著者
橋本 美保
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.3, pp.309-321, 2009-09-30

明石女子師範学校附属小学校の主事及川平治の生活単元論は、主として米国の経験単元の原型ともいえる「作業単元」と、欧州の発生心理学者が提唱した「興味の中心」理論の影響を受けて形成された。特に子どもの成長を発生学的に捉えるフェリエールやドクロリーの生活教育論は、及川の「生活」概念に変化をもたらした。及川は1934年頃までに、スコープとシークエンスを設定する単元の構成原理や、プロジェクト・メソッドによる単元の展開方法を構想しており、そこには彼自身の単元論の形成と戦後の生活単元学習の萌芽が認められる。
著者
金田 裕子
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.201-208, 2000-06-30 (Released:2007-12-27)
被引用文献数
1

<摘要邦文訳>本稿では、教室の会話に教師と子どもたちがどのように参加しているのか着目し、参加の様式の特徴を記述する方法を検討する。授業の過程は、単に認知的なだけでなく、知識と言葉を媒介にして参加者たちが社会的な関係を構成する過程でもある。その際に鍵になる概念は、エリクソンの提示した参加構造である。この概念は、いつ誰が誰に、何を言うことが出来るのかに関しての参加者たちの権利と義務であると定義できる。参加構造の研究は、教師と子どもたちの相互作用場面でのトラブルが、コミュニケーション様式についての予想が互いに異なることによって起こっていると説明してきた。しかし本稿では、以下の二点から参加構造の研究の新しい可能性を探りたい。第1に、参加構造の研究が提示している視点と研究方法は、教室に混在する会話の規則の静的なパターンを明らかにしているだけではない。コンテクストが変化するのに伴い、参加者たちの役割関係は再配分され、協同的な行為において異なる形状を作り出している。そうした点に着目することで、参加構造の研究は、教室の会話が即興的に展開していく側面を記述することを可能にする。個々の教室における参加構造の微細な変化は、会話の順番どり、発話のタイミング、会話フロアの生成に着目して記述することができる。教室の会話における即興的な側面を記述することで、子どもたちが積極的に状況を構成し、また教師が様々な方略を用いてコミュニケーションを組織している複雑な過程を捉えることが可能になるだろう。第2に、学習課題との関連をどのように捉えるかである。従来の参加構造の研究においては、構造的な会話の規則は、発話の際の手続きややりくりを簡素化して、学習の内容に集中できる機能を果たしていることが示されていた。しかし、教室のディスコースと学習課題の関係は、より複雑である。キャズデンが示した教室の「ディスカッション」では、即興的な会話の連続においては話題の選択に関する役割関係が重要になってくることが予見されていた。ランパートの研究において参加構造は、「何を知識とみなし、どのように知識を獲得するか」を決定するやり取りにおける権利と責任の配置として再定義される。その様な参加構造の形成によって、妥当な知識を決定する権威は教師から生徒たちのディスコースコミュニティへと移行し、同時にディスコースコミュニティの形成と維持において教師が果たす役割の複雑な側面が明らかになる。
著者
山本 和行
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.13-22, 2009-03-31

本稿は大日本教育会編『全国教育者大集会報告』第1・2巻(1890年)に基づき、1890年5月に全国の教員・教育関係者を集めて開催された全国教育者大集会の議論を分析し、議論に現れていた「国家教育」論の内容を明らかにしようとするものである。大集会での議論は、日本の近代学校教育制度形成の画期である1890年10月の第二次小学校令・教育勅語発布の直前に行われたものとして、重要な意味を持つ。その内容を分析すると、大集会に現れた「国家教育」論は教育理念や教育内容・方法に関する問題というよりも、市制町村制施行を強く意識し、教育費負担の問題を中心とした教育の管理運営に関する問題として議論されていた。しかも、そこでイメージされていた国家と教育との関係は多様なものであった。そのうえで、そうした議論のありようが「国家教育」を標榜する国家教育社の結成にあたって、どのように作用し、吸収されていくのかを明らかにした。
著者
金田 裕子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.201-208, 2000-06-30
被引用文献数
1

