様に論理づけたか、学テ最高裁判決における「大綱的基準」説をどのように解釈し継承するものであるかを考察する。
著者
清水 睦美
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.457-469, 2006-12-29

本稿では、筆者が1997年以降継続している神奈川県内のある公営団地に住むニューカマーの子どもを対象としたフィールドワークをもとに、ニューカマーの青年期の問題のうち、次の2点について問題提起を行う。第1に、学校から就労へという日本人には自明視されるキャリアトラックからの外国人の排除である。それは、外国人が制度的に日本の学校教育にアクセスしにくいことと、就学後の学校における外国人児童生徒の周辺化によって、外国人のフリーターや無業者は必然として生み出されていくことを明らかにする。第2に、学校から就労へのキャリアトラックからの排除から逃れた場合に直面する問題として、就職した職場に浸透している「固定化された外国人像」による問題と、大学進学の場合、「国際」といった名のもとで、外国人であることが、かれらの必要を越えて注目される「『外国人』というラベルの消費」の問題を明らかにする。
著者
山下 絢
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.13-23[含 英語文要旨], 2008-03
被引用文献数
3

学級編制標準に関する法制度改革を背景として、各自治体において少人数教育が実施されると同時に、その効果検証がより重要になっている。また政策評価の観点からも、少人数教育の効果をどのように測定していくのか、その方法論の検討が重要性を増していると言える。こうした状況を踏まえて、本稿は学級規模縮小の効果に関する研究蓄積が豊富である米国の研究動向を明らかにしていく。具体的には、1970年代後半から2006年までの研究を対象として、インパクトファクターなどを用いた引用回数別のリストを作成し、(1)論者、(2)データセット、(3)分析モデル、(4)効果の捉え方(知見)および政策的含意の整理、検討を行った。先行研究ではGlass and Smithの研究が主にレビューされてきたが、本稿は作成したリストをもとにレビューを行い、学級規模縮小の効果検証における有効な方法論の提示を志向する。
著者
八木 美保子 水原 克敏
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.444-456, 2006-12-29
被引用文献数
1

ニートやフリーターの増加といった若年就業問題が国家的課題とされ、学校教育にキャリア教育を求める声は強い。これは大学も例外ではなく、多くの大学でキャリア教育が導入されている。しかし、政策が一人歩きしている感は否めず、実態はこれまでの就職支援の強化に留まっている場合が多い。加えて、大学では多くの学生がカルト教団へ引き込まれたり、不本意入学による自己否定感を払拭できずにいたりなどの自己形成に関わる問題を抱えている。これに対処するためには、大学は新たな教育機能を整備することが求められているのである。「自分ゼミ」の実践を通して明らかになったのは自己形成に苦闘する学生の姿であった。ある学生達は自己肯定感が乏しく自己と対略することから逃避しがちであり、またある学生達は、内省及び他者との価値観の交流によって自己認識を深めようとするのである。そこで、筆者らは、「自分ゼミ」のような自己形成を基盤とするキャリア教育カリキュラムを、大学入学から卒業まで学生の発達段階に応じて設定するよう提案する。