<摘要邦文訳>本稿では、教室の会話に教師と子どもたちがどのように参加しているのか着目し、参加の様式の特徴を記述する方法を検討する。授業の過程は、単に認知的なだけでなく、知識と言葉を媒介にして参加者たちが社会的な関係を構成する過程でもある。その際に鍵になる概念は、エリクソンの提示した参加構造である。この概念は、いつ誰が誰に、何を言うことが出来るのかに関しての参加者たちの権利と義務であると定義できる。参加構造の研究は、教師と子どもたちの相互作用場面でのトラブルが、コミュニケーション様式についての予想が互いに異なることによって起こっていると説明してきた。しかし本稿では、以下の二点から参加構造の研究の新しい可能性を探りたい。第1に、参加構造の研究が提示している視点と研究方法は、教室に混在する会話の規則の静的なパターンを明らかにしているだけではない。コンテクストが変化するのに伴い、参加者たちの役割関係は再配分され、協同的な行為において異なる形状を作り出している。そうした点に着目することで、参加構造の研究は、教室の会話が即興的に展開していく側面を記述することを可能にする。個々の教室における参加構造の微細な変化は、会話の順番どり、発話のタイミング、会話フロアの生成に着目して記述することができる。教室の会話における即興的な側面を記述することで、子どもたちが積極的に状況を構成し、また教師が様々な方略を用いてコミュニケーションを組織している複雑な過程を捉えることが可能になるだろう。第2に、学習課題との関連をどのように捉えるかである。従来の参加構造の研究においては、構造的な会話の規則は、発話の際の手続きややりくりを簡素化して、学習の内容に集中できる機能を果たしていることが示されていた。しかし、教室のディスコースと学習課題の関係は、より複雑である。キャズデンが示した教室の「ディスカッション」では、即興的な会話の連続においては話題の選択に関する役割関係が重要になってくることが予見されていた。ランパートの研究において参加構造は、「何を知識とみなし、どのように知識を獲得するか」を決定するやり取りにおける権利と責任の配置として再定義される。その様な参加構造の形成によって、妥当な知識を決定する権威は教師から生徒たちのディスコースコミュニティへと移行し、同時にディスコースコミュニティの形成と維持において教師が果たす役割の複雑な側面が明らかになる。
著者
苅谷 剛彦
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.327-336, 1997-09

近年、日本では高等教育進学率が急速に上昇しつつある。若年人口の減少が、その上昇を加速している。現在46%の大学進学率は、20世紀初頭にはには60パー近くにまで上昇すると予想されている。このような高等教育機会の拡大の中で、日本の有名な「試験地獄」は存続するのか。それとも、それは終焉を迎えるのか。非エリートの学生たちがますます大学に進学することにより、新たな教育問題が発生するのか。さらには、近年の教育改革論議において、こうした問題は果たして注目されているのか。この論文はこれらの問題に答えようとするものである。教育研究者も教育評論家も、これまで入学試験をいじめや不登校などの教育問題を生みだす原因として批判してきた。「試験地獄」は、これまで長い間日本の教育における主要な問題点の一つであった。そして、こうした学校の諸問題を解決するために、受験のプレッシャーを軽減することが改革の中で目指されている。しかしながら、この論文で示すように、すでに4割りに近い大学入学者は、推薦入試をへることで、こうした厳しい選抜を回避している。また、すでに多くの大学が、より多くの志願者を集めるために、入試科目数の削減を行っている。このような入学者選抜制度の変化の結果、受験のプレッシャーはたしかに弱まりつつある。しかしながら、こうした入学者選抜の改革は、大学教育に新たな問題、それもこれまで日本の大学が体験してこなかった問題を生みだしている。たとえば、近年、補習教育を取り入れた大学が現れた。また、学生の多様な学力に対応するために、能力別学級を始めた大学もある。日本社会が「価値多元化社会」に近づくかいなかにかかわらず、高等教育機会の急速な拡大のために、あらたな問題が大学教育で発生しつつあるのだ。多くの改革論者たちは、いまだに「試験地獄」を問題視する視点にとらわれている。しかし、現実は、それとは反対の方向に動いている。そうだとすれば、受験の圧力を減圧しようとする改革は、その意図をくじかれてしまうのではないか。そうした改革の意図せざる結果は何か。とりわけ、厳しい選抜をへずに大学に入学してきた学生と、彼らを教える大学教師たちにとって、どのような新たな問題が生起するのだろうか。アメリカにおける高等教育のマス化常態について概観した後で、この論文では、東京の13の高校の3年生を対象に行った調査データを分析する。その分析によって、(1)容易に大学に入学する学生が増えていること、(2)彼らは従来よりも低い学力の持ち主であること、(3)大学の教育には適しない態度を身に付けていることなどを明らかにする。これらの結果に基づき、この論文では「すべてのものに高等教育を」という理想の実現は、教育問題の解決に結びつくのではなく、むしろ、これらの問題を中等教育から高等教育レベルに遅延するにすぎないことを議論する。
著者
仲 新
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.39-51, 1956-06-25 (Released:2009-01-13)
参考文献数
8
著者
佐貫 浩
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.493-504, 2007-12
被引用文献数
1

本論の課題は、政治世界の公共性によって正統化された政治権力からの相対的自律性を有した教育の公共性世界の意義、その教育学的及び法的な枠組みの不可欠性を指摘することにある。またそういう視点から戦後の教育行政政策の変化、新自由主義的な市場的公共性に依拠した教育改革の性格、教基法の「改正」(2006年)の意味を明らかにし、併せて、そういう視点から国民の教育権論を発展的に継承する筋道を検討しようとした。
著者
平田 宗史
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.1-12, 1978-03-30 (Released:2009-01-13)
参考文献数
71